晶也の推理(1)
テーブルの隅に追いやられたグラスの氷がカランと音を立てた。今、中央には直貴の持参したスクラップブックが開かれている。メンバー全員が身を乗り出すように覗き込んでいた。
隣町の広域地図である。地図上には赤い×印が散りばめられている。それが犯行現場を示すものならば、その数は異常という他はない。一つの小さな街で、これだけたくさんの事件がしかも同時に発生したとはとても信じ難い。
メンバーの誰もが言葉を失っていた。
説明役の直貴だけが淡々と言葉を発する。
「この赤い印は誘拐されたと思われる現場。そしてその横に小さく添えられた時刻は犯行推定時刻だ」
さらに一枚ページをめくって、
「これが一連の誘拐事件の被害者名簿だ。名前、年齢、職業と簡単な当夜の状況が表にまとめてある」
今回雑誌を使って、メッセージを発信したと思われる女子高生二人の名前も出ていた。
『辺倉祥子(十八歳)、片比良七菜(十七歳)ともに高校三年生、T町バス停付近の路上にて失踪。予備校帰り』
他にも十五名の被害者の名前が並んでいる。
被害者全十七名中、男性五名、女性十二名。年齢の内訳は、十代六名、二十代七名、三十代以上四名。職業は高校生、大学生、会社員、主婦と様々である。
「おい、これ全部、一晩に起こった誘拐事件なのか?」
最初に口を開いたのは久万秋だった。
それは全員の感想を代表していると言ってもよかった。
「こうして見ると、被害者の数がもの凄いわね」
奈帆子が続けて言った。
「本当にこれだけ大勢の人が誘拐されたのですか?」
多喜子も信じられないという声を上げた。
この点がまさに事件の特異性を物語っている。同一犯人による誘拐事件としては他に類を見ない。まさに無差別誘拐と言ってもいいだろう。一夜にしてこれだけの誘拐をした犯人の真の狙いが分かれば、犯人像が見えてくるかもしれない。沢渕は黙って考える。
直貴は一度、ページを元に戻して、
「犯行時刻なんだが、被害者たちはみんな、午後十時過ぎから十一時の間に失踪しているんだ。つまり十七人は一晩どころか、ごく限られた時間で消えたことになる」
「それって、ほんの一時間ぐらいの間ってことですよね?」
多喜子が確認するように言った。
「その通りだ」
「でもなあ、たった一時間足らずで、実際に十七人も誘拐できるものなのか?」
久万秋は短く刈った頭をカリカリと掻いた。
「これだけ現場が散らばっていることを考えると、犯人もいくつかのグループに分かれていたのじゃないかしら?」
沢渕の真正面で奈帆子が言った。
「例えば、実行犯を四班に分ければ、一班当たりノルマは四、五人で済むじゃない?」
久万秋はすかさず、
「いや、一口に四、五人と言っても、結構大変な仕事だぜ。拉致なんて次から次へと連続して成功できるものじゃない。それにこんな田舎町じゃあ、そもそもこの時刻ターゲットを見つけることさえ難しいんじゃないか?」
「それなら、犯人は十七人いたとしたらどうかしら。それなら一人のノルマは一人で済むでしょ?」
と、多喜子。
「でもなあ、十七人も実行犯がいるって一体どんな組織だよ。そもそも十七人を誘拐する必要がどこにあるんだ。もっと的を絞れば、実行犯は数人で足りるじゃねえか」
そんな久万秋の言葉を最後に、メンバー全員が黙り込んでしまった。
グラスから炭酸が弾ける音だけが聞こえてくる。
「おい、晶也。お前には何か意見がないのか?」
沈黙を破る久万秋の声に、全員の視線が自然と沢渕に集まった。
「これだけ数ある現場のうち、有力な目撃情報はなかったのですか?」
沢渕は直貴に向かって訊いた。
「不思議なことに一つもないんだ。みんな被害者は悲鳴も上げずに、まるで煙のように消えている。例えばこの表の中にある、竹村良雄というのは三十六歳の男性会社員なんだが、こんな大の大人が黙って連れ去られるのは妙な話なんだ」
「そうよね、拉致される瞬間、抵抗するか大声を出していれば、近所の人が異常に気づく筈だもの」
そんな奈帆子の言葉に直貴は、
「犯人はどうやって怪しまれずに近づき、どうやって被害者らを車に乗せることができたのか。何らかの方法で気絶させるとしても、ターゲットが二人居る場合はさらに難しくなるだろう。この辺倉、片比良の他にもう一組、二人同時にさらわれたケースがある」
「やっぱり犯人は大掛かりな組織じゃないのか。しかも余程こういう手荒い仕事に慣れた連中だぜ。身代金の受け取りが、同じ日のほぼ同時刻に行われたことを考えると、犯人たちは日頃は全国に散らばっていて、この夜だけ町に集結した。そして十七人を次々と拉致した。俺はそう思うね」
久万秋は自信を持って言った。
「確かに身代金だって一人一億円で、合計十五億円。そう考えると、通常の誘拐犯とは違い、十人前後の組織と考えてもおかしくはないな」
直貴が腕組みをして言った。
「この事件、犯人の本当の目的は一体何だったのでしょうか?」
沢渕がぽつりと言った。
「そりゃ金に決まっているだろう。当たり前の事を訊くなよ。一晩で十七人も誘拐したのはそれだけ自分たちに自信があったのさ。それを全国に誇示しようした。大胆不敵な奴らだぜ、まったく」
「いや、犯人の狙いは違うところにあるような気がするんです。この誘拐事件、実は犯人にとって効率が悪過ぎます。例えばリストにある新野悠季子は、地元では大手の新野工業社長の一人娘とあります。彼女だけを誘拐して身代金を要求すれば、もっと手軽に何億もの金が手に入ると思うのです」
