第十三話 グレイムのブラザーズ
消毒薬の匂いが際立つ、夜の病院。セドは赤い眼球を闇に光らせ、レヴの話を聴いていた。相部屋の糖尿病の老人は、廊下を通る看護婦の足音に微かに身じろぎして高い鼾をかいている。
「……そうか、津賀さんが……迷惑をかけてしまったな……」
レヴのあまり上手いとは言えない説明で、何とか事の次第を一通り把握したセドは、そう言って少し胃をさすった後、レヴに抱えられて震えているネロの頭をゆるく撫でた。
「可哀相に。ネロ、大丈夫だ。お前がそんなに心配する事は無い。そら、ロビーでココアでも買っておいで」
ポケットから硬貨を出した。ネロはコクリと頷いて、でも言葉は出せないまま、スリッパをぺたぺたと鳴らしながら病室を後にする。その音が遠ざかったのを聞き届けてからセドは、出窓に座ったレヴの方に顔を向け、決意を口にした。
「こう大事になってしまっては、やはり、ボスに全てを話して俺が責任を取るしか無いように思う」
しかし、レヴは
「何それ。意味あんの」
と、赤い光の片目を細めた。
「責任取るって、処罰だろ要するに。どうなるわけ、兄貴は」
「……クビか監禁、減俸……いくらボスでも処刑はさすがに無いと思う」
とは言え、ファングル伯爵は部下虐めの常習犯。キレて処刑だなどと言い出さない保証は無い。セドは不安だったが覚悟を決めなければ、と自分に言い聞かせていた。
レヴは青暗い病室の中の天井の辺りを見ながら
「そんな事するより、おれがまたこっそり忍び込んで割れたやつ置いてくれば済む話なんじゃないの」
淡々とそう言った。
「駄目だ。お前、バレたら今度こそどうする気だ?危険すぎる…」
セドは少し身震いした。ところがレヴはポーカーフェイスで更に恐ろしい言葉を続ける。
「そしたらおれが盗んで割ったって事にするから」
「おま……それこそ下手すれば処刑モンじゃないか!ふざけた事言うんじゃな…」
糖尿病の老人が小さく呻いて寝返りをうったので、セドはそこで一旦、口をつぐんだ。レヴも黙っている。
重い、静寂。
時計の秒針の音がさっきから聞こえるが、どこに時計があるのかセドは知らない。ただ、妙にその音が耳障りに感じた。
ふと、レヴが、窓際から立ち上がる。
ああ、行くのか。
セドは、レヴから目を逸らした。
またこのパターンだ。いつもこうして、レヴとは、しっかり話ができない。だけど、それは…。セドは思った。
だけどそれは、俺自身も本心の本心を出せないからなんだ。会話を諦めてしまうのは、レヴだけじゃない。
俺もなんだ。
セドは引き止めるための言葉を探した。けれど、すぐに思い浮かばない。
大事な、ことなのに。
からから、と病室の扉を開ける音。黙ったまま、レヴが出ていく。扉が閉まる音と共に、セドの後頭部に、何故だか、聞き覚えのある声が、瞬いた。
……思い出せ
途端に。撹拌され、沈澱した遠い記憶が、セドの脳裏に浮き上がって来た。
「がっこういきたくない」
今のネロと、同じぐらいの歳だった頃の、レヴだ。他の子より頭ひとつ分背は高かったが、6歳上のセドにとっては、まだまだ小さな弟だった。
「どうして?友達と遊ぶの楽しくないか」
「ともだちなんかいらない。おれ、にいちゃんといたい」
セドは、ベッドから立ち上がった。
声にならなくて、飲み込んだ言葉の代わりに、スリッパも履かず扉に駆け寄り、掻き開けた。
待ってくれ
扉の向こう側にはレヴが、少し驚いた顔で立っていた。
「……自動ドア?」
そう呟いてニヤリとしたレヴの手も引き戸の取っ手にかかっていたのにセドは気付く。
「レヴ、お前」
「んー何だかね……話を途中で切んのも、どうかなって、おもった」
レヴは床に視線を落としたまま言った。
ああ、背丈は俺より高くなっているが、よく床を見て話すのは子供の頃と変わらないな、とセドは思った。
「悪かった。頭ごなしに、お前の意見を否定して……」
「別に、それはいーよ」
「怒ったんじゃないんだ……お前が処刑されるのを想像して、怖くなっただけなんだ……すまない」
「ん……座れば?」
二人は廊下のソファに腰掛けた。レヴはポケットに手を突っ込んで寒そうに背中を丸める。
「あのね」
看護婦が、横目でセドとレヴをチラリと眺めて通り過ぎて行く。
「兄貴が、まあクビは仕方ないとしても長く禁固だの処刑だのになったら実際どうすんの、って。そういう事。ネロは、どうなんの」
セドは眉間に深く皺を刻んで
「そうなったら……お前が、ネロを頼む」
辛そうに言葉を吐いた。レヴは、投げ出した足をプラプラさせる。
「無理だよ。おれに育てさしたら、ネロがだめになっちゃうよ」
セドはレヴが何故そんな投げやりな事ばかり言うのか解らない。でも今度は答えを探していた。
「レヴ……なんでなんだ?なんで、そんな事ばかり言うんだ……本気で、そう思ってるのか?」
レヴの赤い眼は、いつも眠そうで、ほとんど表情が出ない。
「何でって、いなくなった方がいいのは兄貴じゃなくて、おれだからだよ」
ふざけているのか、それとも本当に何も感じていないのか、レヴが抑揚の無い口調でそう言ったので、セドは茫然とした。
いなくなった方が、いい。だって?
