叶美と晶也の共同捜査(2)
息せき切って路地を飛び出すと、遙か遠くに叶美の姿を捉えた。背筋をぴんと張り、両手を後ろに回して立っていた。微動だにしないその姿からは並々ならぬ緊張感が漂っている。一体これから何が始まろうと言うのか。
辺りを見回したが、怪しい人影はない。よって彼女の身に危険が迫っているという状況ではなさそうだ。何はともあれ、ひと安心である。
沢渕は走るのを止めて、今度はゆっくりと距離を詰めていった。これから起きる事態に備え、呼吸を整えておかなければならない。叶美はそんな沢渕に一度だけちらりと視線を寄こしたものの、すぐにまた正面の大きな敵を睨み付けている。
今、彼女の視線の先には、薄茶色の三階建てのビルがあった。コンクリートの壁は所々剥がれ落ち、大袈裟なひび割れが至る所を蝕んでいる。築二十年はゆうに超えたと思われるアパートだった。
沢渕は叶美のすぐ横まで迫ると、小さな声で訊いた。
「これですか?」
「そうなの」
彼女は建物から目を離さずに言った。どんな小さな異変も見逃さないといった様子である。
沢渕は正面玄関に立って、入口の真上に取り付けられた看板に目をやった。建物同様すっかり朽ち果てた文字を何とか読み取った。
「○○スポーツクラブ男子寮」
両開きの扉は外から木の板が打ち付けられていて、人の侵入を拒んでいる。見上げると各窓から茶色に変色したカーテンがずり落ちそうになりながら外を窺っていた。人の気配は感じられない。
どうしてこの建物に目を付けたのか、沢渕は問い掛けるように叶美の顔を覗き込んだ。
「こっちよ」
彼女は質問に答える代わりに歩き始めた。
二人は建物の裏側に廻った。この寮はちょうど道路の角に立っているので、何の苦労もなく別の角度から内部を観察できるという訳である。
しかしこちら側は敷地を囲う鉄板が隙間なく立っていた。そのため視界は遮られ、寮の三階部分がかろうじて見える程度である。それでもやはり人の営みは感じられない。上端部に取り付けられた有刺鉄線だけが黙って仕事をしているようであった。
一見、工事現場に見えなくもないが、工事をしている様子はない。概要を記した看板もなければ、建設機械の音もしないからである。遠くでカラスの鳴き声がゆっくりと通り過ぎていった。
地図で確認すると確かに敷地は広そうだ。これならマイクロバスを停めておくことができる。
「ここを見て」
叶美は沢渕の制服の裾を引っ張った。
出入口と思われる鉄板の勘合部に鍵が取り付けてあった。
ステンレス製の頑丈な鍵は明らかに最近の物である。崩壊寸前の寮を守る鍵としては、立派過ぎるぐらいである。今も誰かが出入りしていることを物語っていた。
「妙に厳重だと思わない?」
「確かに」
沢渕は率直に言った。
「中に何があるのかしら?」
「もしマイクロバスが停まっていたら、まさに僕たちが探し求めていた物件ですね」
寮ならば厨房設備はあるだろうし、十七人を監禁する広さも十分にある。しかし一つ気になるのは、人の暮らしている気配が微塵もないことである。
「単なる廃墟かもしれないけど、あなたはどう思う?」
「分かりません。しかし一応可能性がある以上、白黒はっきりさせたいですね」
一瞬二人の間に沈黙が生まれた。
「肩車をすれば中を覗けそうですね」
「そうね」
鉄の壁は高くて厄介だが、二人で力を合わせれば何とかなるだろう。
叶美と沢渕は互いに顔を見つめ合った。しばらく無言の時が流れた。
「沢渕くん、何ぼんやりしているの?」
「え?」
「早く下になってよ。肩車してくれるんでしょ?」
叶美が業を煮やして言った。
「いや、先輩が下の方がいいんじゃないか、と思いまして」
「こういう時は普通、女の子が上じゃないの?」
叶美は頬を膨らませた。
「だって先輩、そんな短いスカートで大丈夫なんですか?」
「えっ?」
一瞬彼女の動きが止まった。全身で何かを考えているようだった。
「そんなこと、あなたが心配することじゃないわ」
叶美はスカートの太もも辺りを両手でパンと叩いた。
「しー」
沢渕は思わず寮を見上げた。中にいる見張りに気づかれては元も子もない。しかしそんな心配をよそに、辺りはまるで時が止まっているかのように静まりかえっていた。今がチャンスかもしれない。
「先輩がそう言うのなら、僕は別に構いませんけど」
「それじゃあ、早くして」
「分かりました」
沢渕は壁に手をついて、膝を落とした。
「言っておきますけど、わざと上を見たら、即刻、退部してもらいますからね」
「はい、はい」
沢渕の両肩に叶美の白い足が跨がった。最初ふらついていたが、すぐにバランスを取った。
