誘拐事件発生(1)
翌日の放課後、探偵部のメンバーはカラオケボックスに集結していた。二日連続の招集は、沢渕にとっては初めてである。壁の四隅に取り付けられたスポット照明が、部屋の真ん中をぼんやりと浮かび上がらせている。
「お待たせしました」
突然扉が開かれて、エプロン姿の奈帆子が現れた。グラス満載のお盆を片手で支え、みんなの身体を縫うようにしてテーブルの中央まで辿り着いた。手際よくグラスを配ると、最後にお菓子を盛ったバスケットを一つ置いた。
「部長はどうしたの?」
奈帆子は本来森崎叶美が座る場所に腰を下ろした。
「実は生徒会の仕事がありまして、遅れて来ると思います」
堀元直貴が答える。
「ひょっとして、高校見学会の打ち合わせ?」
「ええ、そうなんです」
「あれって準備に時間が掛かるのよ。私立にとって生徒募集は最大の関心事だから、無理もないけど」
「そんなことより、お姉ちゃん、仕事の方はいいの?」
妹の多喜子が心配そうに声を掛けた。
「大丈夫よ、十分間だけ休憩をもらったから」
「それでは、始めることにしよう」
今日は、直貴が進行役を務める。
「みんな、昨日はご苦労さん。部長から全て聞いたよ」
副部長はそう言うと、テーブルを囲むメンバーをゆっくりと見回した。
「僕もみんなに負けないように、事件の方は完璧に調べておいたよ」
彼はテーブルに大判のスクラップブックを置いた。
「まずは事件の概要から説明するよ」
今から四年前の八月三日、隣町では三十五度を超える猛暑日となった。夜を迎えてもその暑さが和らぐ気配はなく、昼間とさほど変わらぬ熱気が町全体を覆い尽くしていた。
そんな中、事件が発生する。
警察に第一報が届いたのは、午後十一時半である。辺倉祥子(当時十七歳、高校三年生)の父親から、娘が門限を過ぎても帰宅せず、連絡もつかないという届け出があった。彼によると、祥子はこの日、同級生の片比良七菜と予備校へ出掛けていた。週三回、二人は大学受験に備え、夜の授業を受けていたのである。
祥子の父親は帰ってこない娘を案じ、何度か携帯に連絡を入れた。しかし電源が切ってあるのか、一度もコール音が鳴ることはなかった。
いよいよ父親は娘のことが心配になって、自宅から車で予備校へと向かった。実は後の証言で、この時彼は飲酒運転だったことを自ら告白している。しかし世間はこの父親の行動に極めて同情的で、この件はさほど問題視されなかった。
彼は車を飛ばし、およそ二十分かけて予備校に到着した。しかしそこに祥子の姿はなかった。事務員に訊くと、いつものように十時過ぎに友人と出ていったという。
予備校の授業は九時五十分までである。その後娘はバスを利用して駅へ行くことを父親は先刻承知していた。祥子は通学用の自転車を駅前の駐輪場に停めており、そこから自転車で二十分程かけて自宅に帰ってくるのである。
父親は娘の足取りを追ってみることにした。まず予備校から歩いて十分ほどのバス停へと向かった。大通りに面しているバス停は、道路の両側に立つ街灯の明かりを浴びて夜でも見通しが利く。しかし十時十三分の最終バスが発車した後、この停留所は明朝まで眠りにつく。そのためこの時刻に当然人影はない。加えて大通りに車の流れもほとんどない。田舎の夜は早いのだ。
父親は、娘は友人と一緒に、間違いなくバスに乗ったと判断した。なぜなら、もし事件や事故が起きているとしたら、付近の住民らが騒いでいる筈だからである。人っ子一人いないこの静かな情景こそが、ここに事件がなかったことの何よりの証拠である。
父親は続いてバスの走行ルートに沿って車を走らせた。どんな些細な事も見逃さないつもりで、道路の左右に目を配りながら、ゆっくりと運転した。それでも十五分ほどで駅前に到着してしまった。車窓を流れる田舎の街並みはすっかり眠りについていた。この静寂の中、一人の若い娘が姿を消すといった事態が発生したとは信じられなかった。
