幽霊と道徳
廃病院から戻った朝、ご飯の時間になっても出てこない百六十七センチを起こしに行ったワゴンくんが、大慌てで寮長さんのとこにいったかと思うと救急車が来たりで朝から騒がしい。何やら部屋で土気色して四十度の高熱にうなされていたらしく、ワゴンくんと懐中電灯くんはしきりに祟りだなんだと騒いでるけど、僕としては抜けた穴埋めを考えるのに必死だった。戻ってきたらなにをおごらせようかなともね。
一応二人にも、肌寒い中テンションに任せてだいぶはしゃいだから、風邪や肺炎くらいひいてもおかしくない、僕らも気をつけなきゃねと言ったんだけど、聞く耳なしときたもんだ。君ら祟りがあって欲しいように見えるんだけど気のせいかな。
仕事終わった後、即日入院になった百六十七センチの面会にワゴンくんらと行ったけど、ご両親が来てたので果物だけ渡して帰宅。原因不明の高熱とはいえ、意識はあるし疲労でもたまってたんだろうと思っていたんだ、この時までは。
午前一時、まだ祟りだなんだと言ってる二人とゲームしながら夜更かししてたのね、すると突然ドアをノックする音がして、何も言っていないのに失礼しまーすと女の人の声がしたのよ。
え? と思う間もなく看護師さんぽい感じの、カップ麺のチャーシューより薄くて向こうが透けて見える人が、これまたふぐ刺しより薄い配膳カートみたいなのを持ってやって来たのね。
「お食事の時間ですよー。白山さんちゃんと食べましょうねー」
若いってのはなんとなくわかるんだけど顔や手足なんかは薄すぎて判別出来ない。声もかすかに聞こえるだけなんだけど楽しそう。
「宮田さんしんどいの? 大丈夫かなぁ? 食べれそう? 無理したらアカンよ」
「坂口さんお魚もちゃんと食べてくださいねー」
あぜんとしてる僕らをよそに、空中になにかを配ったっぽい看護師さんがついに僕らの前に来たかと思うと、急に雰囲気が寒気を持つものに変わって、能面のような顔でこちらを見ているわけですよ。人間驚きすぎてる時と怖すぎる時って声も出せないもんなんだなぁと、身動き一つ出来ずに固まる男三人を他人事のように考えて気を紛らわせるのが精一杯。たっぷり一分くらい見つめられてたと思ったら、来たときと同じくらい突然カートを返して戻っていった。扉を横に開けるような素振りを見せて、開いていないはずの縦開きの扉をすり抜けて出ていったのが本当に怖かったなぁ。
出ていってからたっぷり五分くらいして、肺の底から空気を絞り出すようにして吐いてやっと動けるようになった。ドアの外に待ちかまえていないことを慎重に確かめて、自分の部屋に転がるように帰った二人。それを見送って、とりあえず明日も仕事だしもう寝ようと布団に入ったところで再度ノックの音が。
「ちゃんと食べれたかなぁ? お薬の時間ですよー」
相変わらず部屋主の意向を無視しておしゃべりする看護師さん。さっきよりは濃くなっていて、軽く脱いた色の髪が肩にかからないくらいのショートだとか、口紅がかなりハッキリした色で、ファンデーションが白を強調しているのと相まって目立つなぁとか、目鼻立ちがスッキリしていて満面の笑顔と相まってなかなかの美人さんだと分かる。
「白山さん寝にくいってゆうてたから寝やすくなるお薬今日から出てますよー、ニガいけど我慢してくださいねー」
「宮田さんあんまり食べれてないねぇ、先生ゆうとくから後で点滴でもしてもらおかー」
「坂口さんお魚全部食べれたやん、エライエライ、次もお願いしますねー」
何かを受け取ったり渡したりしてる仕草がわかるくらいには腕のようなものが見えてきたんだけど、考える間もなく僕の方に来たのであわてて布団の中に潜り込む。
さっきまでの柔らかな物腰と軽快なトークは正しく白衣の天使、まぁ本当に天使なんだけどもってやかましいわ! と一人ツッコミ出来るくらい無害そうだったのに、僕の前に来た瞬間から底冷えする空気と緊迫感、そして無言の視線……。考えたくないけど、どうやらここは四人部屋で、僕は四人目の入院患者扱いなのかな。だったらいま正に入院している百六十七センチの面倒みてやってよホント。このまま僕も患者とカウントされたらどうなるんだろ。バルさん、いやこの人真面目そうだからバルサンさんっていうかな、しっかりご飯食べましょうねーとか言い出されたらなんて返したらいいのかわからんよ?
「食べましょうもなにも、なんもないやん! 霞食べさせんのは仙人だけにしとこうな」
なんて出来る限り明るく返そうとしても、多分すいませんと謝る事すら許されない絶対零度空間を作られるだけだと思うね。ままごとプレイに無理やり人を付きあわせておいて、なんかチャチャ入れられるとマジギレしそう、これが年齢一桁なら可愛いし許されるんだろうけど、生きることすら許されなくなった人じゃねぇ……。
なんにせよさっきまで慈愛が服を着て看護してる感じだったのに、無言の今どんな顔して僕を見ているのかは知らないし知りたくもない。見つめ合ったわけでもないのに素直におしゃべりしてくれなくなったんだから、よけいに悪い方向にいくのは目に見えてるよね。
そんな事を考えている内に急に気配が薄まったかと思うと、カートを押す音とスライド式のドアが開く音がした。鍵もしっかりしておいたのに無視した挙げ句、他人の部屋をどんどん自分の快適空間にしようとするタイプかぁ。こりゃ好かれても嫌われても面倒くさいなぁ、というかそんなタイプは百六十七センチだけでもうお腹いっぱいですよ僕は!
