事件発生(2)
久万秋はノックもせず、無遠慮に部屋の扉を開けた。スーパーまでの長い道のりを歩かされたことに、精一杯不満を表しているようだった。沢渕は閉まりかけた扉に、買い物袋を下げた手で応戦した。
奥からはみんなの笑い声が漏れてくる。
「おい、今帰ったぞ」
クマは野太い声を上げた。
「買い出し、ご苦労さん」
予期せぬ男の声がした。堀元直貴だった。
「おお、直貴。来てたのか」
「こんばんは」
沢渕は頭を下げた。
「ちょっと遅かったんじゃない?」
「お疲れさまでした」
叶美と多喜子の二人はすっかり服を着替えていた。二人ともトレーナー姿で、普段見慣れないその出で立ちは、沢渕にとって新鮮に映った。
二人は顔を見合わせると、
「それでは準備といきましょうか」
「はい、先輩」
と、台所に立った。
そんな二人の背中を目で追いながら、久万秋と沢渕はこたつ机を陣取った。すでに机の上にはホットプレートが用意されていた。四辺に五人で座るにはどうしたらよいか、と沢渕は考えた。
「直貴、いつ来たんだ?」
「ついさっき、さ」
「お前、明らかに時間差攻撃したな?」
「ん?」
「だから、買い出しにいかなくて済むタイミングを見計らって来た、ってことだよ。それも推理のなせる技か?」
「違うよ。予備校へ寄って、模試の結果を貰ってから来たんだ」
直貴は人差し指で眼鏡を上げた。
「先輩、予備校に通っているのですか?」
沢渕が訊いた。
「まあね。僕の実力では、いい成績が取れないからね」
「そうだ、前回の期末はどうだったんだ。森崎に勝てたのか?」
「教科によっては勝ったけど、総合では彼女の勝ちさ」
三人は、台所に立つ叶美の背中に目を遣った。
「あいつは俺たちとは、ここが違うんだよ、ここが」
クマはそう言って、自分のこめかみ辺りを何度か指で突いた。
「ちょっと肉が多くない?」
奥から叶美の声がした。
「本当、何だか野菜が少ないような気がしますね」
多喜子も隣で同調する。
「いや、気のせいだろ」
「そう言えば、ホルモンは?」
沢渕が小声で訊くと、
「ここだよ、ここ」
クマは身体の後ろから小さな袋を取り出した。
「お前が森崎の注意を引きつけろ。その間に、俺が鉄板にばらまく」
果たして、そんなやり方でうまくいくのだろうか。
「いいか、名付けてホルモン解放作戦だ」
名前だけは無駄に格好がいい。
「直貴、そろそろスイッチ入れて頂戴」
「オッケー」
叶美と多喜子が具材を運んできた。見るからにして肉の量が圧倒的に多い。もっと野菜を買ったような気がするのだが、まさかクマはこちらがかごに入れる傍から、せっせと元に戻していたのだろうか。それしか考えられない。
鉄板の上にどんどん肉や野菜が並べられた。小さな部屋は、白い煙が立ち上り、食材を焦がす豪快な音で満たされた。
「お肉は、もう食べられると思います」
しばらくして多喜子が言った。
「よし、俺が毒味する」
クマが箸をつけた。
(何故に毒が?)
みんなの箸も鉄板の上を忙しく動き始めた。
「叶美先輩、この椎茸、おいしいですよ」
「そうね、タキちゃん特製バター風味ね」
「多喜子さん、この辺はどう。焼けてるのかい?」
直貴が訊く。
「端に寄せたのは大丈夫ですよ。焦げないうちにどうぞ」
「クマ、あなた、さっきから肉ばっかり食べてるじゃない」
叶美の呆れた声。
「もっと野菜を取りなさいよ、野菜を」
それにしてもクマのペースは異常に速い。鉄板から次々と肉が蒸発していく。
「沢渕くん、ちゃんと食べてる?」
叶美は後輩への気配りも忘れない。
「はい、何とか」
ここで久万秋の膝が沢渕の足に二度接触してきた。どうやら作戦開始の合図である。
「森崎先輩」
沢渕は突然言った。
「何?」
「今、胸の辺りに焼肉のたれが飛びましたよ」
「えっ?」
叶美は服を引っ張るようにして、染みを探し始めた。
今だ。
クマはすかさず袋を取り出すと、それを逆さまにして何度か振った。鉄板上に拡散したホルモンを素早く野菜の下へ隠す。
「どこも、染みになっていないけど」
「あれ、どうやら僕の気のせいですね」
「あら、いつの間にか、キャベツ増えてない?」
叶美は鉄板に目を戻した瞬間、異常を感知したようだ。キャベツをめくるようにして中を確かめた。
「ちょっと、誰よホルモン入れたのは。ブヨブヨして気持ち悪いじゃない」
