告白(2)
どこか遠くで救急車のサイレンが過ぎ去っていった。ふとカウンターに目をやると、いつの間にか客の姿はなくなっていた。
沢渕はすっかり冷めたコーヒーを飲み干した。叶美は自分の言うべきことは全て終わったと言わんばかりに下を向いている。次はどうやら沢渕が口を開く番だった。
「その話、多喜子さんは知っているのですか?」
叶美はうつむいたまま、頭を振った。
「いいえ、奈帆子さんはともかく、タキちゃんは何も聞かされていないと思う。もし真実を知っていたら、きっと私の顔なんて見たくもない筈よ。探偵部だってとっくに辞めているわ」
「他のメンバーは?」
「もちろん知らない。私、みんなの前では格好つけているけれど、秘密がバレたら軽蔑されやしないかって、いつもそんな不安で一杯なの。これじゃあ、部長失格よね?」
「それで、先輩はこの先どうしたいんですか?」
「えっ?」
叶美は弾かれたように顔を上げた。涙のせいで目元が腫れ上がっていた。
「ですから、これから森崎先輩は探偵部をどうしていくのか、と訊いているんです」
「そ、それは」
叶美は口ごもった。まるで親に叱られ、逃げ場のなくなった子供のようだった。思いも寄らない質問をぶつけられて、面食らっているのだ。
「探偵部に個人的な感情は必要ありません。僕らの仕事は、真実を突き止め、事件を解決することです」
叶美は黙って聞いていた。
「部長の仕事は、その任務を遂行するため、部員を仕切ることではないですか。それが的確にできるのなら、何ら問題はありません。しかし、心に迷いがあって事件と正面から向き合えないというのであれば、部長の資格はないと言わざるを得ません」
「随分、厳しいこと言うじゃない」
叶美は鋭い眼光を向けた。後輩の前で生徒会長、そして探偵部部長の威厳を守ろうと必死なのだった。
「事件が解決できない探偵部に存在意義などありません。それは探偵の真似事に過ぎない。何よりも中途半端に事件に関われば、命を落とす危険だってある。その責任の所在は全て部長にあるんです。先輩にその覚悟はできているか、と訊いているんです」
叶美は肩で大きく息をし始めた。何か効果的な反論はないものかと模索しているようだった。しかし興奮して冷静さを失った状態では、それも難しいことのように思われた。
「それじゃあ、私はどうすればいいのよ」
「どちらか態度を決めてほしいですね。このまま部長を続けるのか、それとも辞めるのか。もし辞めるのであれば、新しい部長を立てなければならない。こうしている間にも、誘拐された人たちが苦しんでいるかもしれない。事件の解決を遅らせてはならないのです」
沢渕は続ける。
「逆に、探偵部部長として、事件解決まで戦うという固い意志をお持ちなら、心の整理をつけなければならないでしょう。つまり事故の件は、厳しいようですが僕ら部員には関係がない。それは先輩と佐々峰さんの問題です。ですから探偵部においては、その件は一切忘れてもらいたい」
叶美は微動だにしなかった。
「でも、今日先輩とこうやって話せてよかったです。先輩は勇気を出して、僕に全てを語ってくれた。それは心の迷いを断ち切るためではないのですか。つまり、先輩としての答えはもう出ているのでしょう」
叶美は少しも目を逸らさずに、
「本当にそれでいいの? こんな私に、みんなついて来てくれるの?」
「今、探偵部は部長を中心に全員が結束しています。部長を始めとして、誰もが事件の解決に向けて情熱を注いでいます。きっと事件は解決できると、みんな信じています。だから先輩はこれまで通り、自信を持って指揮を執ればよいと思います」
沢渕は力強く言った。
「ありがとう。そう言ってくれると何だか嬉しい。でも、気持ちがすっきり晴れるまで、もう少し考えさせて欲しい」
「はい」
「今日は、この後もまだ捜査するつもりなの?」