その日はさすがに仕事に集中出来ずゲンナリした一日でした。ワゴンくんや懐中電灯くんが欠勤しようとして寮長さんに引きずり出され、ヤバいとマジヤバいの二パターンしか喋れなくなってたりと向こうも大変だったみたい。百六十七センチは急に熱が下がったから、今日一日様子見て明日退院なんだそうで。
どういった対策を取るにしても、まずは何より寮長さんの理解がないと始まらないんだけど、初夏の頃、価値観のすれ違いが生んだ悲しい事故以来どうにも覚えが悪いんだよね。
嘆いてばかりもいられないので、夕ご飯の後寮長さんに相談を持ちかける。
「なんやお前もワゴンらみたいに祟りやなんや言いに来たんか?」
「あー、先日廃病院に行ってからエライびくついてますね。懐中電灯の光を人魂やて叫んだりしてましたから」
「エエ年してまたそんなしょーもない事しとったんかい」
「若気の至りですよ、それよりもしかするとまたバルサン使うか、業者呼ぶかせなアカン話があるんですけど」
「どないしてん? またなんかもめたんかい」
「どーも夜行性の大型動物が天井裏走り回ってるみたいですよ。一時くらいになると僕の部屋辺りでガサガサしよるんで、罠かなんかあればなぁと。とりあえず一度見に来てもらっていいです?」
「そんなデカいんかい」
「いやー足音だけなもんでして、でも猫よりは大きそうな感じですね。誰かペットでも飼っとって逃げ出したとかなんかなと。ワゴンくんらに相談したら祟りやなんや言い出して困っとったとこなんですよ」
「巣作りされたらかなわんな、一時やったか、少し前にネズミ用の罠もっていくわ」
「お手間かけるんですけど、よろしくお願いします」
夕ご飯の後、人の顔見た瞬間に逃げ出した失礼なワゴンくんを捕まえてあれからの話を聞いてみる。
「あれからずーっとノックが続いとったんや、朝んなって止んだけどな」
「ナースコールは押してへんよって言ってみた?」
「窓の方からしよんねや! 三階やぞ俺の部屋。あークソ、なんで俺の方に来んねん……いらんことしたんはお前らやろ……」
「僕の方も来たよ、ご飯の片づけとお薬の時間やて。ごっつハッキリしてきたから明日明後日には触れるんちゃう?」
「バルサンなんでそんな余裕やねん……、俺今日は外泊許可もろとるから実家泊まるわ。お前どないすんねん」
「弟くんが一人暮らしやから避難も考えたんやけどね、僕に憑いてきてたら可哀想やん。今日明日はこっちで対策考えてみるわ。百六十七センチは無事退院出来そうなん?」
「おお、さっき本人から連絡あったわ。大丈夫かて聞いてみたけど、もう熱も下がったしバッチリやとかゆうてたからな、あいつはなんもないんちゃうか」
「ほなやっぱ僕に話があんのかな」
「大丈夫なんか? 寺かどっか相談行った方がええんちゃうか」
「何するにしても寮長さんの理解を得んとね、今日はその辺頑張ってみるわ」
日付が変わるころネズミ取りを持って来てくれた寮長さん。
「へー、なんか虫かごみたいなんにエサ仕掛けるんやと思とったらゴキブリホイホイみたいなんですねぇ」
「いつの話やねん、今はこんなもんやて」
押入の奥から天井に上がれるらしく、幾つか設置してくれた。なんだかんだ言っても面倒を見てくれる良心的な寮長さんの姿に、切羽詰ってる僕でも罪悪感が湧くけど仕方ないよね。
「まぁタヌキとかやったらお手上げやがな、そろそろ来るんか?」
同時にカートの音が聞こえたので、部屋の窓際まで後退しつつ返答する。
「ああ、ちょうど来ましたわ。なんて説明したもんか分からんのですけど」
怪訝そうな顔する寮長さんと同時にノックの音。やっぱり昨日より濃くなってて、手足どころか瀬古さんとある名札や服のしわまで解る。最近のCGがCGと解らないものがあるように、遠目から暗いところで見れば生きてる人としか思えない気がする。この自己主張の強さは見習いたいなと思うと同時に、髪型や化粧のセンスなどからも感じていた世代の違いを意識していたり。
いいなぁ瀬古さん、たぶん同い年くらいなのに、アルバイトの月給が四十万とか、就職二年目の女性で年収七百万円とか、会社の草野球同好会が東京旅行ついでに、東京ドームを積立金で一日貸し切りにして遊んだりしてた時代じゃない。死んでからもこう力強くいられるってのは少し羨ましい、たぶんだけど僕らの世代って幽霊になる才能があったとしても、そんなに強く存在を意識させれない気がする。
欲望に淡泊な世代は、高いもんがいいもんの世代にあの世に行ってからも虐げられるのかと思うとちょっとガッカリした。盆に帰省した時、家でお茶受けに出たスイカ大福と同じくらいのガッカリ感。餡とスイカとスイカの水分の相性の悪さがもの凄いのよ、オマケに水分の吸収を後先考えず葛でやってるもんだから味のバランスが最悪。スイカと餡が好きなだけに落胆もひとしおだよ! 皮ごといれることで水分問題を解決して販売にこぎつけたぶどう大福さんに泣いて謝って欲しい話でしたと。
しかし夢がないよね夢が、別に幽霊になるのが夢ってわけじゃないけどさ。
ボケっとそんな事を考えれるほどには平和な空気で夕食を配っている瀬古さん。セリフは昨日と全く同じ、違う気遣いの言葉になったりしないか注意してたけど、トーンや声色まで同じ、違うのは声量だけ。余程の名作でも二回連続で同じところを見れるものは少ないってのに、見たくもないものを見せられるのは真剣にキツい。
余談だけど名作の条件は見返す度に新たな発見があって、新鮮な感情が明日に繋がるくらい胸一杯に広がっていくというのがあると思うんだ。プラスの感情なら生きてるだけで楽しいって再発見出来るから素晴らしいし、マイナスの感情でもこのままじゃいけないと、悲壮感と焦燥感に駆られてがむしゃらに生きれる素晴らしい余韻の一時をくれる。その時間の長さがそのまま、その名作との相性なんだろうねきっと。
さて寮長さんはというと、尻餅をついてそのまま窓際まで這いずるようにして後退。手近にあった毛布をかぶりながら、壊れたスピーカーみたいになんかおるなんかおるを繰り返すだけになっているご様子。瀬古さんの雰囲気が変わって近づいてくるのを見計らい、寮長さんとはっきり離れた位置に逃げてみる。
予想通りというか、寮長さんには見向きもせずに僕の方へまっしぐらに来て無言の圧力をかけてくる。目や口から思い切り冷気を差し込まれている感覚に加えて、山場を迎えたジェットコースター並に息苦しい状態にさせられるのがキツい。直接的になにかされなくてもあと二、三日で窒息死させられそう。
それにしても、廃病院から直線距離でも二十キロはあるはずなのに、そこに侵入しただけの奴をよくまぁここまで追跡出来るもんだ。他のメンツや族に被害がないのに、僕だけ一人狙いされてるのは猫にマタタビみたいな、瀬古さんを強く引きつけるものでも持っているんだろうか。しかしまぁ、折角幽霊になったってのにやることが睨み据えるだけってのもなんかなぁ。殺すにしろ仇なすにしろなんだかすごく迂遠な気がする、あの世ってのはこっちと違って暇なのかしら。
そんなことを考えて必死に恐怖を打ち消していたら、いつの間にか寮長さんのリピートワードがなんまんだぶなんまんだぶに変わってた。手をこするような音もするから仏教の民間療法みたいなことしてるはずなのに、瀬古さんには一切変化なし。やっぱ白衣の天使だけに耶蘇かなんかなのかしら、とか昨日は五分程度で一旦帰ったのに今日はしつこいなと思ってたらドアから再度ノックの音とお薬の時間のお知らせ。
じゃあこの目の前からプレッシャーかけてる人はなんなんだと思って顔を上げようとした瞬間意識が途切れた。
気づいたときには明け方六時半でしたと。僕と同じく気絶したと思われる寮長さんを起こしたらこっぴどく怒られた。
「……、なんやあれ」
さっきの瀬古さん顔負けなくらい長い沈黙と冷気を放ってた寮長さんが重い口を開いた一言。濃縮されすぎててなんとも応えに困る質問だよね。矢継ぎ早に細かい質問してくれた方が僕は応えやすいんだけどな、残念ながらそんなアピール出来る程寮長さんと仲良くないし、今もサブプライムショック真っ青なくらいの急降下中だろうしねぇ。
