第一話 溺れる悪魔
セド・グレイムは、最近とみに酷くなる一方の胃痛に耐えながら、ボスの話を直立不動で聞いていた。
「……やつらを罠にかけておびき出し……させれば……我が手中に……」
何が我が手中、だ。俺より若いくせに。と、セドは思った。綺麗に整った、坊やのような顔の上級魔族。近頃はこういう若手が仕切る組織が多い。悪行に快楽を感じながら冷酷に事を進める手腕はなかなかのものだが、そういう手合いに限ってファッションか何かのように手下をいたぶって見せる。それが格好いいとでも思っているのだろうか。
「行け!我がしもべども!」
声が響き、セドは慌てて他の仲間達と共に飛び立った。何百という黒い翼の生えた下級悪魔の群れ。うねりに流されながらセドは仲間の1人に尋ねる。
「何処へ向かうって?」
「敵の恋人が住んでいる町を襲うんだってさ。セドお前、ファングル様の話を聞いて無かったのか?」
「ああ……なんか胃が、変で」
「大丈夫か?何だか角の色も悪いし、休暇とって病院行けば?」
「いやいい、いい」
そうは言ったものの、セドは今日帰ったら病院に行こうと考えていた。
ちょっと本気で痛い。ガンだったらどうしよう。いやいやいや。
一瞬、白いベッドの上の自分を想像してセドは頭を振った。悲観的な妄想に対する自己嫌悪が、セドの胃をさらに圧迫する。
セドの仕えている上級魔族は、ファングル伯爵という嫌味な若造であった。伯爵は「竜の玉を受け継ぐ者達」とやらを執拗に狙っていて、彼らを倒せば人間世界を手中に収められると考えているらしい。
幾つかの魔の組織の下っ端として働いてきた経験のあるセドにしてみれば、それは甘い考えである。
シュークリームに更に砂糖をかけた菓子のようなあまあま坊ちゃんだ。人間界を征服しようとしている魔族が世界にはどれほど大勢いると思うのか?それをあの坊ちゃんは理解していない。
セドはもっと智恵のあるボスに仕えたかった。優しくて合理的な、よき父親のようなボスに。
町が見えて来る。下級悪魔達は、それまで魔力で消していた姿をあらわにして、思い思いに威嚇のポーズをとると、キシェーッ!などと奇声を発して、人間達に向かって行く。セドはこの滑稽な脅しの儀式が好きではなかった。これをやるのが下級悪魔の通例とは言え、三十歳の大台も間近な大人の悪魔がキシェーなどとは、あまりに悲しい。セドはいつも曖昧にポーズだけをとって、声は出さないでごまかしている。しかし胃の痛んでいる時は奇声など出したくても出せない事にセドは気付いた。奇声を出さなくて良い正当な理由がある分、今日は少し気が楽なのだった。
逃げ惑う住民達。その悲鳴のほとんどは視覚的な恐怖から来るもので、実際に下級悪魔に命を奪われた者は実はそう多くない。はっきり言って、下級悪魔ごときの力では人間1人殺すのも一撃という訳にはいかないのである。追い回して、何度も爪を振りかざし、生爪をはがしでもしては馬鹿馬鹿しい。セドを含む大半の悪魔達がそのことを理解して行動していた。脅かすだけで充分、効果はあるのだから。
だが、今回は少々いつもと事情が違った。「火竜の玉の継承者」の恋人を見つけ出して拉致せねばならないのである。セドは悪魔達の群に付いて、小さな高校に降り立った。
「誰を拉致するんだっけ」
「何か、敵のコレだって」
「へー俺顔知らないけど」
「俺も知らないよ」
「ボス相変わらず段取り悪いなあ」
「ははは」
