第二話 ナチュラル・ボーン・デビル
レヴ・グレイムは白昼の公園通りを、翼も使わず独りで歩いていた。風が吹くたびに、角が冷えていく。十月でこの寒さなら、今年の真冬は一体どんな事になってしまうのだろう、とレヴはぼんやり考える。
おれの身体が凍って割れてしまえば面白いのにな。
音をたててばらばらになる自分を想像して、レヴは少し笑った。同時に、どうでもいい事でしか笑えない者特有の白々しさが心に広がっていくのも感じていた。
「寒……」
レヴは、先刻のセドの姿を思った。萎れた翼が痛々しい兄の身体は、それでも、凍って割れたりはしないのだろう。やはり割れるのはおれなのだ。
いつの頃からか、レヴは何もかもがどうでもよくなってしまった。自暴自棄というのとも少し違う。もっと静かで、つまらない、圧倒的な無気力がレヴの心を支配していた。それは穴のようでもあり、掴んで取り除く事が出来ないものだった。レヴは自分の中に自分が、本当に存在しているのかどうか疑わしく思っている。心の中を覗いても、そこはきっと誰もいないただの空き部屋で、笑うしかないような、そんな悲惨な状態を想像していた。
何にも無い。ただいつか死ぬだけ。
レヴは度々思う。おれは悪魔なんかじゃなく植物とかに生まれればよかったんだ、と。
散歩に出てはみたものの、特にする事もなかったレヴは、公園通りを抜けて裏手のパチンコ屋に向かう事にする。勿論、パチンコが好きな訳ではない。時間が過ぎてくれればそれでよかったのだ。その途中、市役所の花壇脇で鳩が死んでいて、足が止まった。別段、感想は無い。可哀相とも思わず、ただ、ああ死骸があるな……と、レヴはそれを眺めていた。
「おい、よう、悪魔」
遠くから聞こえたものと思っていたレヴは、声の主にすぐには振り向かなかった。
「おい悪魔」
「ああ……なに」
面倒そうに返事をしたレヴに、白根は、ちっと舌打ちをした。
「何じゃねえよ、久しぶりじゃんよ」
「そ?」
「そうだよお前、半年ぶりだぜ」
半年は久しぶりなのか、とレヴは思った。
白根雅人はレヴが以前いた、下請の部品工場のバイト仲間だった男である。レヴにとっては、彼に限らずレヴには全てがそうだが、どうでもよい男だった。ただ、白根は当時からやけにレヴに馴れ馴れしかった。
きっと悪魔が珍しいのだろう。レヴはそういう手合いが騒ぐのは最初のうちだけで、暫くすれば自然と離れて行くのを知っている。しかし、どうやら白根は違っていた。
「まあまあまあ、どうせ暇なんだろ?死んだ鳩なんか眺めてんなよ、ちょっと、そこで話そうぜ」
断る理由も無い。レヴは白根に付いてファミリーレストラン「セイデリア」の扉を潜った。ぬるい暖房がレヴの顔を撫でる。
「いやああ、久しぶりだなあ本当に。今何やってんの?」
「黒イヌヤマトでバイト。仕分け」
「へええ、でもお前、悪魔はもっと悪魔っぽい仕事やんねえのかよ。黒イヌってお前。宅急便って」
タハハ、と白根は笑った。レヴはぼんやりとその口の辺りに視線を固定しながら、セイデリアのドリンクバーの品揃えの微妙さについて考えていた。コンビニ市場から脱落したような飲料を、なぜ置くんだろうか……?
「つーかさ、悪魔。お前、いいバイトやんねえ?」
白根が唐突に話を切り出した。
「やんねえ」
即答してレヴは煙草に火をつける。煙を吐く。
「おれ黒イヌでいい」
「まあまあ、きけよ」
白根はサイダーを啜り、いやほんとお前に向いてるバイトなんだって、と前置きして急に声を潜めた。
「つーか、俺、瓜生さんトコ出入りしてたじゃん。ぶっちゃけ、それ関係さあ」
「知らね……どうでもいい」
「1回来てくれるだけでもいんだって。黒イヌ辞めねえでも全然かけもち可だからさ、な?」
お前が来てくれたらすげー助かるんだよ、と白根はなおも食い下がった。レヴは何だか面倒になってきて、ろくに内容も聞いていなかったが、
「1回だけなら」
と返答してしまった。白根は尖っていない歯を剥き出しにして。サイコー、お前サイコーと連呼した後、
「じゃ、今からちょっと、いい?」
待ちきれないかのように、席を立つ。レヴは無言で怠そうに頷くと角で煙草を消した。
駅前繁華街の隅にひっそり佇む薄汚いビルの地下。
白根に案内されてレヴはその階段を降りて行った。
「まだ事務所にいい場所がさ、決まってねーんだ。そのうち引っ越す予定なんだけど」
言いながら白根が開けた扉の表面にはおどろおどろしい字で「デストロイ・ブラック団」と書かれていた。
なんだそりゃ……とレヴは眉をひそめる。部屋の中にはコンピューターやら、巨大なモニターやらが乱雑に並べられ、中央には祭壇のようにごてごてした演説台が鎮座している。モニターを調整しているらしき、真っ黒な全身スーツを着た男に向かって白根は
「瓜生さん、いる?」
と、尋ねた。男は、「イー!」と謎の奇声を上げて敬礼してから、います、と答える。
瓜生は奥の部屋に居た。黒いマントを羽織ってアイパッチなどしていたが、レヴはその顔に見覚えがある。たしか、もとバイト先の近所の、
「……パチンコ屋の人じゃん」
「おお~!来てくれたか」