「だけど、さすがに十五億は無理だろう」
そんな久万秋の意見に沢渕は、
「確かに新野悠季子だけでは無理かも知れませんが、あと数人、金持ちばかりを狙えばそこそこの金額は狙えると思います。つまり本来数人で済む人質を、わざわざ十七人にしているところに何か別の意図を感じるのです」
「つまり沢渕くんは、犯人はお金が目当てじゃないと?」
多喜子が訊いた。
沢渕は頷く。
「そう言えば、身代金の受け渡しはいずれも失敗に終わっているのも変よね」
奈帆子が言った。
直貴は、
「世間では警察の失態として片付けられているが、犯人たちは最初から金を取る気がなかったとすれば、全国に散らばった取引場所に出向く必要はないんだ。ただ人質の監視をしているだけでいい」
「でも、これだけ面倒なことをしておいて、金は一銭も要らないなんて、俺には訳が分からんが」
クマの疑問はもっともだ。だから犯人の真の目的が分かれば、彼らに迫る大きな手掛かりになる気がする。
部屋は静まりかえってしまった。
誰もがこの事件に満足のいく説明をつけようと必死なのだ。
重苦しい雰囲気の中、沢渕は口を開いた。
「佐々峰さん」
「はい」
姉妹が同時に同じ声を出した。
「いえ、お姉さんの方です」
「はい?」
奈帆子だけがもう一度声を出す。
「あの、お仕事に戻らなくてもいいんですか?」
「ああっ」
彼女は急に立ち上がった。その衝撃で近くにあったグラスが倒れた。中身がテーブルを伝って床にこぼれる。
「ちょっと、お姉ちゃん!」
多喜子の叫ぶ声。
「きれいに拭いておいて頂戴」
妹に命令すると、姉は一目散に駆けていった。
「もう、しょうがないなあ」
「おい、休憩時間を大幅に超えているけど、いいのか?」
「お姉ちゃんは一応バイトリーダーなんですけど」
「タキネエっておちょこちょいなところがあるからな。あの人に任せて大丈夫なのか、この店は?」
すると天井のスピーカーが怒り出した。
「クマ、うるさい。この先ちゃんとモニターしているから、私の話題は一切禁止。いいわね」
直貴は一度咳払いをしてから、
「では続きを始めようか。どこまで話したっけ?」
「犯人グループの真の目的は何か、です」
多喜子がフォローする。
「そうだ、沢渕君。その件に関して君の意見は?」
「やはり、十七人という人数がヒントでしょうね」
「十七という数字の意味か?」
久万秋がすかさず言った。
「はい。さっきクマ先輩は、犯人の都合から言って、もっと少ない人数でいい、と言いましたが、まったく同感です。恐らく十七というのは、最初から狙った数字ではなく、偶然そういう結果になっただけだと思うんです。つまり別の日、別の時間だったら、違う数字になっていたのでしょう。なぜならこの誘拐は特定した人物を狙ったものではないからです。例の女子高生のように、二人同時に誘拐するというのはリスクが大き過ぎる。つまり犯人は彼女らを最初から狙っていた訳ではない。ですから、人数は十七に合わせたのではなく、偶然十七になったと考えるべきです」
「つまり十七に意味はない、か。だがな、そんな行き当たりばったりの誘拐なんて、普通は考えられないぜ」
そんな久万秋に、直貴は眼鏡を持ち上げるようにして、
「いや、これは誘拐という固定観念に囚われてはいけないのかもしれんよ。どのみち身代金の受け取りに現れないのだから金には興味がないんだ。それなら、これは誘拐ではなく、単なる人間集めだ。犯人は誰でもいいから人をさらっていったんだ。当時、日本中が躍起になってこの事件を推理した。誰もが大掛かりな組織による誘拐事件と信じて疑わなかったがね」
「今、気がついたんですが、案外実行犯は少なくてもいいかもしれませんよ」
沢渕はテーブルに転がっていた鉛筆を取り上げると、
「事件の発生時刻順に×印をつなげていくと、一筆書きの線が出来上がります。そしてこの一本線は、町外れから駅へ向かっているように見えませんか?」
沢渕は地図上に線を書き込んだ。
「おいおい、そりゃちょっと強引じゃないか?」
久万秋が怒ったような声を上げた。他のみんなは黙って地図に目を落としている。
「例えば、ここを見ろよ。この隣り合った印は時間が行ったり来たりしているぜ。つまりジグザクな線になるってことだ。お前の言うように駅を目指した一本線にはなっていない」
「確かにきれいな直線にはならないかもしれません。ですが、誰も誘拐の瞬間を見ていないのですから、この時刻は正確なものではなく、被害者が最後に目撃された時刻という意味しか持たない。それなら多少のズレは誤差とすれば、概ね駅へ向かう一本の線と考えてもいいと思います」
「沢渕くん、それってどういうこと?」
多喜子は不思議そうに訊いた。
「犯人は車を用意して、この一筆書きに沿って駅へ向かったということだよ。つまり犯人は組織でなくても、数人で犯行が可能という訳さ」
「いやいや、そりゃ無理だろ。何たって十七人も誘拐するんだぜ。普通の車ではそれだけの人数を収容することができない。それに最大の問題は誘拐の方法だ。被害者に抵抗されずに、しかも誰にも気づかれることなく車に載せて、それを見張っておくには、数人じゃとても無理だ」
久万秋はまくし立てた。
「ところが、それらの問題を全てクリアできる方法が一つだけあるんですよ」
沢渕は口元に笑みを浮かべて言った。