セドの尖った耳に、周りの悪魔達の叩く軽口が他人事のように次々に入ってくる。胃痛に朦朧としたセドの頭には、まるで宇宙人の会話のように聞こえた。
「おい、グレイム……。グレイム!」
上官に呼ばれた事に気がつくと、弾かれたようにセドは背筋を延ばした。癖になっているのだ。
「あ、はい!」
「大丈夫か?お前。ううん……ちょっと水晶を、頼みたかったんだが。気分が悪いなら他の者にやらせよう」
「いえ大丈夫です!」
とは言ったものの、あまり大丈夫ではなかった。丸い銀の水晶を前にして、脂汗を流したセドは上官魔物・カラスを振り返る。
「す、すいません……何を映せばいいんでしたっけ」
「だから、火竜の玉の男の、恋人だってば。お前本当に大丈夫か」
「申し訳ありません」
セドは水晶に意識を集中させた。この程度の魔力なら、下級悪魔は誰でも使える。セドは体力勝負の仕事よりもこういう作業を得意としていた。カラス上官はそれを知っていて自分に仕事をくれたのだ、とセドは思った。それなのにどうも調子の出ない自分に腹が立ち、セドの胃はキュルルと痛む。
ようやく水晶にターゲットのビジョンを映した時、セドはあまりの痛みに意識を失っていた。
遠くで咆哮。悲鳴。爆音。鳴咽……そして音楽。
セドは目を開けた。一体、自分がいつの間にアジトの医務室に運ばれたのか、セドにはまったく覚えが無かった。胃痛は少しだけ治まっている。ふと隣のベッドに目をやると。
「よぉ」
「……カラス上官」
「グレイム、お前運がよかったよ。あのあと、火竜の男がやってきてな、大変だったんだぞ」
上官の猛禽類に似た逞しい身体は包帯だらけになっていた。
「スイマセン……」
「え、いや、胃痛だったんだろ?責めてる訳じゃないんだ。単に気絶しててラッキーだった、って話でさ」
上官の気遣いは嬉しかったが、恐らく減俸だと思うとセドは暗い気分になった。
人間界では朝7時。勤務時間はとっくに過ぎていた。セドは上官に挨拶をして、アジトを後にする。帰って、少し寝たら病院に行こう……とぼんやり考えながらバスに乗る。
アジトは自宅から遠い。飛べば早いのだが激務の後にそんな気力があるはずも無く、いつもバスで2時間かけて帰る羽目になる。セドの住むアパートがあるのは魔界内ですらないからだ。人間界の辺境。彼の給料で兄弟三人暮らしていくにはそこしかなかった。
「……今日直帰できてりゃ、もうちょっと早く帰れたかもしれないなあ……」
そうセドが嘆いた瞬間から降り注ぎ始めた朝日は、バスがようやく人間界に入った事を示していた。
コーポ村石は、雑な作りの二階建てアパートである。セドが疲れた顔で階段を上がって行くと、これから仕事なのだろう、隣の203号室に住む津賀賢太郎が、慌ただしく出て来た所だった。
「津賀さん、おはようございます」
「あっ、お兄さん!オハヨざいまーす。お疲れ様っす」
津賀はポストから何かを取り出すと、
「オレ今日時間ないや、お兄さんこれ、ネロ君にあげちゃって下さい」
はい、とセドに手渡した。不思議な形の小さい容器の中に、白濁した液体が密閉されている。
「ありがとうございます。え、何ですか?これ」
「ヤークルトですよお兄さん、魔界には無いっすか?うまいんですよお」
津賀はそう言うと自転車のまま階段を降りていった。セドはそれを礼儀正しく見送ってから、自室の扉を開く。
「ただいま」
セドが告げるや否や、奥の部屋からネロが、バネ仕掛けの人形のように飛び出してきた。
「大にいちゃんお帰りなさい」
「レヴは?