「ここを病院と勘違いして深夜徘徊してる瀬古さんですね」
「そんな事聞いとらんやろが! なんであんなもんに付きまとわれとんねん!」
「なんでかわかりませんが、好かれるか嫌われるかしたみたいですね、僕ら。寮長さんも気をつけてくださいね」
「……なんで俺の話になんねん」
「見える人のとこに順繰りで配膳する主義みたいですよ、僕の次はワゴンくん、次は懐中電灯くん、百六十七センチはデザート扱いかな。今日の感じやと対象が死んだら次行くんちゃいますかね」
「ほなどないするつもりやねんおまえ!」
「まぁ順番が僕の間に諦めてもらうようするつもりですけどね、色々ガタ付くと思うんですがしばらく勘弁してください」
もちろんパーフェクトに口からでまかせなんだけどね、出会って数時間の女性の事をこんな細部まで把握出来る程コミュニケーション能力持ってませんて。
でもこうやって不安を散らすために怒ったりしてる人に、安心の要素を二、不安の要素を八くらいの比率で交互に行うと主導権を握りやすいんだよね。
ポイントは真っ赤な顔した人に、胸ぐら掴まれて一触即発になっても、あくまでも泰然自若とした態度を崩さないこと、なんでもない日常なんですよという態度と平静そのものの声色で応対するのが大事なのね。
まぁ僕の不安要素の使い方は女の子のそれで、全弾カウンター狙いなので意気を殺ぎやすいんだけど、とってもしこりが残るのであんまりおすすめは出来ないかな。でも今って緊急事態だし許されるよね。
主導権をうまくとれたから今度は自分にお任せ、いいようにしますよーっていう安心のバーゲンセールで攻めてみた。
昨日今日巻き込まれたばっかだってワゴンくんらが訴えてたろうに、同じ条件の僕がしたり顔で解説している事を不思議に思わない寮長さんは、詐欺とか新新興宗教団体の勧誘行為、新聞の購買営業にはよく気を付けたほうがいいと思うの。
その後の説教を要約すると早急になんとかせぇよって事なのでまぁよしと思いたい。これで多少派手な真似をしても解決まではお目こぼし願えるでしょう、少なくとも無視は期待出来る。六畳一間の暗闇に野郎二人で震えて身を寄せあい、意識を失っても手を繋いだまま朝を迎え、その後息がかかる距離で熱く将来の展望を語り合う。なんていう僕じゃなかったら一生もののトラウマになりそうなショッキングな夜を耐えた甲斐はあったと思う、思いたい、思わねばやっていられない。
さてそんな最悪の目覚めでも仕事は変わらず同じようにこなさなければならないわけで、歯車って結構エキサイティングな人生だよねと思うこのごろ。
どうにも体がゲッソリした気がして体重計に乗ってみるとあらビックリ、たった二日で二キロも落ちてる。
ザ・不思議ダイエット。廃病院を訪ねた後、部屋の隅で毛布をかぶってガタガタ震えるだけの簡単な運動で、あっという間に驚きのスリムボディに! みたいな感じで宣伝したら女性や減量中のボクサーから訪問者増えるんじゃなかろうか。
いや増やしたところでどうということもないかもしれんけど、全員のとこに配膳に行くのか興味が湧くよね。二百人くらいに配膳するはめになったら、一人一分ペースで配膳と回収を行っても朝が来ちゃうだろうし。それとも不思議な力で同時に多重存在出来るのかしら。生命の定義と物理学の存在を豪快に無視してまでやることが、高等哺乳類の体重を一日一キロ削るだけって、物理科学者と医療研究者が血の涙を流しかねないレベルの才能の無駄遣いだろうねぇ。
まぁ一日一キロペースのダイエットなんて、一ヶ月しない内に測定不能なくらい軽い存在に変化するのが目に見えてるから絶対ごめんだけど。
職場に行くと朝から元気よく迷惑のお詫び行脚をしてる百六十七センチがいた。
「なんやうなされるだけうなされたら、ごっつスッキリして新たな世界が開けた感じやわ」
「脳の再検査してもろた?」
「バルサンあのな、社会人として、人間としてそこは退院おめでとうちゃうんか」
「僕とワゴンくん、君の分持って毎日残業やったよ。人間基本道徳として、新たな世界の話より先にお礼の言葉なんやないの」
「……、アリガトウゴザイマシタ」
「素直で大変よろしい、ワゴンくんや寮長さんらと退院祝いを兼ねてデリヘル頼んどいたで。夜中の一時から瀬古さんゆう人が来ることなってんねんけど、部屋僕の部屋で案内してええな? 君の部屋人外魔境やもんね」
「え、なんやそれ。マジで」
「うん、廃病院帰りにマジで病院送りになった祟られ人間が、そのシチュエーションで興奮出来るか? ゆうことやね、出来る方に賭けてんねんからしっかり頼むで」
「そないデリケートな問題を賭けにすんなや! あと誰の部屋が人外魔境やねん!」
「人の部屋で百六十七センチ飛ばせる子に今更デリケートはないわ、デリケートの言霊くんになんぞ恨みでもあんの? それに入寮して二ヶ月せん内に畳が消える部屋なんて人間世界にはないからね? あるとしたらそれは人外魔境やからね」
なんだか百六十七センチの部屋に行く度に掃除しかしていない気がする、二週間も放置しておくと魔窟が形成されかかってるから笑えない。掃除が面倒くさいっていうけど、あんな状況じゃゴミや汚れが気になって普通に生活するのも難しいじゃない、そっちの方がトータルじゃよっぽど面倒くさいと思うんだけどどうなんだろう。
まぁ今回は最後に僕が行ったのが十日前ってことで、僕の部屋にって提案をあっさり受け入れてもらえた。本当、人間の営みの中でも最大限のプライバシー問題なのに、あっさり他人の空間を受け入れるよね百六十七センチさんは……。タフというかなんというか、真似はしたくないけど一部見習わなきゃいけないかな。
早々に仕事を終えて夜八時過ぎから再度廃病院に侵入し、カメラで先日通った行程を全て録画してから自室に戻る。
百六十七センチが来る十一時を前に様子の確認と撮影の為に昨日電気街で購入しておいた無線式ピンホールカメラを設置する。瀬古さんはもとより百六十七センチにバレては意味がないので慎重に。
最近新調して、粗大ゴミの日まで窓際のオブジェになってるスピーカーを解体して音響部分に一個設置して戻す。
新古書店で購入して机の積み本になっていた百円のハードカバー歴史年代記もの五連作を取り出して、真ん中の本から中身をくり貫いて背表紙の黒部分からレンズを出す形に設置して戻す。
入り口そばの傘置きにある黒塗り傘をワンタッチ開閉スイッチ部分から柄の部分までを切断して、レンズがスイッチの位置になるように接着して立てておく。
それぞれバッテリーも一緒に仕込んであるからまぁ五時間は頑張ってくれるでしょう。
自分の部屋の隅に布団をたたんで置いて押入に隠れつつ経過を見守ってみる。ノートパソコンを起動してカメラの動作チェックしてみたら、狭いからか予想以上にノートのファンがうるさい。毛布で包んで静かには出来たけど今度は熱くなるという当然の結果に。まぁ三時間はかからないだろうし、大丈夫だと信じよう。
僕のいる所に来る可能性が高いから、避難先を襲われて百六十七センチは待ちぼうけってのを避けると、こんな未来から来た猫型ロボットの住処みたいなとこしか隠れるとこ思いつかなかった。
どうでもいいけど、あの猫型ロボって悲惨な主人公の未来を変えにきたっていう割には、結婚までの未来しか話さないよね。人生の長さや重さからいえば結婚してからのほうが大変だし大事なはずなのにねぇ。結婚は人生の墓場というブラックジョークを踏襲してるんだろうか。それとも結婚後は出来のいい美人の奥さんに全部後始末させるつもり? 社長夫人というバラ色の未来が本来なら待ち受けていた奥さんをズタボロにして、ようやくプラマイゼロになるようなクズだけを幸せにする事に何の意味があるんだろう。バタフライエフェクトなんてクソ食らえですよ!
