第十五話 転換の歯車
ファングル伯爵こと、オーティス・ヤン・ガン・ド・ブランシャール・ファングルは地下室でひとり、台座に置いた闇竜の玉を前に、呪文を唱えていた。
「……我が漆黒の精霊よ、いま立ちのぼれ。地は汝の眼下にあり、水は汝の涙に満たず、焔は汝の心臓となり……」
古風な詩人のように両手をかざし、羊皮紙に書かれた呪文を読みつつも、伯爵は先刻の「火竜の玉を受け継ぐ者」の放った言葉で、部下達が一瞬でも惑わされたという事実に、心を掻き乱されていた。
やっぱりわたしは部下になめられているんだ……。
常日頃からそうではないかな、と感じていた疑問が、確信に変わった瞬間だった。
みんながわたしを軽んじている。みんな、心の底でわたしを馬鹿にしているんだ。だがそれも、今日までで終わり。この玉の力さえ手に入れれば、部下どもも、わたしを見下す上級魔族達も、父も、それからキングドラゴンの連中も。誰もわたしを蔑ろにできなくなる。
脳裏に歯噛みしながら、伯爵の声は呪文を続ける。
「月は病に、星は化石に、墓石は焼けた杭となれ!最後の賛美歌を歌えよかし!」
意味不明な呪文に、伯爵は舌打ちしたくなった。文言自体への怒りによるものではない、呪文の意味も解らない自分を馬鹿にする者たちの顔が用意に想像できたからだ。
「目覚めよ暗黒の竜!」
伯爵は闇竜の玉に、羊皮紙の魔法陣を掲げた。闇竜の玉は、その艶やかな表面に、じっと魔法陣を映し出す。
パッ、と玉の表面に光りが灯った。
「待てっ!」
背後の扉が開いて、漏れた光と共に地下室に駆け込んで来たのは、憎き火竜の玉の男、火村竜二であった。ファングル伯爵は、ブルーグレーの瞳で火村を睨めつける。
「もう遅い……儀式は既に終えた」
「何だと!?」
動揺する火村に向かって伯爵は不敵に微笑む。伯爵はこの笑い方を何度も練習していた。彼はこの瞬間を、待っていたのだ。
必要な手順はすべて施したんだ。大丈夫な筈だ。
伯爵は、玉を握りしめ、頭上に投げ上げた。紫の閃光が辺りを包む……はずだった。しかし、玉はそこで予想外の動きを見せた。
「えーっ!?」
ファングル伯爵と火村は2人して困惑の悲鳴を上げる。まさか、闇竜の玉が天井に跳ね返って、床にぶつかり、さらに床に跳ね返って台座にぶつかり、転がってしまうとは思いもしなかったのだ。
「な……なぜだ!?」
「いや、俺に聞かれても」
伯爵は闇竜の玉を拾い上げて、再度床にバウンドさせてみた。
すごく、よく弾む。でも
「……これだけか?闇竜の玉の力とは」
放心状態の伯爵が呟いた。火村も信じられない、といった様子で
「そんな訳ないだろう……やり方を間違えたんじゃないのか?俺たちだってそんな、スーパーボールの為に戦ってきたわけじゃ……」
しげしげと玉を覗き込む。
「材質が俺の火竜の玉となんか違う。偽物だ。というか、スーパーボールだこれは……」
「にせもの……」
何て事だ……。ファングル伯爵は言葉も無くし、すっかり魂が抜けたようになってカタカタと貧乏揺すりを始めた。火村は眉間にシワを寄せて呟く。
「クソッ……じゃあ本物は、やはり、あの街の魔族が持ってるのか……」
「なに!?」
火村の言葉に伯爵は驚愕した。
わたしを出し抜いて、本物を手に入れた魔族が?
「誰だそいつは!言え!」
伯爵は火村につかみ掛かった。
部下か?それともわたしを見下している親戚連中か!?
油断していた火村は壁に押し付けられる。と、その時だった。2人の背後の扉が開き、
「あ、あの……」
小さな声が聞こえて来た。
「誰だ」
火村の首を笏で押さえながら、ファングル伯爵は振り返る。
「あの……ふぁんぐる伯爵さんは、どこにいますか?」
怖ず怖ずと扉の陰に半分隠れて、そう言ったのは下級悪魔の子供、ネロ=グレイムだった。
「伯爵はわたしだが……どっから入った?子供の来る場所じゃない。帰りなさい」
心持ち優しげな言い方でそう告げた伯爵と、ネロとを交互に見つめた火村は、自由の利かない身体の代わりに目だけをぱちくりと瞬きさせた。
「……子供の魔族もいるのか……初めて見た」
当たり前の事だが火村にとってはちょっとしたショックだった。考えた事がなかったのだ。倒していた魔族に子がいるなんて。
「ふぁんぐる伯爵さんですか?大にいちゃんのボスのひとですね……えっと、」
ネロは、伯爵に向かってペコリとお辞儀をすると。
「ごめんなさい。ぼくがやったんです」
そう言って「東友」と大きく書かれたビニール袋を差し出した。
「何だこれは?」
伯爵は、片手で火村の首根っこを押さえたまま、袋を受け取った。中を覗き込む。
「……」
そして伯爵は、そのまま、硬直した。
「……?」
気になった火村も、動く範囲で首を延ばしてみた。チラッと中身が、見える。
「……う、うわあ」
見えた瞬間、目眩がした。
「ばらばらじゃないか……」
凍り付いた空気の中で、ネロだけがひたすらゴメンナサイを繰り返す。
闇竜の玉はブチ割れました。
ファングル伯爵は、この現実を受け入れる事ができなかった。
嘘だ、嘘だ……これは悪夢だ。ありえない。ありえない……何だ?これは、やはり誰かの陰謀なのか?わたしを陥れて、何者かが陰で嘲笑っているのか?
