「役立たずの婚約者はいらない」と捨てられたので、王家から頼まれていた仕事を全部辞めました。翌朝、王宮が動かなくなったそうです
「役立たずの婚約者はいらない」
建国祭を三日後に控えた夜会で、ディートリヒはそう言った。
広間の視線が、一斉に私へ集まる。
彼の隣には、金色の髪をきれいに巻いた伯爵令嬢セシリアがいた。私よりずっと華やかで、舞踏会ではいつも人の輪の中心にいる女性だ。
「ミレーヌ。君は地味すぎる。婚約して三年になるが、私の役に立ったことが一度でもあったか?」
私は少し考えた。
王宮から届く予定表の整理。
各部署への確認状。
食材、馬車、警備、楽団、外国使節の到着時刻の調整。
建国祭だけで百二十七件ある連絡の取りまとめ。
けれど、それをここで説明しても仕方がない。
「承知しました。婚約を解消いたします」
ディートリヒは満足そうに笑った。
「聞き分けだけはいいな」
「では、王家から任されている仕事も、本日で辞任してよろしいですね」
彼は眉を寄せた。
「仕事?」
「建国祭の運営調整です。ヴァルモン侯爵家から王宮へ出している報告書の作成も含みます」
「ああ、あの紙仕事か」
彼は鼻で笑った。
「好きにしろ。誰にでもできる」
「分かりました」
念のため、もう一度だけ聞いた。
「引き継ぎ書は必要ですか?」
「そんなもの、家の書記に渡しておけ」
私は礼をして、夜会を出た。
これで話は終わったと思った。
私はその足で王宮へ向かった。
宮務局の夜番に、辞任届と鍵を返すためだ。
私の肩書きは「臨時連絡調整官」。
大げさな名前だが、やっていることは地味だった。
王宮では、厨房は厨房、厩舎は厩舎、警備隊は警備隊で予定を立てる。
一つ一つは正しい。
けれど、同じ時刻に東門から外国使節の馬車と小麦粉の荷車を入れようとすれば、門は詰まる。
大広間を晩餐会に使うのに、その二時間前まで床磨きを入れれば、装花の搬入ができない。
楽団を呼んでも、控室が外国使節団の荷物置き場になっていれば演奏は始まらない。
私は、そういう「それぞれ正しい予定」を一枚の表にまとめ、ぶつかる部分を一つずつ直していた。
三年前、建国祭の準備が混乱したときに、たまたま私が作った一覧表を王妃陛下がご覧になった。
それ以来、王家から直接依頼を受けている。
ただし、未婚の子爵令嬢が王宮の実務に口を出すのを嫌がる人もいたので、対外的には婚約先であるヴァルモン侯爵家の補助という形になっていた。
そのせいで、ディートリヒはずっと勘違いしていたらしい。
私が彼の家の仕事を手伝っているのだと。
「本当に辞められるのですか」
夜番の書記官が困った顔をした。
「はい。婚約が解消されましたので、侯爵家を経由する契約を続ける理由がありません」
「建国祭は三日後ですが」
「引き継ぎは用意しました」
私は十八枚の書類を渡した。
時間割、連絡先、未決事項、緊急時の代替案。
誰か一人にしか分からない仕事にしておくのは、仕事をしたことにはならない。
それが私の考えだった。
「これがあれば、多少の混乱はあっても進められます」
そう言って、私は帰宅した。
翌朝七時。
玄関の扉が激しく叩かれた。
眠そうな侍女が駆けてきて、青ざめた顔で言った。
「お嬢様。ヴァルモン侯爵家から使者です」
嫌な予感はした。
それでも居間へ行くと、使者どころかディートリヒ本人が立っていた。
昨日の余裕は消えている。
「ミレーヌ。すぐ王宮へ来い」
「おはようございます」
「挨拶はいい。何をした?」
「辞任しました」
「その話ではない! 王宮が動いていない!」
私は時計を見た。
七時十二分。
建国祭三日前のこの時間なら、最初の食材搬入が始まっているころだ。
「具体的には?」
「東門で荷車が二十台止まっている。厨房には肉が届かない。外国使節の先触れが西門へ回されて怒っている。大広間には清掃係と装花係が同時に入って喧嘩になった。騎兵隊は今日の予行演習が午前なのか午後なのか分からないと言っている!」