あの国民的マンガ一つとっても未来には希望が溢れてるなんてとても思えないんだけど。文明がどれほど進んでみても、結局僕らの精神には進歩も何もなくて、雨が降っただけで苛立ったりするんだろうな。過去と現在と未来にある人と人の繋がりを密接に感じれていいとは思うけど、マンガにすら夢を見れないなんて実に世知辛いよね現実ってやつは。
押入の襖をノックして来られたらその時はその時で覚悟を決めよう。僕がそんないじましい決意をしている間、百六十七センチはAVやら、どこから持ってきたのか大人のおもちゃを大量に準備していて、なんだか女性に夢を見すぎというか、デリヘルを誤解しすぎというか生温かい気持ちになった。それ実際にやったら即座に嬢さんが運転手さんとこ駆け込んで、怖いお兄さんとの二時間人生の本番、なオチにしかならないと思うけどね。あまりにも幸せそうな顔に夢くらいは見させてあげたくなる。この調子ならもはや消毒薬の香りすら漂わせ出した瀬古さんを幽霊だとは夢にも思うまい。瀬古さんも、これまで四人目扱いした奴らとはモノが違う対応になにがしかの反応を見せてくれるはず、ひるんだりしてくれたらしめたもので、取り急ぎ輸入雑貨屋で入手してきた全世界の塩十種類を浴びせてみよう。
お清め塩って非食品な上にスーパーじゃ売ってないのね、本日一番の計算外だよ。二番目はこれ仏教じゃなくて神道の教えだって点かな。まぁ日本人なら食卓塩でも効果あると信じて買ってみたのね。
一キロ百円の超安物人工塩だと結晶は砂粒みたいなのに、沖縄の職人手作り、昔ながらの塩だと三回くらい丁寧に濾したパウダーみたいでおもしろい。味の違いもハッキリしていて後者はただ炊き立てご飯に軽くのせるだけでもお代わりいける逸品。芯があって強い味わいなんだけど、どこか透明でどんな味でも引き立てるというか……。百グラムで七百円するだけあるよこれは。
そのほかにも外国産の岩塩とかハーブ塩などなど。百グラムで千円の奴を見つけた時は、高いもんがいいもんの世代には効果てき面だ! と意気込んで買ってはみたんだけど、冷静になってみるとだいだい色で四角くて大きな結晶のそれを当てても、塩として認識してくれない気が……。やはりここは沖縄塩に期待か、肉によし魚によし野菜によしに加えて、幽霊によしとくればもういうことはないよね。うまくいったら、食卓のお供に加えて深夜の学校に忘れ物を取りに帰るお供や、肝試しで廃病院や墓地に行くお供に。ていうキャッチコピーを四つのよしと併せてメーカーさんに送ってみよう。
そうやって押入の中からハンドライトで食卓塩のブレンドを、お清め塩っぽく見えるように和紙に包んだり。まぁ手頃な和紙がなかったのであぶらとり紙で代用したけど細かい事だよね。岩塩をカッターでこつこつ削って粉にして、それも包んでるとあっという間に三十分前。
百六十七センチはというと、自分の部屋から持ってきたナースもののAVを再生して一人上手の真っ最中。ピンクなのに白衣とはこれいかに? という疑問が先に立ってしまって、僕はどうもうまく楽しめないんだよね。ていうかピンクの白衣着てる医療機関って本当に存在するの? うっすらピンクなら結構あるけど、あんなちゃんとした桃色はそれ系でしか拝んだことがないのよね。まさか特注とかじゃないよねあれ……。
とはいえ後でファブリーズしとかなきゃなとか、塩ついでにポプリ買っておけばよかったなとか思ってると、リノリウムの床に台車を走らせてる音と消毒薬、そしてわずかなシャンプーの香りがしてきた。なんだっけこれ、子供の頃母上が使ってたような気がする。外国人のモデルさんがすごく独特な髪の洗い方をしながら後ろでシャンプー名を連呼しているのが気に入って買ったとかなんとか……。小学校に上がる前には違うのになったから思い出せない……。
しかしなんだろう、雨後の竹の子だってもうちょっと控えめな成長ペースじゃなかろうか。つき合いは三日目だけど、会ってる時間はトータル三時間切ってるはずなんですけどね。
ていうか瀬古さんはここを病室にしてなにがしたいの? 郷に入っては郷に従えというありがたいお言葉の意味を噛みしめてもらいたいもんですよ! 未だ四人目の患者扱いでもないし病院食も食べさせて貰ってないけど、所の法に矢は立たぬって原理をシカトしてくれてるお陰で、寮の法である寮長さんと角が立ってシカッティングされるという、とんでもない割を食わされてるんですけどね僕は!
社会の荒波より理不尽で不条理な事に対する怒りを新たにしていると、いつも通り明るい声で入ってくる瀬古さんと上機嫌で応対に立つ百六十七センチの返事が被った後、駅の階段でケンカしてひとしきり泣き叫んだ後、見つめて解って慰めて光線絶賛放出中のカップルより痛ましい沈黙の時間が訪れてた。
狙い通りいったし、さて塩でも浴びせてみるか、最初は何にしよう、やっぱ百円の安物からかなと考えつつ押入から出る。
突然押入から出てきた僕におわっとか言いながら飛び退く失礼極まりない百六十七センチをひとまず無視して、瀬古さんの方を見てみると完全に固まったまま薄くなってるというね。
昔祖父の最期を看取った時と同じだ、なんか気配が薄くなってうまくいえない死の匂いがしたと思ったらもういなくなってた。どーしたもんかなと思いつつ確認の電話をかけてみる。
「おい、なんやねんこれ。どないなってんねん今の女」
「あー、ちょい待ち。もしもしワゴンくん? こっちは今解決したとこやねんけどそっちどないよ」
「ノックが始まったおもたらいきなり止んだとこや、なんやねんバルサンまたなんかやったんかい」
健全な社会生活を営むのに致命的な害を及ぼしかねないトラブルに巻き込まれたお仲間で、さらにそれを独自の方法で解決したヒーローに対してあんまりな物言いだとは思ったけどひとまず無視して続ける。
「うんまぁ色々。説明するから僕の部屋きて」
「おまえ俺をハメる気ちゃうやろな」
「それやったらとうに会話できんような結果になっとる思うよ、心配せんでも百六十七センチも一緒やて、二回説明する無駄を省きたいだけやん」
解ったという返事と共に電話が切れる。
「おいちょお待て、なに勝手に話進めとんねん」
「ワゴンくん来たら説明するって、ちょい寮長さん呼んで来るわ」
ホンマにもうおらんねんな? という念押しに大丈夫ですってと応えるやり取りを数十回繰り返してなんとか寮長さんにも来て貰う。
ワゴンくんといい寮長さんといいなんかすごく僕に対する信用がない気がするけど気にしたら負けだろうか。たとえば僕が犯罪やらかしてテレビで報道されたら、あいつはいつかやる思てました、そうゆう奴ですわ。とか喜々として応えそうで困るなぁ。そんな時は人間基本道徳として、真面目でいい人でした、そんな事するなんて信じられないって言わなきゃいけないはずなのにね。