駅前の広場には、まばらではあるが人影が確認できた。まだ最終電車には間に合う時刻である。駅の真正面には大型書店が鎮座しているが、それも十一時には店を閉めるので、この時間の辺りはひっそりとしていた。
父親はバスの発着所に車を乱暴に停めると、娘がいつも利用している自転車置き場に直行した。薄暗い蛍光灯の下、入口から順番に自転車を調べていった。思ったより放置自転車の数は少ない。最近強制撤去が行われたのかもしれない。おかげで捜索は楽だった。
小さな虫が飛び交う中、一台一台調べていくと、見覚えのある自転車を発見した。高校で貰った通学証のシール、その下にはローマ字で「祥子」の文字が見て取れた。間違いない。娘は予備校を出たものの、駅には辿り着いていないのだ。
この時妻から連絡が入った。父親は誰もいない自転車置き場で応えた。片比良家に電話を入れたところ、やはり七菜も帰っていないということだった。普段彼女はここで祥子と別れた後、電車で隣町まで帰っていくらしい。果たして彼女が無事に電車に乗ったかどうかは判断できないが、娘と一緒に行動していたのなら、彼女もここには着いていないと考えるのが自然だろう。
それとも、実は駅までは来たものの、二人はここで何者かに連れ去られたのではないだろうか。いや、そんな筈はない。父親は即座に否定した。なぜならバス停の目と鼻の先には派出所があったからである。
父親は藁にもすがる思いで派出所に駆け込んだ。この時、部屋の時計は午後十一時半を指していた。奥に声を掛けると、中から若い巡査が顔を出した。父親は二人の若い娘が失踪したことを伝えた。巡査は慌てる父親に冷静に対応した。
最初にするべきことは、二人がバスに乗ったかどうかの確認である。巡査はバスターミナルの看板に大きく書かれた連絡先を見てから、受話器を持ち上げた。
身分を伝えて、最終バスの件で運転手に話を聞きたい、と言うと、駅に到着する最終バスは各方面から全部で四本あり、その内どれかと逆に尋ねられた。ここで辺倉氏とのもどかしいやり取りの末、予備校近くを通って駅に向かう一本の路線を特定した。
そのバスは時刻表によれば駅前に十時二十六分着で、もうこの時点で一時間が経過していたが、まだ運転手は車庫に残っていると言う。そこで派出所の電話番号を伝え、その運転手に連絡をくれるように頼んだ。
しばらくして派出所を揺さぶるようにベルが鳴り響いた。遠くで通行人が立ち止まって何事かと強い視線を投げかけていた。
電話口でバスの運転手は小酒井と名乗った。巡査はT町バス停で女子高校生二人を乗せなかったか、と彼に訊くと、二人とも乗ってこなかった、とあっさり答えた。巡査はこの点は大事だからと何度も確認した。しかし彼は絶対に乗っていないと回答した。どうしてそんなにはっきり証言できるのかと問うと、春から何度も同じバスに乗務して見掛ける二人なので、彼女たちの顔はしっかり覚えていると言う。今晩は間違いなくバスに乗ってこなかったと、小酒井は自信を持って答えた。
彼の証言が正しいとするなら、つまり二人は予備校を出たまま行方不明になったことになる。予備校からT町バス停は百メートル程の距離である。しかもその辺りは閑静な住宅街である。そんな所で二人の人間がこつ然と姿を消してしまうことがあるだろうか。父親は予備校付近の様子を思い出しながら考えた。
いや、そんなことよりも、今までまったく見当違いな場所を探し回っていたことが悔やまれて仕方なかった。
それでも彼は巡査から電話を奪い取ると、バスの運転中に街のどこかで二人を見掛けなかったか、と食い下がった。しかし小酒井は今夜は二人を見ていないと答えた。この時間、街にはすっかり人影もないので、何か異変があれば気づくと言うのだ。確かに彼の言う通りだった。父親自身も車を走らせてみたが、街には何の異常も認められなかった。それでもやはり落胆せずにはいられなかった。