叶美は少ししわがれた声で訊いた。
「はい、事件当夜と同じ最終バスに乗ってみるつもりですが」
「今日はもう上がって」
「えっ?」
「お願いだから、今日はもう止めにして」
彼女は懇願するように言った。
「こんな不安定な気持ちじゃ、私、今日は捜査ができそうにないもの。弱い部長でごめんなさい」
「分かりました。今日はもう家に帰ります」
沢渕は素直にそう言うと、席を立った。
カウンターの横を抜け、レジまで向かった。一度も叶美の方は振り返らなかった。
財布を出そうとすると、
「コーヒー代なら要らんよ」
と、店主が突然大きな声で言った。それは若者を叱りつけるような勢いだった。
「それより、うちの孫娘を泣かせるようなことはしないでくれ」
「もちろん、そんなことはしません。ご馳走さま」
沢渕は憮然とした態度で店を後にした。
狭い路地に一人立つと、方向感覚がすっかり失われていた。どちらに向かって第一歩を踏み出せばいいのか、それすら分からない。店に入り直して、叶美に訊くのが確実なのだろうが、今は彼女と顔を合わせる気にはなれない。仕方なくそのまま歩き始めた。
広い道を求めてひたすら歩くと、見覚えのある大通りに出た。思えば叶美と来た道はまったく通らずに戻ってきたようだ。
夜のとばりが降りて、見慣れた商店街もまるで様子が違っていた。道行く人は極端に少ない。それもその筈、左右に並んだ店はすっかりシャッターを下ろし、人を寄せ付けないと決め込んでいるからである。遙か遠くで、飲み屋に向かうサラリーマンの声が天井に反響していた。
腕時計に目を落とした。これから隣町へ行って、例の本屋で時間を潰せば、最終バスに乗るにはちょうどいい時間だった。しかしそんな考えはあっさり捨てた。部長と約束したのである。やはり今日のところは、真っ直ぐ帰宅することに決めた。
沢渕は、ふと後ろを振り返った。もしかすると叶美が自分を追いかけてきて、一緒に捜査しようと言ってくれるのではないか、そんな気がしたのである。しかしそれは妄想に過ぎなかった。静まりかえった商店街に人影はなく、どこからともなく冷たい風が吹いていた。
歩きながら考える。
森崎叶美は日頃、誰にでも優しく、それでいて圧倒的なリーダーシップを発揮している。しかしそんな彼女も心に深い傷を負っていた。どうしようもない不安を笑顔で包み隠し、威厳だけは何とか保とうとする。そんな自己矛盾を抱えながら、彼女は一人で毎日を戦っていた。
そんな孤独な女性に対して、少々言葉が厳し過ぎたのではなかろうか。優しい言葉の一つでも掛けてやるべきではなかったのか。そんな後悔が心の中を往ったり来たりした。
いや、そうではないのだ。
叶美から悩みを打ち明けられた時、自分にはどうすることもできないと直感した。悩んだ末、彼女が部長を辞めると言い出したら、もう沢渕には打つ手がない。自分には、彼女の決意を変えるほどの影響力が到底ないからである。
そこであの時、強気に出るしかなかった。今にも彼女を失ってしまう状況で、残された道はただそれだけだった。正直、心の中で焦り、冷静さを欠いていたのは沢渕の方である。彼女に向けた厳しい言葉は、実はそのまま自分へ向けられたものと言ってもよかった。
だが叶美は弱い人間ではないと思う。今はそう信じたい。彼女は苦難を乗り越えて、部長であり続ける筈だ。そのためになら、沢渕はどんなことも投げ打つ覚悟がある。
果たして森崎叶美は今後どのような身の振りをするだろうか。もし彼女が身を引けば、それは探偵部の崩壊を意味する。これまで代々受け継がれてきた探偵部が消滅する。そんなことにでもなれば、それはまさしく自分の責任である。これまで歴史を紡いできた部員たちに合わせる顔がない。
そんな迫りくる恐怖に押し潰されないよう、沢渕は必要以上に胸を張ると、しっかりとした足取りで商店街を抜けていった。