いやまぁ犯罪なんていう人生のプロセスを三十歩手前くらいから間違え続けて、やっと起こり得る場合が多いようなご苦労な真似はする気も予定もないけども。
入院していた百六十七センチのために瀬古さんの説明をして、廃病院にお帰りいただくためにデリヘルを呼んだことにして矢面に立たせたと話した辺りで怒鳴られた。
「バルサン、俺を生け贄にしたんか!」
「うんまぁ、関西人が三人揃ってノーリアクションなんて恥晒してもたからね、ポリコの調書に百六十七センチでしたと応えてのけたお方に一つ手本でも見せてもらおかなと」
「おま……、俺が死んだらどないしてくれんねん!」
「ご両親には腹上死ゆうんが伝わらんように努力するつもりやったよ」
「おまえちょおマジで表出ろ」
「えー、いややん肌寒い。それにまだ虫おるで」
「おっまえなぁ! 俺がどないなってもええんか」
「一応ちゃんと考えてるて、正直に、これから多分百六十七センチのとこにも瀬古さんお参りに来るよ。なんて伝えても僕らと同じ結果になるだけやん? それやったらいっそ予想外の事して出方うかがったほうがええやん。窒息死させられるまでどうせあと二日もなかったやろうし、死にたないから精一杯あがかなアカンし、かといって僕らは仕事をサボれん悲しきプロレタリアじゃない。プロレタリアートじゃないですか! やから、みんなが助かる為に、まず説得を。なんて悠長な話やなかったもん。それとも素直にゆうたら信じて僕の盾になってくれた?」
「いや……、でもなぁ……、それはちょっとちゃうやろ、なんか」
百六十七センチを遮るように寮長さんが怒鳴る。
「ちょお待て! 動物やなんやゆうて俺呼んだんもやっぱそういう理由か」
「あ、まだゆうてませんでしたっけ。騒がしくするかもしれんかったんで先寮長さんに許可もらお思てですね」
「おまえ一体どないな教育受けてきとんねん!」
「え、道徳の教育みたいに素直に、廃病院肝試しいってから夜な夜な看護師が食事と薬配りに来るんです。って泣きついたらよかったんですか? 心の病院紹介するか、疲れてんねんな、二、三日休もか。ってなればええほうで普通に取り合ってもらえん気がしたもんでして。ワゴンくんと懐中電灯くんの実例もありましたし」
あ、そういや懐中電灯くん呼ぶの忘れてたな。まぁいいか、あの後は何もなかったようだし、もう関わりたくないらしいし。
「いや……、でもおまえ人騙すようなマネはやな!」
「まぁ緊急避難てことで、僕も信じてもらえんかったわけですしおあいこですよ」
「てめっ……、いや……まぁええわ。で結局どないなったんや」
「三十分前から一人上手したり、大人のおもちゃ準備して必死な百六十七センチみたらあっという間に蒸発しました」
たっぷり沈黙の後、困った顔をして聞き返してくる寮長さん。
「……、なんやって?」
「いやだから、いつも通り楽しそうにいたぶりに来たら、ごっつヤる気満々なんがおってショック受けたんやないですかね。ずいぶん特殊なおもちゃを使った特殊なプレイするつもりやったみたいですし」
「あれはその……、もしかしたら使う機会があるかもしれんて準備しとっただけや! 絶対使お思っとったわけちゃうわ! 賭けしとるゆうとったから万が一にも男の恥にならんようにやな!!」
「じゃなにか、百六十七センチみただけで消えたゆうんか!」
「え? お札とかやないんか? 俺実家から厄除けのやつ持ってきとったのに」
「ああ、うん。この部屋の特殊な惨状見て怯んでくれたら世界の名塩十選を浴びせてみるつもりやってんよ」
押入から食卓塩十種を取り出してみせる。
「ちょ待てや! なんで食塩やねん。お清めちゃうんか普通!」
焦りっぱなしのワゴンくん。君意外と信心深いっていうか、なんでそんなお札好きなの。あと握ってるお札を僕の方に向け続けてるのが地味に気にかかるんだけど、これどういう意味合いの行為なのかしら。ていうかそんなに大事ならお財布の諭吉さんと一緒させとけば?
「スーパーで売ってなかってん。しゃーないから包装だけ変えてそれっぽくはしてみてたけど。鰯の頭も信心ゆうしまぁええやろと、当てるならテーブル用の瓶入りのが絶対ええねんけどねぇ、やっぱ気配や雰囲気だけの人相手やしその変大事なんちゃうかなて思て」
「……なんやごっつ頭痛なってきた。ほななにか? 俺を盾にして食塩振りまくだけのつもりやったんか」
「大丈夫? 熱ぶり返したんちがう」
「やかましいわ! 誰のせいや思とんねん」
「瀬古さんにはみんな困らされてたからね、しゃーないしゃーない。それにほら」
あぜんとしてる百六十七センチを後目に室内の無線式カメラを取り外して持ってくる。
「このカメラで一部始終を録画してみるつもりやってん。今日でアカンかったら仕事中に病院名と名前から過去割って、結婚してたら旦那んとこ、未婚なら実家の住所と、最期の勤務先である廃病院でまとわりつかれる行動を記録した動画を併せて、動画共有ソフトとか動画投稿サイトにバラ撒いて、潜在的被害者を全世界に広げて僕らだけにかもてられんようにしてみよかなと」
いかに機械的に毎日を繰り返すっていっても数百、数千、数万回となれば破綻してくるはず。時間的にも、一人当たりにかける時間が減る分実害もグッと減るはずだしね。
「ちょお待て! いつから仕掛けとったんじゃそれ!」
「え? 今日、ああもう昨日か、部屋戻ってきてからすぐ。百六十七センチさんの一人上手くらいしか撮れてへんけど。なんやごっつユニークな握りやんね」
「なんやユニークて」
「観ます?」
「いらんわい」
「やめんかボケェ! ええやろ別にどんなんでも」
「え? こいつ別に普通やろ?」
「なんや今日は一分くらいで左右交互に握り変えてんねんよ、盛り上がりすぎやね。そら女の子に話しかけられんやろなぁ思たわ」
「おまえ俺になんか恨みでもあんのか!! ほっとけやボケが!」
「ああ、うん。百六十七センチの恨みかな。まぁそんな感じで、不特定多数に晒して忙しくしたうえに、家族さんにもデータ送りつけて恥晒されたら絶対嫌がって来んようなるやろ思てね」
「それで復讐に来られたらどないするつもりやってん」
「そこまで強いんやったら一日、二日あがいてみたところでどうもならんやろなってことで諦めますかね。まぁ遺書くらいは書いてましたけど」
といっても大したもんじゃなくて、弟くんには高級料理店と例えられたゲームハードと、料理店自慢のメインディッシュなのにお客さんのテーブルに置かれるまで三年かかったソフトを初めとした一式、妹さんにはある紳士一族とそれにタカる不死身の個人が対決してる内に宇宙が一巡して、以前と大分異なった世界で最初からやり直してるマンガ全冊あげるというもの。