瓜生はレヴの姿を認めると、早足で寄って来て握手を求めた。
「いやいや……まだ駆け出しの組織なんだがね。将来性はバッチリだから。よろしく頼むよ悪魔くん」
悪魔くん……って、何かそういう漫画なかったっけと考えながらレヴは瓜生の手をさりげなく振りほどいた。
「瓜生さん、こいつに色々説明してやって下さいよ」
「てめえ、事務所ではダーク司令官って呼べって言っただろ!」
瓜生は白根の頭を強く小突いた。
「じゃあさ、軽くちょっと話だけさせてくれる?」
ダーク司令官こと瓜生の説明をレヴはぼんやりと聞いた。
要するに、デストロイ・ブラック団というのは、セドが働いているような魔族の組織ではなく、人間で構成された悪の組織なのである。瓜生はそこの幹部だった。
「まあさ、改造人間作るにもけっこう費用がかかるわけよ。で、まだ試験的な段階なんだけど、ウチでは今後、スカウトって形でフリーの改造人間とか、君みたいな悪魔に手伝ってもらおうと考えてるのよ」
喋りながら瓜生の指がアイパッチの内側に滑り込み、ぼりぼりと目を掻いた。レヴは、そんな瓜生と自分の姿を、上空から俯瞰で眺めるような冷ややかさで客観視して遊んでいた。
「じゃ、とりあえずモニタごしで悪いんだけど、総帥に挨拶入れてもらえる?」
瓜生は、いつの間に着替えたのか、黒い全身スーツ姿となっている白根に命じて、コンピューターの電源を入れさせた。巨大なモニターに組織のトレードマークと思しき三つ目のドクロが映し出される。
「第七支部のダークだ。総帥に繋いでくれ」
瓜生の呼び掛けに対し、姿は映らなかったが声だけが答えた。
「また予算の追加か?ダーク司令官。みんな言ってるぞ、第七支部はごくつぶしだって」
瓜生はねっとりとした声で笑った。
「ひがみか?それは。あいにくだが今日は……」
親指でレヴを指す瓜生。
「いい報告だ」
接続中、の文字がモニターの画面上で点滅している。瓜生は脂ぎった細い面をレヴの方に向けた。
「いやー本当、君みたいな人材をね、待ってたんだ」
ああなるほど。レヴは思った。
おれをスカウトする事がこの男の手柄になるわけなのか。つまんねえな。どうでもいいよ。おれ何でここにいるんだろ。
ふと、レヴは先刻見た花壇の死んだ鳩の事を思い出す。あれって猫が食ったりすんのかな?それとも猫は死肉は食わないのだろうか?
鳩を引きずる猫を、見てみたいような気がした。
「……おれ帰る」
レヴは出口に向かって歩き出した。
「えっ!?」
瓜生と白根が同時に、素っ頓狂な声を上げた。
「ちょ、待てって!ありえねえだろ!」
レヴの背後から白根が掴みかかる。
「ふざけんなよお前!」
白根はレヴの目の辺りを殴りつけた。レヴには、そう言う白根の全身スーツのほうがよっぽどふざけているように思えて、軽く吹き出してしまった。
心の中に、誰もいる気配が無い。から笑い。おれ何でこんなことしてんの?という自問に、自答するはずの自分が見当たらない。
レヴの背中の大きな蝙蝠の翼が、白根の身体を数メートル先に跳ね飛ばした。白根が蛙のように呻くと同時に、瓜生が壁の緊急事態ボタンを押して何か叫ぶ。
エマージェンシーコール。赤い光、ひかり。喧騒。
無数の看板が乱立する都会の混沌を目にしたとき、その1つ1つに書いてある文字の意味が急に読み取れなくなる事がある。字が読めなくなった訳ではない、読んでも意味が頭に浮かばない。レヴはちょうど、それに似た感覚を味わっていた。自分は爪と翼で、振り払っている、黒い全身スーツの妙な人間達を。でもそれは、どういう意味の事なんだっけ?おれ、どうしたいんだったっけ?
ぱちん。
弾くような感覚が頭にぶつかった。そこの部分からレヴの意識は、なぜだかぷっつり途切れる。
気付くと、既に日が暮れていた。
レヴは、セイデリアの駐車場の隅にぼんやり立っていた。角がすっかり冷え切っている。何やら頭痛がするのはそのせいか、と思い、レヴは後頭部に手をやった。
「……あれ?」
何かゴツゴツした手触りがある。押すとちくりと痛んだので触るのをやめると、てのひらに黒い血が付いていた。いつ怪我したのかまるで覚えていない。レヴは途切れた記憶を辿ってみようとしたが、白根が殴りかかってきた映像と、赤い光までしかどうしても思い出すことができなかった。
どうでもいいや。
レヴはふらふらと歩き出し、唐突に立ち止まった。
すぐ背後に人の気配がしたような気がしたのだ。しかし振り返っても、誰もいない。
妙な気分だった。
何なんだろうな……
ぼんやりしたままの頭で、安アパートに戻る。玄関の内鍵を掛けた。セドは既に出た後らしく、静まり返った四畳半をそっと覗くとネロが独りで眠っていた。台所の流しの横に、2皿に分けて盛られたヤモリの目玉煮が乗っている。兄貴が作って行ったんだな、とレヴは思った。
目玉煮はまだ温かく、ひとつ摘むと、口中にぬるい甘さが広がった。砂糖をきっちり量って入れるセドの姿を想像してレヴは少し笑う。
この日を境にして下級悪魔レヴ・グレイムは、悪の組織デストロイ・ブラック団の操る「怪奇コウモリ魔人」となったのだが、
レヴ本人は、まだその事に気付いてはいなかった。