第五話 家族の肖像
「可愛いざかりだねえ」
「うんうん」
そう言って同僚の下級悪魔達がネロの小さな角と角の間の、つるつるのおでこを撫でる度に、セドは何だか自分が褒められているような、誇らしくてくすぐったい気持ちになるのだった。
やっぱりボスが休暇の時に連れて来て正解だったな、とセドは思った。ファングル伯爵が、アジトに顔を出さない日は稀である。しかしそんな日のアジトは普段と打って変わってとても気楽な、感じのよい職場なのだ。
見学させるなら今日しかない、とセドは考えた。幼いネロに、未来のストレス地獄を見せるのはあまりに残酷。そう判断しての事だった。
天井の高い大ホールに入るなり、ネロが
「わあ、ひろいね」
と声を上げた。
「ここで皆が集まってボスの話を聞いたりするんだ」
解説するセドの足元にネロは屈んで
「これ、なあに」
床に配してある青白い炎の照明を指差した。簡単な魔力を応用したこの鬼火の照明は、ほとんどの部屋に設置されていて、その消灯や交換は全てセドたち下っ端の雑務である。
「大にいちゃんがつけてるの?」
「ああ、毎日……いや、うん、たまにな」
セドは言葉を濁した。当番じゃない日まで鬼火をチェックするわびしい癖がついてしまった事など、ネロには言うまい。セドは格好悪い兄と思われたくはなかった。
「おっ、グレイム。弟さん連れて来たか~」
二人が地下牢への階段を降りているとカラス上官が毛布を持って追いかけて来た。
「おはようございます上官。ほら、ネロ、カラス上官にご挨拶しなさい」
「……おじさんコンニチワ」
セドに隠れるようにしておずおずと声を出したネロの頭をカラス上官はぐしゃぐしゃと撫でて、
「おうこんにちは。イイ子だなあグレイム。お前によく似てるよ」
でしょ!でしょ!
心の中では嬉しくてしかたないセドだったが、ネロの前ではデキる悪魔を演じたい。しあわせに叫びだしたいのを堪えて冷静な声で
「上官、それは自分が」
と申し出たが
「あっ、いいよいいよ」
カラス上官は毛布を離さなかった。手の離せない上官の代わりに、スペアキーで地下牢の南京錠を外す。その動作を、ネロの視線を意識して、いかにも慣れた様子でやってのけたセドだったが、本当はこの地下牢に捕虜が来たのはつい昨日のことである。残念ながらネロはその手つきを見ていなかったのでセドは少し虚しい気持ちになった。
「お嬢ちゃん、毛布を持って来ましたよ。寒かったでしょ。ごめんね」
言いながらカラス上官が先に中へと入って行く。ネロがセドの手をギュ、と握った。
「大丈夫、怖くないから」
そう囁いてセドはネロの手を握り返し、そっと引いて石段を降りる。
「ほら、寝ているよ」
牢には青い髪の少女がひとり、横たわっていた。17、8歳と思しきその少女は「水竜の玉を受け継ぐ女」である。早く捕まえろ、と繰り返すばかりのファングル伯爵の代わりに、セドたち下っ端がどれだけ苦労した事か。カラス上官が少女にそっと毛布をかけてやりながら言った。
「ネロくん、このお嬢さんは君のお兄さんの働きで捕まえる事ができたんだよ」
「いえ、俺は何も」
言いかけたセドにカラス上官が目配せをする。昨日の大捕物でセドがした仕事は、水晶で少女の現在位置を把握するだけ。上官は弟にデキる悪魔と思われたいセドの心情を汲んでくれたのだ。
「にいちゃんすごいんだね」
こちらを見る、ネロのキラキラした眼差し。セドは心から上官に感謝した。
「有望株なんだお兄さんは。ほんとに、こないだも……」
地下牢の空調を調節し終えて扉を施錠するまでの間、上官はセドをひたすら誉めそやしていた。嬉しい事は嬉しかったが、少しやりすぎで嘘臭くなって来たのでセドは
「上官、俺、宝物庫の清掃に行きますので」
と、それを遮った。
「んっ、そっか。弟さんに色々見せてやるといいよ。じゃあな、ネロ君」
手を振って戻っていくカラス上官に深々とお辞儀するセドを見て、ネロもペコリと真似をする。
「にいちゃん、あの女の人、髪が水色だったね」
「ウン、正義の味方には、ああいう色の髪をした人が多いんだ」
当たり前の事を不思議がるネロの純粋な好奇心にセドは目を細めた。
地下の地下、ファングル伯爵の宝物庫。伯爵はこの部屋で宝物に囲まれながら、独り笑ったり呟いたりする珍癖がある。このことは幹部連中だけでなくセドたち下っ端も皆知っている。「フフフ……飛んで火に入る夏の虫よ」だの、「これできゃつらもおしまいだな」だの、とにかくよく喋っているらしい。
上の棚から順にハタキをかけながらセドはネロにそんな噂話を話して聞かせた。
「おかしいね」
くつくつ笑いつつもネロは、「せいかつ」と書かれたノートに熱心に何やらメモをとっている。
「社会じゃなくて生活科なんだな。今は」
セドが覗こうとすると、
「あっ見ないで!」
ネロはノートを伏せてしまった。
「あ……悪かった……」
予想外に嫌がられて淋しげなセドの表情にネロは、俯いて小さくごめんと呟いた。沈黙。セドの胃が痛む。
子供にもプライバシーはあるという事が頭に無かった、俺は馬鹿だ。
そう思いながらもやはり弟が、兄の仕事を宿題にどう書いているのか気になってくる自分がいて、セドはそれを振り払うために掃除に打ち込んだ。