両親にはお茶受けにスイカ大福とか作っちゃう上に、試食しておかしいとも思わない妹さんは早いとこマトモな料理教室にいれるべきですという簡素なもの。いまいち危機感のない両親も可愛い息子の最後の頼みとあらば聞いてくれるでしょう。
しかしなんであんな料理下手なんだろ、普通は試食さえキチンとしてればある程度マシな料理になるはずなんだけどねぇ。調理中の味をみてるのに完成品の味付けを求めたり、分量もロクに計らないのに冒険だけはしたがるって理解出来ない。計量カップに残る水の分も考えて水を入れる弟くんを少しは見習って欲しいよホント。
「あきら……、いやまぁともかく、今日は帰っただけとかやったらどないすんねん」
「あー手応えあったゆうか、死んだ感じしたから大丈夫や思いますよ。幽霊に思うのも変な話ですけど」
「手応えてなんやねん……」
「鶏シメた時とかにある、あ、今死んだな。いう感触ですって」
「シメたことないから解らんわい……」
「動画サイトで被害者を増やすつもりやったて……、普通霊能者とか探さんか?」
まだお札を握ってるワゴンくん。信心深いっての取り消しだねこれは、変な詐欺とかに引っかからないように強く生きて欲しいなぁ。
「僕、パケ一万五千で売ってくれる人や場所とか、三十万払えば二十分くらいで別人に成り代われる人や場所知ってるし、事故や行方不明の辻褄合わせするとこも知ってるけど、霊能者とか聞いたこともないんよね。裏とか闇社会の人らとも知り合い出来る年齢やのに、仮にも辞書に載ってるような由緒ある職種の人を聞いたこともないて、そらもうおらんて考えるべきちゃう? おるにしてもシーラカンス探すより困難やん、時間三日で会えると思えんかった」
まぁその闇だとか裏社会ってのは、表にいると目に付かないから退屈してる人に妙に期待されやすいみたいだけど、実際のとこパケ一万五千で捌いてる末端の労働なんて、借金漬けで強制就労して、家賃五千円で二畳一間のタコ部屋に五人で寝泊まりさせられてるし、利息分抜かれて渡されるわずか三千円程度の日当で、社員割引二千五百円の混じり気多いパケ買うもんだから、今日のご飯の内容すら覚えてないような廃人で、月に一度は逮捕者が数人出るという状態なんだけどね。
表社会の末端が月二百時間労働して月給八万程度の賃金だと考えると、断然表の方が扱いもよく、末端での差が頂点でも差となる予感のお話ですよ。
見知らぬ世界に希望を抱いて、闇とか裏な社会に飛び込む場合、保証もない後ろ盾もない人間性もないと、ないない尽くしでガッカリすると思うよ。折角親戚や両親からもらった沢山のお年玉が八割貯金に回される時と同じくらいガッカリするんじゃないかな。しかもそれに気づく頃には元いた場所との間にマリアナ海溝より深い溝が出来ていて完全に詰むアリ地獄というね。日陰に咲く花もそりゃあるけど、たいていはお日様の元で満開になるもんだって事をお忘れなく。道徳の授業で習う通りお天道さまを真っ直ぐ見れる生き方のほうが断然気楽だと思うね。
日陰も日なたも上り詰めるには肉食獣のセンスがいるけど、日陰は現状維持にまで求められるからねぇ。草食系だと叫ばれて久しい僕らが、既に上り詰めてる肉食世代の人たちを相手取るって、ハッキリいって難易度インフェルノ状態じゃないかな。
「なんやろ……、バルサン見とったら怖がっとるほうが間違っとる気ぃすんねんけど」
まだお札を向けられてる上に、なんかさっきから微妙に距離を開け続けている失礼なワゴンくん。怖い時に怖がるのは簡単だから、難しい事を最初にすべきってだけなんだけどね。ゲームの図鑑埋めるのと同じことだよ、条件高い方から埋める手順を考えていけば自ずとコンプリートに繋がるっていうアレ。
「僕かてごっつ怖かったて、まぁこうゆうの初めてやないからそう見えるんちゃう」
「おまえ幽霊おるて知っとって廃病院であんなナメたマネしとったんかい!」
「いやでも、こんな実害あんのは初めてやってんて。前のはルームシェアしとっただけやし、その前のはレースゲームリプレイみたいなもんやったし」
「聞きたないけどなんやねんそれ」
なんかとんでもない一言矛盾発言をしている百六十七センチさん。なにそれ、黄色いジャージの截拳道使いさんのファンですか? 会話っていうかコミュニケーションは、考えるな、感じろ。よりも、感じるな、考えろ。の部分が圧倒的に多い、理性と経験に左右される行為だと思うんだけど。男の子だからってメシ、フロ、ネルの三単語で生活出来ていた時代は終わってるんですよ!
ああでも、映画のワンシーンみたいな山場の瞬間コミュニケーションじゃ、考えるな、感じろ。って状況が多いね。しかし今は推理小説でいえば解答編であって山場なんかじゃないし、恋が愛に発展したり、大きな事件に差し掛かってるわけでもなく、説明を聞き取って意図通り理解して欲しいシーンなんだから、ちゃんと、感じるな、考えろ。の方を実践して欲しいな。
「どっち? ゆうてもまんまやで、ルームシェアは大学入って一人暮らしした時の下宿先やね。1LDK三階の駅二分、コンビニ真下で二ヶ月前にリフォームの相場八万ってとこが家賃二万やってん」
「事故物件か?」
「そうゆうのは親族なり社員なりに二週間くらい貸せば告知義務はなくなるから問題ないやん。不動産屋さんに下見案内してもろて中はいったら、リビングの真っ白な壁にちょうど成人男性って感じの茶色い染みが浮き出ててやね。案内さん曰く、何回塗っても浮いてくるんですよねー、でも大丈夫、ポスターとか貼ったら見えませんよ。見られてる感じしますけど誰かいたりとかはないんで安心ですって」
一応告知義務は数十年に渡って残っているらしいけど、実際に実行してるとこがどれだけあるかは疑問だなぁ、弟くんが一人暮らし始めたとこも厳密には事故物件だったのになんも告知なかったし。ロボット検索で調べて、問い合せてみたらシレっと、うっかりしてました。だもんなぁ……。まぁ差額返金といくらかお詫び料くれたらしいけどね……。
そういう意味じゃ、間に誰か親族なり社員なりを挟んでから、その後もどなたか借りておられますけど全く問題ないですよ。って方が嘘はついてないかな。どっちもどっちちゃそれまでだけど。
「完璧アウトやないか。ようそんなとこ借りる気するな」
言いながら一気に距離をとった失礼なワゴンくんを見て、同じ表情で案内してくれた若い人を思い出した。なんでポスター貼ってないんです? って聞いたら苦笑いしながら、すぐ染みの色が浮き出てくるもんで……。なんて考えられないくらい素直なお答えしてたなぁ。そこは、お客様のお好みがあるかと思って撤去しておきました、ご入居されてからご自由にお貼りください。じゃあないの?