「いるよ。ね、これなあに?」
ヤークルトに興味津々のネロ。
「ヤークルトというのだそうだ。手を洗ったら飲んでいいぞ。後で津賀さんにお礼言っときなさい」
「やった」
台所に走って行くネロの姿にセドは目を細めた。心底可愛い弟だった。レヴと違って年が離れている分、セドはどうもネロを息子のように思ってしまう節がある。
おっさんだな、俺も。
自嘲しながら居間へ向かうと、人間界の求人広告を片手に煙草を吸っていたレヴが振り向いた。
「おかえり兄貴」
中肉中背でまさに平均的な下級悪魔の見本のようなセドに対し、レヴは枯木に似た長身の持ち主だった。身長以外にも、レヴは下級の血筋には珍しいほど悪魔的才能に溢れているとセドは思っている。にも関わらず、この弟がまともな悪魔職に就こうとしないのを心配もしていた。じき二十四にもなろうというのに、レヴは人間界のアルバイトを点々とするばかりでどこの魔族の軍団にも就職しようとしないのだ。
「またバイト探しか」
日に一度は、厭味がセドの口をついて出てしまう。
「気楽な身分だな」
レヴが反発して怒る事は無い。無感動で、無関心。それが余計にセドを苛立たせた。
「レヴお前、先の事とか考えてるのか?」
言ってからセドは後悔した。レヴに対する苛々の半分以上は、俺ばかり真面目に働いて馬鹿みたいじゃないかという個人的な怒りに過ぎない。セドは自分でもわかっていた。それをいかにも兄としての忠告といった態度で口にした自分が、とてつもなく厭味な奴に思えてきて、セドの右手は自然に胃を押さえていた。
「はは、先の事ねえ……」
レヴはつまらなそうに笑って立ち上がると
「おれ希望とか、ないからなあ……」
寒そうに背骨を曲げて玄関に歩いていく。ネロが台所から顔を出した。
「どこいくの中にーちゃん」
「散歩」
セドは深い溜息をついた。
「ろーしたの。お仕事やなことあったの?」
ヤークルトの空き瓶を口にくわえたまま、ネロがセドの膝にちょこんと座った。
「そんな事はないよ」
ふと、レヴが魔職に就かない原因は、俺にあるのではないだろうか?という考えがセドの頭に浮かんだ。溜息ばかりの俺を見て、レヴは……
あ、駄目だ落ち込む。
「うん、そんな事はない。やり甲斐のある仕事だよ。兄さん達が頑張れば、ボスはもうすぐ人間界を征服できるんだ」
嘘ばかりつく自分をセドは呪った。何が頑張れば、だ。できるか畜生。
セドが再び溜息をつきかけた時、ネロが口を開いた。
「あのね、お願いがあるんだけど……」
ネロの頼み事の内容に、セドは愕然となった。
「な、なんだって?」
「だからね、宿題なの。お父さんの働いてる組織について調べなさいって、先生がゆったの。ぼくお父さんいないから、大にいちゃんがいいんだけど……だめ?」
「いや、調べるのはいいんだが、け、見学は……」
まずいな。とセドは思った。あの酷い職場でストレスを溜めまくっている俺の姿を見たらネロはどう思うだろう。未来に夢も希望も無くなってしまうのではないか。レヴのように。
「だめかー……そっか…ごめんね」
残念そうに下を向くネロ。ここでイヤダイヤダとわがままを言わないネロの内気さを、セドは愛おしく思った。
「……待ちなさい。駄目とは言ってない」
「えっ!いいの!」
「ただ、兄さんたちの仕事は危険な部分もある。見学できる日とできない日があるんだ」
「うん!だいじょぶな日でいい!」
小さな弟の宿題も手伝ってやれないで、なにが兄か。セドは見せても大丈夫な時を狙って見学させようと頭の中でプランを練り始める。
「明日上司に聞いてみるから、お前はそろそろ寝なさい」
そう言ってネロを寝かしつけると、セドはぐったりと居間の座椅子にもたれかかって浅い息をした。
病院に行かねば、しかし今日は疲れた。見学、いつがいいだろうか。
面倒な事になってしまったと考えて、いや弟の頼みを面倒とは何だ、お前には愛が無いのか、最低だ、と自分を責める。それを繰り返すうちに、セドの脳はだんだんと眠りに落ちていった。
夢の中で、セドは巨大なヤークルトの瓶に閉じ込められていた。それを、顔しか知らない「火竜の玉の男の恋人」である女が、笑いながら見ていた。女は言った。
「ヤークルトは白濁しているからアナタがどんなにもがいても誰も気づかないわよ」
胃痛は夢の中でも止むことがなかった。