受話器の向こうで、小酒井は父親の重い雰囲気を察したのか、今日の最終バスの運行は実は十分程遅れていたと言い出した。その理由は、T町バス停より三つ手前のバス停で車椅子の女性が乗車してきたため、自分が運転席を離れ、手を貸していたからだと言った。そう小酒井が告白したのは、後にバスが遅れたことが明らかになった時、そのせいで若い娘が行方不明になったと言われるのを恐れてのことかもしれない。
それはともかく、巡査はこれは重要な情報かもしれないと思った。女子高生二人はバス停で通常よりも十分余計に待たされたことになる。その隙を狙って、誰かが彼女らをどこかへ連れ去ったとも考えられるからだ。
電話を切ってからすぐに本署からパトカーが一台駆けつけた。巡査が応援を頼んでおいたのである。彼はすぐさまパトカーに駆け寄ると、警官らに事情を説明した。
これまでの話を総合すると、予備校からバス停までの間か、またはバス停付近で彼女らが事件に巻き込まれた可能性が高い。警官は父親をパトカーに乗せると、現場付近まで案内させた。
時刻はすでに十二時を過ぎていたが、予備校の明かりはついていた。警官一人が予備校の関係者から事情を聞く間に、もう一人の警官と父親がパトカーでゆっくりと付近を巡回した。
予備校は大通りから少し奥まった所にある。そこからバス停までおよそ百メートル。予備校の付近は民家が建ち並び、大通りへ出ると商店や貸しビルが並んでいる。果たして二人はどこで連れ去られたのだろうか。もし拉致されたとするなら、当然犯人は車を使ったであろう。もしかすると近所の者が車の急発進や急ブレーキ、あるいは女性の悲鳴を聞いているかもしれない。
警官は片っ端から民家のチャイムを鳴らし、聞き込みを行った。しばらくすると応援のパトカーがもう一台駆けつけた。
数人の警官が付近を聞き込んだが、有力な情報は得られなかった。住民は一様に不審な物音は聞かなかったと証言した。
それなら車で連れ去られたのではなく、この住宅街のどこかに監禁されているとは考えられないだろうか。そういった可能性も考えて、家の庭先や車庫などに注意してみたが、不審な家はなかった。
何よりも警官と向き合った住民の中に疑わしい者は誰もいなかったのである。確かに深夜の予期せぬ訪問を受けて、最初は不快な表情を浮かべる者もいたが、事情を話せば、全員が協力的であった。彼らの中に何かを隠蔽しようとする者は一人もいなかった。いつもと変わらぬ生活を送ってきた人間が持つ真実味がそこにあった。
こうなってくると、警官の一人は女子高生二人が自らの意志で姿を消したのではないかと考えた。たった百メートルの間で、誰にも気づかれることなく二人の人間を拉致することが果たして可能だろうか。逆に、二人が示し合わせてこの闇夜に消えたという方が実にすっきりする。
警官たちは聞き込みを切り上げると、重い足を引きずって予備校まで戻って来た。
予備校の職員たち一人ひとりにも話を聞いてみたが、彼女らの足取りについて証言できる者はいなかった。最後に見掛けた事務員もいつもと変わらぬ様子だったという。例えば誰かと待ち合わせているとか、これから起こる事態に緊張しているという素振りとかは一切なく、いつもの二人だった。加えて、二人の持ち物は勉強道具の入った鞄一つだけだったというのである。
以上のことから、二人が自ら失踪したという線は消えた。とすれば、やはり彼女らは何者かに連れ去られたことになる。
突然、警官の肩から提げた無線機が鳴り出した。それは本署から、別の捜索願を伝える連絡であった。今度は両親と暮らすOLが、十二時を過ぎても自宅に帰ってこないという内容であった。
実はこの時点で、十七件の失踪事件がすでに発生していたとは、ここにいた警官の誰もが知る由もなかった。