石にされた人間の石像に積もった黒い埃。生きた駒を使うチェス盤を染める得たいの知れない汚れ。曇ってしまった闇竜の玉。それらを雑巾で擦るセドの背後で、ネロの鉛筆の音。
沈黙。セドは考える。
やはり足りないのか。俺では両親の代わりにはならないのか。父にだったら、母にだったら、ネロはノートを見せたのだろうか。考えても仕方のない事で頭の中がぐるぐるしているセドの両手は、闇竜の玉を機械のように執拗にただ磨くだけになる。
ネロにはやはり、親が必要なのかもしれない。親のような兄ではなく、
「……なあ、ネロ」
「大にいちゃん」
二人の言葉が重なる。
「あ、ああ。いい。先に言いなさい。何だ?」
タイミングを逃した。セドはほっと溜息をつく。
「あのね、もうちょっとだけこっちに……」
言いかけて顔を上げたネロの表情が、急に変わる。
「あっ!」
ネロの突然の大声に、セドは感情よりも先に身体が驚いてしまった。
「えっ!」
揺れた腕が軽くなり、落ちていく、闇竜の玉が、スローで。
パキャン、
真っ二つ、だった。紫がかった黒をした「闇竜の玉」は、装飾タイルの床に無惨な姿で転がる。あまりのショックにセドもネロも、数秒の間言葉が出なかった。
「ああ、あ、あ、ご……ごめんなさい、大にいちゃんごめんなさい……」
ネロの頬をぽろぽろと涙の粒が伝い始め、セドはようやく我に返った。
「お前のせいじゃない、これは兄さんの不注意で……」
そうだ。これは俺の責任問題なのだ。
気付いてしまった途端に、セドの胃がどくん、と震える。詳しい理由までは知らない。しかしボスが「闇竜の玉」に特別な関心を寄せていたのは確かだった。ばれたらクビでは済まないかもしれない。
「だ、大丈夫だ何とかする、何とか」
セドは呟いた。
「破片を踏まないように下がっていなさい」
小さな破片まで残らず拾い集めようと、屈んで床に目を凝らす。ネロは事の重大さがわかっているのだろう、子供らしく泣き喚いたりはせず、静かに鳴咽を漏らした。
「落ちそうだったの、だから、びっくりして……でもぼくが大声出さなかったら、大丈夫だったのに……」
ごめんなさい、を繰り返すネロをセドは振り返る。
「違う、お前のせいじゃない。駄目なのは兄さんなんだ……」
セドはネロを抱きしめて泣きたかった。だが今は玉を何とか修復しなくてはクビだ。そうしたらグレイム家は誰が支える?胃を押さえながらセドは破片を拾った。ビニール袋に全て集め終わると、それを隠し持ったまま早足で階段を駆け上がる。
「すいません!今日あがります!病院の予約を入れてあったのを忘れていました!」
同僚たちにそう叫んでセドは、一階ホールの窓から、丑三つ時の濃紺色の空へと羽ばたいた。まだ小さな翼しか持たないネロを抱え、凄まじい速度で飛んだ。
大丈夫、大丈夫だ。
セドは自分に言い聞かせる。慌てる事は無い、もと通りに修復して、発覚する前に宝物庫に戻しておけばいいだけだ。
右腕にネロの体温を感じて、セドは愛しいような申し訳ないような、複雑な気持ちになり、
ああ不甲斐ない兄ですまない、すまない、
と、風に掻き消されて聞こえない程度の声で繰り返した。
コーポ村石204号室。
先の尖った悪魔らしい靴を玄関に脱ぎ捨てたセドは、四畳半の前ではた、と立ち止まって踵を返し、靴を揃え直して再び四畳半に向かった。
事典、事典、と繰り返しながら奥の棚をごそごそやっているセドの背中を、不安げな表情のネロが見守る。
「よしコレだコレだ……」
家庭の魔法学、と書かれた分厚い本を抱えてセドは慌ただしく居間の座椅子に腰掛ける。TVの上の銀縁眼鏡をかけながら、そこで始めてネロを振り返った。
「ネロ、大丈夫だからもう寝なさい」
「う、うん」
若干クリアになった視界に佇んだ小さな弟の目は真っ赤に腫れていて、セドは本に隠して胃を押さえた。
復元魔法
ご家庭の壊れたものを修復する便利テクニック。
材料:お湯 イモリの歯ぐき 猫目草 臍の緒 米 双頭犬油
「双頭犬油……?」
家庭の魔法学、96ページを読みながらセドはつい声を漏らした。双頭犬油、あったような気もするがどこに片付けたっけ?
セドはぐるりと居間を見回した。菓子箱や空き缶を利用してセドが作った収納ボックスが、ありとあらゆる隙間にきれいに収まっている。この中に、双頭犬油が……。
意を決して深呼吸、てきぱきと端からボックスを開け始める。作業に没頭していたセドは、眠ったはずのネロがこっそり玄関から出て行った事に気付かなかった。
ようやく見つけた双頭犬油を塗りたくった闇竜の玉を魔力鍋にぶち込み、材料と共に煮る。
窓からはもうとっくに陽光が射していて、セドは眠気と胃痛に耐えながらぶつぶつと呪文を唱えた。強すぎず弱すぎず、魔力を調節しながら長時間鍋を煮るのは大変な作業である。
レヴは何処にいるのだろう?手伝って欲しい時にレヴの姿が無いのは今日に限った事ではない。しかし、ここ数日セドはレヴに会っていないような気がした。
いや、手伝ってくれなくても構わない。ただそこに居て、見ていてくれるだけでも違う。つまりこんな非常事態に、家族が揃っていないのが、セドはただ淋しいのだ。