「えー、だって見てるだけやん。それで六万分シェアしてくれるねんからごっつええ染みさんやでたぶん。それに壁や床汚してもその染みさんのせいになるねんからめっちゃ気楽やん。その上案内人さんや管理人さん多分見回りとか文句が来んやろな、そう思てその場で決めたわ」
「ありえん」
「ないわ」
「えー、でもごっつ楽やってんで? いちいち見つめられるんも一週間くらいである程度慣れるし。前の人らはこの一週間が耐えられんかったんやろねぇ、人間の適応能力の高さを信じればよかったのに」
「慣れるかボケェ! 普通なんかされる思うやろがそんなトコ」
「あー、そういや勝手にテレビついたりCDかけてくれたりあったなぁ。目覚ましテレビ好きでAB型で牡羊座の人やと思うわ。一位やったらごっつ機嫌よくて一日どっかおらんようなっとったし、逆に最下位やったら普段の視線の五割り増しで湿気多い視線飛ばしてきてめんどかったー」
なんだろう、普段を雨降りとするならあれは梅雨真っ盛りって感じかな。首筋にかびが生えそうなくらい陰気な感じで、どう考えても僕よりは年上で男性なんだから、世の中の十二分の一の運勢なんて大ざっぱな括りにそこまで一喜一憂せんでもいいじゃんって苦笑してたっけ。
「なぁバルサン、そこの壁って掘り返してみたんか?」
「やってませんよそんな怒られるような真似。なんもないのは解りきってますしね」
「今! 今の状況よう見ぃ! いやもうええわ。とにかくやな、染みが浮いてきてんねやろ」
「人の死体って匂い半端ないですやん、下水の腐った汚泥を煮詰めたみたいな? そんなすえた匂いもせんかったですし、不動産屋さんとか管理人さんが死体隠すんならマンションやなくて山奥やろ思てましたから」
「だったらなんで染みがあんねやろとか気になるやろ……」
「まぁ多少は。でも折角のルームメイトですからね、あんま干渉せんようにしてましたよ。向こうからは干渉されましたけど」
「慣れたゆうとったもんな……、ほなバルサン四年そいつと暮らしとったんかい」
「いや、たぶん二ヶ月くらいやないですかね。なんか僕の嫌がること好きやったみたいで、お風呂とかトイレ入ってる時に斜め後ろから視線当ててくるようになりましてね。僕百六十七センチと違ってそういうプライバシー侵害されんの大嫌いなんですよ」
「俺かてそんなもんされたないわい!」
「ほいでまぁ、人間基本道徳の躾でもしとこかなと思いましてね、三面鏡買ってきて染みのある壁に一面付けて、二つ折り返して僕の生活空間は普通に鏡見えるようにしたんですよ」
「やっぱりお札とかやないねんな……」
「そんなに見つめるのが好きならまず自分をよーく見つめたらええんちゃうかなと思ったんと、まぁ幽霊なんやし、僕よりはタフそやなと思ったんで、おまえは誰だ。とだけ吹き込んだ録音をエンドレス再生して旅行に三泊くらい行ったんですよ。電化製品をいじる染みさんやったから、とりあえず二十個くらいかな、再生機置いて」
「こわっ、ずっと思とったけどな、バルサンの発想のがよっぽど怖いで。おまえなんやねんそれ!」
なんか突然僕から距離を置いた失礼な百六十七センチから怖いとか指摘される。人の部屋で飛距離大会とか飛び降り大会やる発想のがよっぽど怖いよ……。
再生機器も手持ちで三個しかなかったんで、家族や友人から一週間千円でレンタルしてみた。壊れたら弁償で高くつくし、経費だけでも一万七千かかってるから結構な冒険だったんだけどね。それでも本来かかる家賃より浮いた差分で行えるエコロジカルな冒険サイコーって気持ちだったっけ当時は。
「え、いやだって。何回もそれやめてて染みさんに向かってゆうたのにシカトされててんもん。人の嫌がる事とか痛みのわからん子なんやなて思たから、同じくらい嫌がることしたげよ思たんやけど、なにぶんただの染みやん? 実体ないやろからなにが嫌かなて結構真剣に考えてもたわ。で結局自分を見つめなおさせるなんて幼稚園でやるようなとこから始めていこ思たらそうなるやん」
ちょっと想像してみて欲しいな、大学の新生活が始まってサークルも決めて、お友達や飲み会なんかも行くようになっていた前途洋々の時に、そんなお誘いを全部断って、AB型で牡羊座の成人男性で、占いに人生をかけていて人の嫌がる事が大好きな壁の染みのことを考え続けていたあの日の僕の気持ちってやつを。これほど虚しいものであるのに、人はなぜ争うのでしょうか。という悟り直前まで行ったんだから困ったもの。結局四六時中自分を見ていると嫌になるんじゃないかと思って、自分用も兼ねて三面鏡を購入して、それだけじゃ物足りないかもしれないからと、当時某巨大掲示板で有名だった気の狂うといわれる呪いをスパイス代わりにセットしてみたってわけ。ちなみに、百八十サイズの大型三面鏡にしたから六万五千くらいかかって、先述の再生機器と合わせて、結局入居からしばらくは普通のとこ入るより赤字が出た気がする。
「ならへんわ! つーか普通絶対借りへんわそんな部屋」
「……で、旅行から戻ったらどないなっとってん」
「戻ってきたら電源でセットしといたのが五、六個生きてましてね、おまえは誰だ。合唱に出迎えられまして、うっわーなんかお化け出るみたいやなぁって」
「みたいやのうて出とるやろが! 壁の染みより気味悪いことしくさった張本人がなんでひとごとやねん!」
「うん、近所の人からもごっつ怒られたわ、なんやお経みたいなん聞こえるんですけど。とかいろいろ。まぁ謝って後片付けしてたらなんも視線感じひんのに気づいてやね、あーやっぱショックで出ていったんかなぁ、しばらく帰って来ぉへんかも。とか思とったらそれ以降姿見ぃひんかった」
再生機器は借りてた分も自前の分も全部異常なしでしたと。しかし壁の染みより気持ち悪いってのはさすがに心外だよ。お経やなんやの行為に関しては管理人さんからある程度通達があったみたいで、かなりお目こぼし願えたから助かったなぁ。こういう寮だと会社のつながりである程度までは大目にみてもらいやすいけど、普通の住居じゃそうもいかないからね、初夏の悲しい価値観のすれ違い事故をやってたら一発強制退去だろうねぇ。まぁ寮でも普通退去くらうと思うけど。今のこの瀬古さん騒ぎでも。
そうならないのはもう僕の人徳としか言いようがないんじゃないかなと思うんだけどね。そんな人徳溢れる僕に、壁に浮き出る染みより気持ち悪いってのは言い過ぎじゃないのかな百六十七センチ。今なら謝罪絶賛受付中ですよ!
