晶也とクマ(1)
沢渕のすぐ目の前で、クマは腕を組んで無言で立っていた。おそらく鬼の形相でこちらを睨みつけているのだろうが、窓から差し込む強い西日がその表情を奪い取っていた。
まもなく列車は隣町に到着する。犯行に使われたバスを所有していた武鼻自動車サービス、そして叶美が襲われた廃ボーリング場の調査がこの後待っている。
クマは満員電車の中で、じっと何かをこらえているようだった。身体全体からひしひしと伝わってくる。それは沢渕への不満に違いなかった。
車両が大きく揺れる度、クマの交差した太い腕は沢渕の顔面に押しつけれた。必要以上に圧力を感じる。鼻息もドライヤーの『強風』のように沢渕の髪の毛を揺らした。
「クマ先輩、随分とご機嫌斜めですね?」
ようやくできた隙間から、そんな声を出した。
「当たり前だろうがっ」
二人は列車を降りると、乗降客のうねりに逆らうことなく改札を出た。やはり夕方のこの時間、田舎の駅も大いに賑わいを見せている。
「おい、晶也。ありゃ一体どういうことだ? ちゃんと説明してもらおうか」
「何のことですか?」
沢渕はとぼけて言った。
「決まってるだろ、橘雅美のことだ」
彼女は叶美と生徒会長の座をかけて戦った、いわばライバルである。しかもクマとの間には確執があった。もし叶美が選挙に負けるようなことになれば、探偵部はどうなってしまうのか、部員の誰もが疑心暗鬼であった。
果たして選挙の結果、雅美は敗れ、探偵部も平穏無事を取り戻したかのように見えた。しかし沢渕の手引きで彼女は探偵部に入部した。それにはクマのみならず、メンバー全員が驚いたに違いない。
「どうしてあの女を探偵部に引き込んだ? その訳を聞くまでは、お前とは一緒に捜査できねえぞ」
クマは脅しともとれる低い声で言う。
「部長の安全のためです」
「そりゃまたどういうことだ?」
「森崎先輩は一昨日犯人グループと接触しました。つまり犯人側に面が割れた訳です。前回は幸い警告だけで済みました。しかし次は何が起こるか分かりません。ですから外出は控えてもらいたいのです」
沢渕が叶美の名を口にしたからか、クマは大人しく聞いている。
「つまり、森崎を守るために橘を?」
「その通りです。橘先輩は部長代理に適役だと思います」
「まあ、そうかもしれないな。個人的には好きになれねえが、アクティブといえば、確かにアクティブだからな、あの女は」
クマはすっかり落ち着きを取り戻した様子である。
「ところでお前、本当に森崎は危険だと思うのか?」
「はい、事件の核心に近づけば近づくほど危険度は増すと思います。何もそれは部長に限ったことではありません。僕ら探偵部員だってどうなるか分かりませんよ」
「なるほど、だから新メンバーを加えた、か」
クマは納得したのか、頷いた。
「しかしよ、何も橘じゃなくてもよかったんじゃねぇか?」
「いや、橘先輩は体操選手だから身体能力も十分高い。それに今回の選挙で生徒会に関わった人ですから、探偵部員になる資格は十分あるのです」
「そりゃ、そうかもしれんが、あいつは森崎とは違って、頭じゃなく身体で考えるタイプだからな。我々の足を引っ張らなきゃいいんだが」
クマは一つ大きなため息をついた。
実は、沢渕にはもう一つの理由があった。
叶美は今、自信を喪失している。自分の命の危険もさることながら、今後捜査を続けることで多喜子や奈帆子、直貴に危害が及ばないか、不安が拭い去れないのだ。しかし部長がそんなでは捜査が捗らない。その停滞ムードを一掃してくれるのが、橘雅美ではないかと考えたのだ。
駅舎を出ると、クマの柔道仲間たちが出迎えてくれた。リーダー格の寺田を筆頭に、梶山など見覚えのある顔が並んでいた。
「オッス」
「オッス」
柔道部の挨拶は非常に短い。
「沢渕さん、お久しぶりッス」
梶山が目を細めた。
カラオケ店を出るとすぐ、クマがメールで招集を掛けておいたのである。
「今日、お前たちに集まってもらったのは他でもない。犯人のアジトと思われる物件があるので、その調査を頼みたい」
クマは一昨日、叶美が襲われた廃ボーリング場の説明をした。
「森崎さんがそこで襲われたってのは本当なんッスか?」
説明も終わらないうちに、寺田が口を挟んだ。
「彼女は大丈夫だったんッスか?」
背の低い梶山も両手に拳を作って勢い込む。
「ああ、一時は錯乱状態に陥ったが、幸い大きな怪我はしていない」
「犯人が許せないッスね」
柔道部員らは口々に声を上げた。
クマは地図を手渡すと、
「犯人は今もそこにいるかどうかは不明だが、くれぐれも注意しろ。お前たちなら、十分互角に渡り合える」
「森崎さんの仇を取ってきますよ」
寺田が胸を叩く。
沢渕は叶美から聞いた情報を元に、地図の裏に見取り図を描いた。
「一番奥の部屋で犯人に待ち伏せされたようです。手前に防火扉があります。その扉を閉じないように、そこに一人配置してください」
「了解ッス」
「有事に備えて、常に脱出経路は確保してください。懐中電灯が必要になります」
「コンビニで買ってきます」
「おそらく犯人はもうそこに居ないと思いますが、注意してください。安全を確認したら、できるだけたくさん写真撮って、後で送ってくれませんか?」
「写真ですね、任せてください」
寺田が言った。
「可愛い女の子に手を出すとは、犯人が許せないッス。見つけたらボコボコにしてやりますよ」
梶谷が学ランの腕をまくって言う。
「あまり無茶はしないでください」
沢渕は殺気だった連中をいさめるように言った。
「それは大丈夫です。ところでお二人はどちらへ?」
寺田はリーダーらしく落ち着いている。
「俺たちは鏡見谷旅館のバスが置いてある、武鼻自動車の方へ行く。社長に会って話をつけてくる。俺たちは頭脳派なんだ。お前たち、肉体派とは違うんだ」
「分かりました。そちらもお気をつけて」
「犯人と出くわしても、お前たちなら必ず勝てる。気合いを入れて行ってこい」
「はい!」
五人は肩で風を切って歩き出した。
彼らの背中が見えなくなると、
「おい晶也、あいつら本当に大丈夫かな?」
クマが弱音を吐いた。
「何が、ですか?」
「凶悪な犯人たちと出くわさないか、ってことだよ」
「その点は大丈夫です。犯人はもうそこには居ませんから」
話では、頭部を殴打された叶美はしばらくその場に倒れ込んでいたらしい。その間に犯人たちは消えたというのだ。つまり連中の隠れ家は他にあることになる。そうでなければ、叶美も監禁されていたかもしれない。それを考えただけでもぞっとする。
「まあ、たとえ凶悪犯を目の前にしても、俺の仕込んだ柔道技で勝てるとは思うんだがなあ」
そうは言っても、クマは不安を隠し切れない様子だった。
「それでは、僕たちも出発しましょうか」
沢渕は先輩の背中を軽く叩いた。