全員がクマの方を睨んだ。
「えっ、俺?」
「あんた以外に誰が食べるのよ?」
叶美の怒りの声。多喜子と直貴は堪らず吹き出した。
作戦はあえなく失敗に終わってしまった。
鉄板の上が寂しくなると、多喜子はキャベツを足して、そこへ焼きそばを広げた。そしてコーンスープをみんなに配った。
「タキちゃんの作ったスープはおいしいわね」
叶美が多喜子を褒めた。
「うん、確かにタキの作った飯はうまい」
クマがご飯を頬張りながら言った。沢渕も同感だった。
今晩はここへ来てよかったと思った。ふれ合いが希薄に思えた探偵部も、実はそうではなく、心の通ったメンバーで成り立っていることが分かった。別に事件なんて起きなくてもいい。こんな風にみんなと一緒にいたいと思った。
食後、多喜子がコーヒーを淹れてくれた。五人はそれを飲みながら、話に花を咲かせた。学校のこと、探偵部のこと、それぞれの趣味のこと、話題は尽きなかった。
楽しい時間はあっという間に過ぎていく。時刻は九時を回っていた。
「さて、これにて沢渕くん歓迎会とタキちゃんを励ます会はおしまい。どうか男子諸君はお引き取りください」
叶美が笑顔で言った。
沢渕はこれが自分の歓迎会だったとは思いも寄らなかった。
こうして男三人は佐々峰家を後にした。
男子が帰ってしまうと、部屋は叶美と多喜子の二人になった。さっきまでの賑わいは嘘のように消え、静寂に包まれていた。
多喜子は今、流し台に立って一人で洗い物をしている。叶美も手伝おうか、と言ったのだが、台所が狭いので二人並んで洗うことはできないという。
仕方なく叶美は今日一日疲れ果てた身体をだらしなく倒した。そのとき何かが手に触れた。
見ると、数冊の女性雑誌だった。
「タキちゃん、こんなの読むの?」
台所に向かって声を上げた。
「はい、古本屋でまとめ買いしました。安くて助かるんですよ」
多喜子は背中を向けたまま、そう返した。
一番上の雑誌を取り上げて、中をパラパラとめくった。ファッションから芸能、インテリア、ブランド品など女性向けの話題が目白押しである。子供だと思っていた多喜子も、いつしか大人になったんだな、と思った。
仰向けになりながら、叶美はしばらくページをめくっていた。
特に読みたくなるような記事はなかった。ただ何となく紙面を眺めているだけだった。
しかし突然、叶美の全身に衝撃が走った。
華やかな女性雑誌には似合わない不気味な記号。彼女はそれを見逃さなかった。
しばらくその暗号と睨み合った。しかしそれは叶美に何も語り掛けてはこない。仕方なくページを戻し、また先へ進める。そんなことを何度か繰り返した。
「何よ、これ」
叶美は弾かれたように身体を起こした。
その頃、男三人は夜風に当たりながら、並んで歩いていた。団地の中を貫く一本道をひたすら進む。この時間、すれ違う人はまばらだった。
「森崎は今晩、多喜子さんの所に泊まるつもりだな」
そう言ったのは直貴だった。
沢渕と久万秋は驚いて、
「そうなんですか?」
「マジかよ?」
と、同時に声を上げた。
直貴はそんな二人にお構いなく、
「多喜子さんのことが心配なんだよ」
と付け足した。
「ってことは、あれは森崎の寝間着か」
クマはやや興奮した口調で言った。
「部長は随分と後輩の面倒見がいいんですね」
沢渕が言うと、直貴は、
「そうだね」
とだけ答えた。
大通りまで出たところで、クマとは別れた。直貴と沢渕は電車で帰るので、駅まで一緒に行くことになった。
「佐々峰さん、お母さんがいないそうですね」
車のヘッドライトを次々と浴びながら、沢渕は切り出した。
「交通事故で亡くなったらしい」
直貴の眼鏡のフレームが光を放った。
「どうやら小学生の時だったらしい。彼女は相当なショックを受けたと思うよ」
肉親を亡くすという経験を沢渕はしたことがない。今から帰る先には家族が待っている。そう考えると、多喜子の境遇が哀れに思えた。
しかも今夜は、多喜子は独りぼっちだったのだ。
だから叶美は彼女の家に泊まるのか、そう納得した。彼女の気遣いに心が温かくなった。自分も多喜子を助けてやりたいという気になった。
突然、二人の携帯がそれぞれの音色で鳴り出した。メールの着信を知らせるものだった。
「おや、どうやら事件発生のようだな」
メールは、探偵部全員の招集だった。