「おい……子供。お前、誰の命令でこんな事をした?」
何とか、言葉を搾り出して伯爵は尋ねた。
「違うんです……ぼくが、」
ネロはポタポタと涙を落としながら喋った。
「宿題でにいちゃんのお仕事を見学しに来た時、遊んでて壊しちゃったんです……ぼくが悪いんです!」
「宿題……見学、遊んでて……」
ああ……。
伯爵は何だか頭が痛くなってきた。震えながら深呼吸。だがそれで心が静まるはずがなかった。
「はは……我が組織は目的を失った。これでイチからやり直しだ…闇竜の玉も持たないこんなわたしを馬鹿にして、部下もみんな離れていくだろうよ…なあ?お前ももうわたしを倒す必要がなくなったわけだ、なあ?火竜の男よ」
ゆらゆらと、頭を揺らすように頷いて
「子供」
ネロを傍に手招きした。
「……は、はい」
泣き笑いのような奇妙な表情をした伯爵の額には、冷たい汗の玉が浮いている。
「お前をアジトに入れた、兄とやらは…誰なんだ?名を言え」
「そ、それは……」
ネロは下を向いて
「いえまセン……」
消え入りそうな声でそう答える。
「言えませんじゃないだろう…いい子だから、言いなさい。誰なんだ?俺を陥れた張本人は」
伯爵は、片手をネロに延ばした。ネロは少し後ずさる。
「違うんです、にいちゃんは悪くないんです、ぼくが、ぼくだけが悪いんです」
「お前だけ処刑しても、みせしめにならないだろうが!言え!」
声を荒げた伯爵に、ネロは震え上がって目をつぶった。火村が口を挟む。
「おい、よせ。子供じゃないか」
「お前にはもう関係ないだろ。玉はもう無いんだぞ、消え失せろ!」
伯爵はそう怒鳴って火村から笏を離した。
「まあ関係ないっちゃないんだが……」
火村は溜息をつく。そして漸く津賀が何を守ろうとしていたのか理解した。要するに、あの街で、玉を持っていたのは、この子供と、その家族なのだろう。成る程な……「家族」か。
「ちょっと前までなら魔族同士のいざこざに口を挟みはしなかったんだが、」
けれど火村はもう完全に、津賀賢太郎菌に心が毒されてしまった事を、今や自覚していた。
「その子を離せ」
「えっ」
ネロが驚いて火村を見る。
「何だと……?それが、貴様の、正義の味方にとって何のメリットになる?」
伯爵は眉をひそめた。
「メリットは、その、別に無いが……個人的に、だよ……」
火村はバツが悪そうに目を逸らして、剣を持ち直した。
闇竜の玉が割れていたと判明し、戦う理由が無くなっている事も知らず、ホールではまだ、キングドラゴンと一部の部下達による戦闘が続けられていた。
しかしそれは、もはやグダグダで、事実上、戦う真似をしているだけのようなものに成り下がっていた。いずみと土屋が手加減している事が、戦意を失っていない部下達にも次第に判ってきてからは、部下達自身も本気で戦う事などできなくなっていたのである。
そうなるともう、戦闘と言うよりは真面目な顔で遊んでいるようなものだった。いずみは何だか可笑しくなってきて
「なんだこの状況」
そう呟いて吹き出した。だんだんと消火作業に当たる部下が増えてきている。残り少ない、好戦的な魔物たちも、ひとりまたひとり、キングドラゴンと無益に剣を交えるのをやめていった。最後に残った三、四人の敵を前に、とうとういずみは弓を下ろす。
「やめやめ。はは……意味ないわ。でしょ?」
いずみの正面に立ちはだかっていた、灰色の骸骨じみた魔族は、その言葉にカクカクと頷いた。
そもそも、いずみは正義の味方という立場でなければこのアジトの部下達を倒したくはなかった。というのも、いずみは捜査の為に先日までわざとここに囚われていたのだが、その間彼女は非常によい待遇で扱ってもらっていたのである。寒ければ毛布も貸してもらえたし、テレビを持って来てくれた魔物もいた。ハッピーターンや歌舞伎揚げは常備されていた。
「アンタ達ももう、やめたら?」
最後の1人となったガタイのいい熊のような部下と、いつまでも殺意の無い戦いを続けている土屋に、いずみは声をかける。
「いや、なんか、ちょっと面白くなっちゃって……」
そう返した土屋と、熊的な魔物はどうやらチャンバラごっこに夢中の様子である。
「ばか」
いずみはそう言ってニヤリとした。不思議な気分だった。魔族に気を許すなとあれだけ繰り返していた火村が、敵を殺すな、などと急に言い出した時にはどうした事かと思ったが。
悪くないかもしんないな、この気分は。
いずみには、何かが見えかけていた。ヒーローであるが故に忘れていた何かが。ふと、檀上の方を振り返ると、青い炎が、がんがん燃えていた。悪魔達は必死で燃えるアジトを救おうとしているが、なかなか消火が進まないのは、炎が、魔法によって点火されたものであるからだった。
敵組織を壊滅させる際、アジトが燃えて崩れ去る、というのは正義の味方の間ではよく耳にする話だ。しかし今、いずみは、気付いてしまった。
彼ら、魔族はその時、燃え盛る炎の中で、どうしてる?こうやって必死に、火を消そうとしたり、或いは仲間を助けようとしたりしているんじゃないか?歴代のヒーロー達が、見落としてきた事を、あたし今、見てるんじゃない?