叶美の決断(1)
土曜日の朝、森崎叶美は車に揺られていた。今、車はゆっくりと大橋に差し掛かった。遙か眼下に広がる川面が朝日を受けてきらきら光った。
「カナちゃん、本当に髪を切ったのね」
ハンドルをさばきながら、佐々峰奈帆子がしみじみと言った。助手席に座る叶美は、さっきからずっと彼女の視線を感じていた。
「どこか変ですか?」
そう言って短い髪の後ろに手をやった。こうやって触れるとまだ自分の髪ではないような違和感が生まれる。
「ううん、そうじゃないのよ。何と言うか、とても新鮮な感じ。そうねえ、一見すると仕事のできるOLって感じかな」
「そりゃまた、年だけ取ったみたいじゃないですか」
叶美はやや口を尖らせて言った。
「いえいえ、本当に似合っている、って意味よ」
奈帆子は慌てて言った。
「あんたたちも、そう思うでしょ?」
「しかし、初日は学校中が騒然となりましたよ」
後部座席から堀元直貴が返した。
「多喜子から聞いたわ。カナちゃんを一目見ようと、廊下には黒山の人だかりができたそうね」
「俺は最初見た時、転校生が来たのかと思ったぜ。こりゃまた随分と生意気そうな奴が入ってきたなって」
「うるさいわね」
叶美は一喝してクマを退治する。
「ところで、森崎。どうして突然髪を切っちまったのか、まだその訳を聞いてないぜ」
クマにはまだ反撃する力が残っているようである。
「別に訳なんてないわ。ただの気分転換よ」
一瞬車内は沈黙に包まれた。小型のエンジンだけがうなり声を上げている。
「でも、不思議なんだよな。最初はその髪型に圧倒的な違和感があったんだが、しばらくすると目が慣れてきて、実はこっちの方が正解だったんじゃないか、って思えてくるんだよ」
「そんなものかしら」
叶美はぶっきらぼうに言った。
「とにかく授業中は、ずっとお前の頭ばかりに気を取られて、勉強どころではなかったんだぜ、まったく」
「いつも勉強どころじゃないくせに」
最後にそんな一撃を食らわせた。
車は市街地を抜けて田園風景に差し掛かった。
叶美はシートに身体を預けると、軽く目を閉じた。
真っ先に思い浮かぶのは、沢渕晶也である。髪を切った私のことを、彼はどう見てくれただろうか。あの日以来、彼とは会っていない。次に私と会った時、何と言ってくれるだろうか。
しばらくすると、奈帆子の車は停車した。そこは古紙回収業者、建川のアパートの入口であった。約束の時間に少し遅れて、彼は姿を現した。それを合図にメンバー全員が車から降りた。
「おはようございます」
叶美が一番に笑顔で挨拶をする。
建川は叶美の他に三人の若者を見て、ちょっと驚いた表情を作った。
「こちらが、今日お手伝いさせて頂く、久万秋君です」
叶美が巨漢を紹介した。
「よろしくお願いしますっ」
建川の口元に自然と笑みが生まれた。そしてクマの二の腕辺りを遠慮なく数回叩いた。
「実に仕事のできそうな身体だ。でも、この巨体が俺のトラックに収まるかな?」
それには、みんな顔を見合わせて笑った。
「大丈夫ですよ。私の小さな車にもしっかり載りましたから」
奈帆子が言う。
「それからこれは、差し出がましいようですが」
彼女は建川に包みを渡した。
「よろしかったらお昼に食べてください。私の妹が作ったお弁当です」
「わざわざ、すまんな」
建川は恥ずかしそうに受け取った。
「味は俺が保証しますよ」
クマが付け加えた。
「それと、これは車に取り付けてもらいたいのですが」
今度は直貴が切り出した。
彼の手には黒い小型の機器が収まっている。
「これは?」
「GPS付のビデオカメラです。フロントガラスが写るように、運転台に固定してくれませんか。録画と同時に走行した経路も記録します。撮影後パソコンで地図上にそれを表示できるんです」
「ほう、そんなことができるのか」
建川は驚いたようだった。
「それでは建川さん、今日と明日、どうぞよろしくお願いします」
叶美がそう言うと、全員が一斉に頭を下げた。
建川は満更でもない顔で、弁当を片手に歩き出した。クマも後に続く。そして二人の乗った車は駐車場を出ていった。
大通りに出るまで、三人は建川の車を目で追った。それから奈帆子の車に戻った。
(うまくいきますように)
叶美は一人心の中で祈った。
「思ったより、悪い人じゃなさそうね」
エンジンを掛けるなり、奈帆子が言った。
「そうですよ。私たちの良き協力者なんですから」
叶美は助手席で応えた。
「弁当まで用意するとは、森崎もなかなかうまくやるもんだね」
直貴が感心して言った。
「別に深い意味はないのよ。今日はクマのお弁当が必要になるでしょ。だからタキちゃんに相談したの。そしたら一つも二つも作る手間は同じだからって、建川さんの分も快く引き受けてくれたのよ」
「そう言えばあの子、昨日の晩から、やたら張り切ってたわ」
「こういう時頼りになるね、多喜子さんは」
直貴はそう言ってから、
「それで今、彼女はどこに?」
「駅に待たせてある。今日はこの後、私たちは例の古本屋で雑誌探しをする予定だから。本屋が開くまで、まだ時間があるのよ」
「なるほど。ところで部長、沢渕君は?」
「今日は呼んでないわよ。こちらから指示を出さなくても、あの子は自分で勝手に動けるでしょ」
そんなぶっきらぼうな言い方に、直貴はすかさず、
「彼と何かあったのかい?」
と尋ねた。
「別に。どうしてそんなこと訊くの?」
「いや、大した理由はないんだが、確か君が学校を休んだ日に、随分と気にしてたみたいだから」
「私のことを?」
「ああ。ほら、彼に鍵谷先生を紹介した日さ。化学準備室に君がいないと分かると、ひどくがっかりしたように見えたんだが」
「そんなの気のせいでしょ」
叶美はそう言うと、窓の外に目を遣った。それ以上は何も言わなかった。
駅に到着すると、多喜子が駆け寄ってきた。
「先輩、おはようございます」
ドアを開けるなり、元気のよい挨拶が飛び込んできた。
「お姉ちゃん、ちゃんとお弁当渡してくれた?」
「もちろんよ」
「タキちゃん、今朝はありがとう。二人ともすっごく喜んでいたわよ」
叶美が身体を後ろにひねって言った。
「これぐらいお安いご用です。それに、どんな中身にしようかって考えるのが楽しいんですから」
「何だか凄そうな弁当だね」
隣で直貴が言った。
「はい。今日はクマさんのお弁当に仕掛けをしておきました。たぶん蓋を開けたらびっくりすると思いますよ」
多喜子は一人嬉しそうだった。
「さて、古本屋が開くまで、どこかで軽く食事でもしましょうか?」
そんな奈帆子の提案に、
「賛成」
と、叶美と多喜子が同時に手を挙げた。