「先輩、それではいいですか? 立ちますよ」
「いいわよ」
沢渕はゆっくりと身体を伸ばした。叶美の身体がすうっと空へ持ち上がっていく。
膝が完全に伸び切った。
「どうですか、何か見えますか?」
叶美の返事を待っていると、まったく予期せぬ方向から野太い声が襲いかかった。沢渕は倒れそうになるほど驚いた。
「こら、君たちそこで何をしている?」
振り返ろうにも、鉄板に体重を預けている今、それは無理な相談である。この瞬間自分にできることは何だろうか。頭が混乱して、思わず天を仰いだ。そこには叶美の両足が空に向かって伸びていた。彼女も突然の出来事に驚いたのか、バランスを大きく崩した。
沢渕は慌てて背を縮めた。膝を半分ほど曲げたところで、叶美は我慢できずに飛び降りた。
「何をしていたんだ?」
さっきと同じ声が言った。
振り向くと、そこには制服制帽の警察官が立っていた。白い自転車を携えているところを見ると、どうやら巡回中だったらしい。これまたマズい相手に見つかったものである。
沢渕はうまい言い訳を探そうとしたが、心臓の動悸が収まらない。言葉が出ないのだ。
しかしどういう訳か、
「実は弟とボールで遊んでいたら、この屋敷の中に入ってしまって」
叶美の落ち着き払った声がした。これはあまりにも見え透いた嘘である。しかし相方がそう口にした以上、辻褄を合わせるしかなかった。
「ボールだって?」
警官は案の定、怪訝そうな声を上げたかと思うと、突然、
「ひよっとして、それって赤いボールかい?」
「はい、そうですけど」
不思議と会話が成立しているのである。何が起きたのか、沢渕には理解できなかった。
「それなら、あそこに落ちてるじゃないか」
彼の指は地面の数メートル先に向けられていた。見ると、確かにそこには赤いボールが転がっている。
「あら、そんな所に。どうも助かりました」
叶美は頭を下げた。
警官はまだ何か言いたそうだったが、
「こんなところで遊んでないで、早く帰りなさい」
と言い残し、自転車に跨がって行ってしまった。
急に静けさを取り戻した路地で、沢渕は叶美の方を振り返った。
「いやあ、危なかったですね。偶然とはいえ、ボールが落ちていて助かりました」
「何呑気なこと言ってるの。これが偶然な訳ないでしょ」
呆気にとられていると、叶美は赤いボールを拾って戻ってきた。
「何かに備えて、予め私がそこに転がしておいたのよ」
赤いボールはスポンジ製で、彼女の手のひらでキュッと小さくなった。
「そんなの、いつも持ち歩いているんですか?」
「探偵部なんだから、このぐらいの装備は当たり前でしょ」
沢渕は感心しきりだった。
「さあ、ここにはもう用がないわ」
その言葉で叶美は歩き出した。沢渕も続く。ちょっと先に合流を予定していた公園が見えていた。小学生がすべり台や鉄棒に元気よく群がっている。
叶美は木製のベンチに腰掛けた。沢渕も隣に座った。
「中には何かありましたか?」
「ちらっと一瞬だったけど、バスは置いてなかったわ。卓球台やバットやゴルフクラブなどが散乱してた」
「ふうん」
有刺鉄線を張り巡らせて管理を厳重にしているのは、そういった運動器具が置いてあるからなのだろう。
「あの建物はシロね。人の気配がまるでないもの」
それは沢渕も同意見だった。十七人の人質は今日も生きている筈である。あの建物からは、そういった生活感がまるで伝わってこなかった。
「そんなことよりも、沢渕くん。あなたさっき上を見たでしょ」
「何のことですか?」
「とぼけないで。実はスカートの中、見たでしょう」
「見てませんよ」
沢渕は憮然とした声で言い返した。
「本当に?」
「はい」
「そんなこと言って、何だかちょっと顔赤くなってない?」
「なってませんよ」
「いいえ、私には分かるわ。沢渕くんはいつもの冷静さを欠いていたもの。私、探偵部の部長であると同時に生徒会長ですからね。男子生徒の破廉恥な行為は断固として許しませんから」
「だから、わざと見た訳じゃありません」
「ほら、やっぱり見たんじゃない」
「見ましたけど、残念ながら真っ暗で何も見えませんでしたよ」
半ばやけ気味に言うと、叶美はくすくすと笑い始めた。
「わーい、引っかかった。引っかかった」
彼女は肩を小刻みに揺らして、まるで子供がはしゃぐように言った。
「短いスカートの下は、こんな風にスパッツ穿いてますからね」
そう言うと彼女はスカートの裾を軽く持ち上げた。確かにグレーの体操着のようなものがちらりと見えた。
いたずらっ子のような目をした彼女に言葉がなかった。今隣に座っているのは、本当にあの森崎叶美なのだろうか?
沢渕は一人困惑していた。