終章 片隅の街で
3月である。
生暖かい風の吹きすさぶ東雲方の住宅街をリコーダーの音と共にネロは歩いていた。線路の向こうに見える山の上がサーモンピンクに染まってきていて、ネロは
ピ、ン、ク。
と、リコーダーで吹いて顔を上げる。たばこ屋の角にレヴが立っていた。
「ただいま、中にいちゃん」
「ん。おかえり」
駆け寄ったネロをレヴは抱き上げて、ツノの間の額を撫でる。それが心地よくて、ネロは目を閉じた。
「あのね中にいちゃん、ぼく明日から春休みなの」
「そうか」
「どっか連れてって」
「いいよ」
やんわりとした動作でレヴはネロを下に降ろすと、とても自然に手を取って歩きだした。
アパートに戻ると、階段の所で慌ただしく自転車に空気を入れている男と鉢合わせた。
「あ、どうも」
ペコリと会釈をしたレヴと、丁寧にオハヨーゴザイマス、と挨拶をしたネロを振り返ったのは、津賀賢太郎。
「ありゃネロくん、お兄さん、おかえり~」
津賀は、ライザーシャープをクビにならなかった。昨年十一月の審査週間の最中に、あろうことか人気ヒーローの任務を妨害するという不祥事を起こしたにもかかわらず、である。
なぜ津賀はクビにならなかったのか。
その理由は、ある日の真夜中、正義の味方委員会事務所に入った1本の電話にあった。
「もしもし、火村です」
電話を受けた職員。ヒーローOB、もとバルカイザーXは、最初、なかなか火村の言うことが理解できなかった。
「何ですって?」
「だから……××町付近の管轄で、青くて、鳥みたいな……わかりませんか?彼です、あの、小柄の、眼鏡の、」
火村が様々な言い回しで説明して、ようやく。
「あァ!アイツですね、覆面ライザーシャープ。今、審査中で、おそらく今週中にクビ決定ですよ。アイツがどうかしましたか?」
「クビだって!?」
驚く火村に、もとバルカイザーXは淡々と告げた。
「ええ、切り捨てで」
「そ……それは駄目です!」
火村は懇願した。
「俺は彼に頼み事があるんです!彼でなければダメなんで」
津賀の上下させている空気入れと自転車を交互に眺めて
「津賀さん今からお仕事?」
と尋ねたネロに、津賀はニコニコしながら答えた。
「うん。引越しの手伝い。公園通りに、また新しい家族がきたよ!小さい女の子がいるからネロ君お友達になってあげてね」
「ほんと?あとで場所おしえてね津賀さん」
ネロは嬉しそうに数回跳ねてから、204号室に駆け込んでいった。扉を閉める前にレヴが顔を出して、
「ご苦労さま、ヒーロー」
そう一言だけ告げた。津賀は猫のように目を細めて、空気入れを抱きしめる。
うわー今の、うれしい。
津賀は205号室に顔を突っ込んで叫んだ。
「砂ちゃんいってきまーす」
「むむむ……いってらっさぁい……」
部屋の奥の方から砂子の眠たげな声がした。締切が近いのである。
ペンネームさはら須那子こと砂山砂子の作風は、新連載と共にガラリと変わった。それまでの大河ドラマのような、運命的男女の大恋愛を描いていたのが、新作「となりの豆大福」では、素朴でリアルな、てのひらに乗りそうな作品へと変化したのである。ファンには賛否両論だったが、砂子自身はこれでいいと思っていた。
何故って、ドラマは小さなものの中にも、確実に存在するのだから。
津賀の乗った自転車のキャラキャラ鳴る音を聞きながら、砂子はそっと、お腹の子供に触れた。
「いつわらほなぃ、かもなべきおんにゃ~ぅ」
鼻歌を口ずさみながら、津賀は自転車を漕ぎ、公園通りに越してきたキマイラ一家のマンションへと急ぐ。みめ屋の前を通ると、あんこの仕込みを手伝う黒色の魔族、カラスの姿が見えて、津賀はペコリと挨拶。
天草商店に居候しているナントカ伯爵は、元気だろうか。
と、津賀は思い出した。
火村の頼みとは「行き場を無くした魔族の受け入れと就職の世話」だったのだ。
以来、津賀の管轄であるこの街には、多くの悪組織の生き残りの魔物や改造人間などが集まって来るようになっていた。津賀は思う。
なんかヒーロー界いろいろ変わるのかもなー。
ふと上空を仰ぐと、掃除用具を手に飛ぶセドの姿が目に入り
「あ。おにーさんだ」
手を振ろうと、津賀がハンドルを離したせいで自転車はよろめく。ヒーロー仕様の自転車がゴミ箱に衝突した音は、空の上のセドにまでは届かなかった。
ビルの清掃という、趣味に合った職に就けたセドは、窓拭きモップを抱きしめて、ピンと伸びた羽根を力強く羽ばたかせる。
明日からネロは春休みだ。何処へ行こう?
安い給料では、たいした所には行けない。けれども、小さな事だが、兄弟三人で外出、というのがセドは嬉しいのである。下級悪魔の心は、そんな事で、踊る。それは幸せそうに、踊るのだった。
(了)
これで本編「片隅にエレジィ」はおしまいですが、スピンオフ的なお話があるので、次章からそれも掲載いたします。