「幽霊が出ていったっちゅうことか?」
「かも、染みが残っとるかは面倒で見ぃひんかったけど、出ていく時管理人さんと不動産屋さんにごっつ感謝されたわー、敷金礼金全額きっちり返してくれた上に、なんも言わんと白封筒くれるからなにか思たら十万もくれたからなぁ。おかげで卒業旅行は優雅に外国巡って来たし」
「ありえん……」
「えー、でも向こうかて面倒な占拠人おらんようなったんやし、家賃も相場の八万に戻せるやろからすぐ取り返せるやん。ごっつ困っとったみたいやしそれくらいくれてもおかしないて」
まぁ本当は一ヶ月くらい帰って来なかった時点で報告してあげるべきだったんだろうけどね、じゃあ来月から八万ね。って言われるのが嫌でさぁ。仕送りも家賃二万って伝えてるから住居変えなきゃいけないだろうけど、今より不便になるの解りきってたしね。管理人さんも不動産屋さんも決して僕の部屋には来なかったし、まだ自立し切れていないモラトリアム大学生なんだから黙ってても許されるよね。ていうかあの白封筒って口止め料だったのかな、なら今すごく悪い事したかも。
「そこやないっちゅうねん! バルサンなんでそんな神経図太してられんの、俺やったら考えられんわ……」
「えー、しばらく睡眠時間減ったり、友達や女の子連れ込めんでごっつ不便やったって。図太いゆうんはなんも気にせん子やろ」
「……、まぁ、それはもうええとしてやな。リプレイってのはなんやねん」
苦虫を噛み潰して飲み込んでから苦虫と気づいたみたいな微妙な顔をしている寮長さん。言いたいことがあったら言わないと健康に悪いと思いますよ。ただでさえ信じやすい性格してるんだから、取得情報量を多くする努力したほうがいいと思うんだ。忠言してあげてもいいんだけど、なんかますます友情度合いが低下してるっていうか、血も凍るような冷気を感じるというかな状態だからねぇ……。
「あー、高校一年やった頃にですね、二つ上の先輩が免許とったーてゴツい車でおったんで。マジでー、ドライブ行こー。って感じで一日乗り回してたんですよ。んでまぁ夜中に峠攻めにいこかてなって」
「取り立てでかい!」
「いや、その先輩レーサー志望やったんですよ。前々からサーキットで練習はしてた人やったんで運転は慣れたもんやったんです」
「てかなんで高校で先輩にタメ口やねん」
「僕は可愛がられてたからね、可愛いは正義やん? まぁ残酷な遺伝子の百六十七センチには解らんかもしれんけど」
「どないな意味やねんこら」
「今君が思た通りやて。でまぁ行った先でごっつ早い赤いスポーツカーが後ろから来てやね、あっという間に抜かれてんよ。四人乗ってて、運転席と助手席に男の子二人と後部座席に女の子二人やったんやけど、抜くとき減速してこっち見ながらニヤついていったんよ。んでレーサーさんがムキになってカーチェイスが始まったんやけど」
「なんやさっきに比べたら話のオチが解りやすい感じやな」
「おー、ワゴンくんごっつ落ち着いてきたやん。お札握りしめとるよりはそっちのがええんちゃう」
「ほっとけや!」
「まぁ正直はやいのはおもろかってんけど、勝ち負けに興味なかったから適当に見ててん。直線はスポーツカーくんらで、コーナーはレーサーさんゆう感じやってんけど、ついにレーサーさんが追いついてきてて、スポーツカーくんがごっつムキになってカーブやのに速度落とさんと突っ込んで自爆。レーサーさんも大慌てでハンドル切って急ブレーキでなんとか止まったんやけどな」
「したら、自爆したはずのスポーツカーがおらんかったゆうんやろ?」
「え、なんで解ったん? いやまさにその通りでさっき突き破ったゆうふうに見えたガードレールの断片がさび付いとって、落ちたばっかのはずやのにごっつい静かやねんよ。あれおっかしいなぁ、どないする、警察よぶか? ゆう話しててやね、いやでもなんもないですし。とかいいながら十分くらいそこおったかな、そしたらエンジン音聞こえてきて、振り返ったら赤いスポーツカーがこっち来ててんよ。ちょうどええとこきたな、ライト持ってへんかな思て、ハザード付けとったから止まってもらお思て発煙筒もってきたとこでさっき自爆した車と全く同じやて気づいて固まったわ。でそのまま、また僕らの前を猛スピードで通ってダイブしていったんやけど、その時もごっついニヤつかれてやね。あーそういう事かて納得してレーサーさんと笑いながら帰った」
「なんやねんそれ……」
「いやだから、レースゲームで最速ラップ出したら、練習モードでその動きゴーストカーが再現してくれるやん。これたぶん峠で天国への最速タイムの人らなんちゃう? ゆうたらレーサーさんも、おー、なるほどな。あの世へのベストラップやったから自慢気に笑とったんやなぁ、確かに勝てんかったし。ホンマですね、残念やったけどまぁ僕らは続きもあるし、そろそろ家にゴールしましょかゆうて帰ったんよ」
「絶対ありえんわ、おまえらなんでその場で笑い話に出来んねん」
「えー、でもごっつ平和な子らやったで、物理的には通り過ぎたはずのレーサーさんの車に傷一つ付いてなかったし」
「いやそれ絶対そこでハンドルミスらせて事故らせる気やった奴らやろ……」
「え……、あーなるほど……。考えてもみぃひんかったけど確かにそうかもしれませんね、僕やったら落ちてそう。なんやごっつ怖い子らやってんなぁ」
ダイブしてから峠の入り口に戻るのをテレポートでやってるっぽいから、それ使えばレースゲームなんてなにやらしても最速たたき出せるのになんか真面目な子らだなぁとか思ってたのにすごくガッカリした。友達を百人作ってもほぼ無意味に等しいと気付かされた時と同じくらいのガッカリ感。
あんな歌を小学校一年生に教えるのは罪悪にも等しいと思うの。そんなのより好きなことしてるほうが絶対楽しいって。収拾がつかないし気は使うし、数優先だからちょっと気が合う程度でもう一緒にいないといけなくなるし、同じ理由でちょっと気が合わないくらいなら切らずに一緒にいないといけないでロクなもんじゃない。質より量、なんて美学の欠片も感じれないことを、これから始まる学生生活の最初の歌にするなんて絶対おかしいよ! 恥の文化日本の教育の根底なんだから、美学を込めて量より質と教え込むべき。
「そん時は家帰ってもどーもなかったんかい」
「そいつらまだそこおるんかまさか」
「その後はなんもなかったですねー、それだけに今回驚きです。それから後輩くんらが何人か行きよったけど、そんなん見たことないっすよってゆうとったからなぁ、案外すぐ更新されたんちゃうかな、あの最速ラップ。似たような話聞かへんってことは、さすがにあんな綺麗にリプレイ出来る子はそんなおらんっちゅうこっちゃね」
「バルサン、ホンマ危機感ないゆうか、自由やなおまえ……」
自由なら会社勤めなんてしてないよ! 悲しきプロレタリアの時点で自由なんて存在してないでしょ。現実の荒波の中で最大の自由を謳歌しているんですねっていうお褒めの言葉ならありがたく受け取るけど、それ前後の会話からいって明らかに羨ましさなんて微塵も感じてないセリフですよね百六十七センチ。
「えー、努力の向きと質が違うだけやろ。普通やって」
「ないわ」
「ありえん」
「常識で考え」
そんな感じで散々好き勝手にいかに僕に常識と良識がないかを超上から目線で説教された。いやまぁ僕はいい子だから我慢してあげるけど、今回の事故はみんなでやったことじゃん。で、僕はというと起こってしまった事態に対して冷静に、多少の犠牲を出しつつも解決までのアプローチを行ったじゃない。行ってたじゃないですか! 明後日には死体になってるような極限状態で、常識も良識もあるけど無視出来るという人間の特性を使って無事みんなと朝を迎えることが出来て、種明かしを懇切丁寧に行ったというのにこの扱いですよ! そんな目にあっても軽く流せる僕ってば悟りとか開きまくってた人の生まれ変わりじゃないのかしら。
その日の朝、玄関先には、肝試し厳禁、行った場合は二週間寮の出入りを禁ずる。というこれまた一部の人間に対してのみの警告文が追加されててすごくゲンナリした。折角初夏からこっち、ドーバー海峡より開いていた寮長さんとの距離が縮まった気がして嬉しかったんだけど全くの幻想だったみたい。世の中は厳しくて歯車はエキサイティングで人間なんて信じられない生き物ですね。
秋の夜長、虫の鳴き声や枯れ葉の匂い、うっすらと始まった紅葉が胸をくすぐる日の一ページでしたと。