あまりな言葉に、一瞬、息をするのも忘れていた。
「……なんてこと言うんだ」
「でも、ほら。わかるだろ、どうしようもないんだ、おれ。こんなだから」
セドは、知らずにいた弟の気持ちの、核心に触れようとしていた。いつのまにかぼやけてしまっていたレヴの輪郭を。長い間、ちゃんとピントが合っていなかったものを、合わせなくては。
セドは必死だった。
「いなくなっていいなんて、そんな事、あるはず無いじゃないか」
「兄貴がそう思ってるとかじゃなくて。それは分かってるよ、ただ単に、事実そうなだけなの」
レヴはあくまでも無感動にそう言う。それでも
少しずつ、自分の中に、弟は心を、流してこようとしている。セドはそう感じた。
「……俺やネロはお前を必要としてるのにか?」
「家族が、嫌いなわけじゃないんだ……ただ、」
「ただ……?」
レヴは困ったように、少し目を細めた。
「んー……」
言いかけたところで、レヴは小さく息を漏らして下を向いた。
「だめだな……うまく言葉にできない。難しい」
セドは軽い既視感をおぼえる。小さな頃、レヴは立ち止まって何か考えているようにボンヤリする事がよくあって、
「どうした?」
手をひくセドが尋ねると
「んーと……」
説明しようと口は開けるのだけど、最終的には
「……わかんない」
と、恥ずかしそうに下を向いてしまうのだった。
ああ、レヴはそういう子だったなあ、とセドが思ったちょうどその時。
「兄貴……ネロ遅くない?」
レヴがふっと顔を上げて呟いた。
「遅いな」
セドは急に不安になる。ココアを買いに行ってから、随分と時間が経っているのにネロはまだ戻らない。
「何か、あったんだろうか」
緊張にセドの胃が堅くなる。
まさか、キングドラゴンに?
「おれちょっと見てくる」
レヴはさっさとロビーへの階段に向かって歩き出す。
「待て、俺も行く」
ペタペタと小走りに、セドも階段を降りた。
顔に出しはしないけれど、少なくともレヴは、自分やネロを大切に思っているのは確かなのだ。と、スリッパを階段に鳴らしながらセドは考える。
それなら何故、あんな悲しい台詞を吐く?
今、ネロの姿が見えないのを心配する気持ちは、兄弟の誰が欠けても駄目な事の証明じゃないか。
ロビーに、ネロの姿は無かった。セドは看護婦に尋ねたが
「悪魔で、7歳ぐらい?見た覚えが無いわねえ……」
と首を傾げただけだった。それから手分けして他の階も全て探したが、見つからない。トイレにも居なかった。
「キングドラゴンに掠われたのかもしれない」
考えたくも無かったが、セドは胃を摩りながら可能性を口にした。
「それはどうかな……津賀さんが何をしたか知らないけど、おれが見た時、泣いてたよ、キングドラゴン」
レヴは小刻みに貧乏ゆすりをしながら考えて
「……もしかしたら、独りで、玉を返しに行ったのかもしれない」
ぽつりとそう言った。
「何だって!?ど、どうしてそんな事を」
と、言いつつもセドは、有り得る事だと感じていた。きっとネロは、ひとりで自分を責めていたのだ。グレイム家の者は、往々にしてその傾向がある。
「おれら……こういうとこ、親父にそっくしだよね」
溜息をつきながらもほんの少し口角を上げてレヴが苦笑した。
「言えてるな」
セドもそう言った。二人の脳裏に一瞬、ある同じシーンが浮かぶ。
両親の葬式。
そのまま二人は、人目を見計らって、3階の窓からそっと羽ばたいて出て行った。青い夜の空、大事なものを、手放さないように、間に合うように、高く、速く、飛んだ。
その頃、ネロは独りで低空飛行しながら、懸命に考えていた。
何て言えば、許してもらえるだろう?
例えば、自分の大切な宝物、硝子でできた小さな亀の置物や、綺麗なネジ、あれを壊されたらどう思うだろうかと、ネロは想像してみた。
とても悲しくて、言葉なんかよく耳に入らないだろうな……。
簡潔に、「ごめんなさい」が一番いいのかもしれない。
だが、ネロは兄のボスという人に一度も会ったことが無い。
怖い人だったらどうしよう…大きな声でごめんなさいと言うのと、小さな声でごめんなさいと言うのと、どっちが好きな人だろう?
翼が竦み上がりそうに怖かった。
やがて兄のアジトが見えて来た所で、ネロは
あ。
と声を上げて、慌てて黒い草むらに身を隠した。
月の明かりに重なったシルエットが三つ。昼間よりも闇の方が真価を発揮する造りになっている、ネロの眼球が映し出したものは、甲冑を纏った人間の形をした、赤と、緑と、水色、3匹の怪物。
ネロにはそう見えた。
ヒーロー名鑑で見たキングドラゴンの写真そのままの並びの三人は、常日頃、学校の絵本や教科書、ビデオで恐ろしいものとして描かれる事の多い「正義の味方」そのものだった。
ネロは震えた。
津賀とは全然違う、緊迫した空気が辺りを支配し、恐ろしい息遣いまで聞こえてきそうだった。