「引き継ぎ書の四枚目から七枚目に書いてあります」
ディートリヒが黙った。
私は尋ねた。
「お読みになりましたか?」
「……書記に渡した」
「書記の方は?」
「私に確認しろと言った」
「では、確認しましたか?」
また沈黙した。
つまり、誰も読んでいない。
「昨日、誰にでもできるとおっしゃいました」
「今はそんな話をしている場合ではない!」
「今だからこそ、その話をしています」
私が三年間続けていたのは、予定を書き写す仕事ではない。
各部署の都合を聞き、優先順位を決め、変更したら関係者全員に知らせる仕事だ。
権限もなく、責任だけを負う状態が嫌だった。
それでも婚約者の家のためだと思って続けてきた。
だが、その婚約は昨日なくなった。
「王宮へ戻れ。今なら昨日の件は――」
「婚約破棄を取り消してくださるのですか?」
「そういう意味ではない」
「では、何を取り消すのです?」
ディートリヒは答えなかった。
そこへ、もう一台の馬車が屋敷の前に止まった。
今度は王家の紋章が入っていた。
降りてきたのは、王弟レオナール殿下だった。
私は何度か王宮でお会いしたことがある。
いつも私の提出した表を最後まで読み、余白に細かな質問を書き込んで返してくる人だ。
「ミレーヌ嬢。朝から失礼する」
「殿下まで、どうなさったのですか」
「君を迎えに来た。ただし」
レオナール殿下はディートリヒを見た。
「ヴァルモン侯爵家の補助としてではない」
殿下が差し出した書類には、国王陛下の署名があった。
王宮運営局、主任調整官。
臨時ではない。
正式な役職だった。
「昨日提出された辞任届を受理したあと、過去三年分の記録を確認した」
レオナール殿下は淡々と言った。
「建国祭の遅延件数は、君が担当する前の年が四十一件。昨年は三件。その三件も雨天による変更だ」
ディートリヒの顔から血の気が引いていく。
「待ってください、殿下。それは我が家が――」
「違う」
殿下は短く遮った。
「報告書の原本を確認した。作成者はすべてミレーヌ嬢だ。君の名が入っていたのは提出者欄だけだった」
私は少し驚いた。
そんなところまで調べたのか。
「もちろん、断っても構わない」
殿下は私に向き直った。
「だが、引き受けてもらえるなら条件は王宮側で整える。報告書には作成者の名を記載する。給与は本人へ直接支払う。必要な部署への調整権限も与える」
三年間、欲しかったものが全部書かれていた。
評価ではない。
仕事をするために必要な、当たり前の条件だった。
「一つ、追加していただけますか」
「何だろう」
「私が休んでも回るように、副担当を二人つけてください」
レオナール殿下は一瞬目を丸くして、それから笑った。
「採用初日に自分を不要にする準備をするのか」
「一人がいなくなって止まる仕組みは、仕組みとは呼べません」
「もっともだ。認めよう」
私は署名した。
王宮へ着いたのは八時前だった。
混乱はしていたが、直せないほどではなかった。
東門の荷車を三つの時間帯に分ける。
外国使節は南門へ。
厨房の肉は王都内の予備業者へ切り替える。
大広間の清掃は半分ずつ進め、終わった区画から装花係を入れる。
騎兵隊の予行演習は午後へ移し、午前中の中庭を楽団の音合わせに使う。
私は指示を出しながら、副担当になる二人へ理由も説明した。
昼前には、止まっていた予定表が再び動き始めた。
「やはり君にしかできないな」
レオナール殿下が言ったので、私は首を振った。
「今日だけです。来年は三人ともできます」
殿下はまた笑った。
その日の午後、ヴァルモン侯爵家への監査が決まった。
私の仕事を横取りしたから、という理由ではない。
侯爵家が「自家で構築した王宮運営方式」として提出していた成果の中に、私の作成物が大量に含まれていたためだ。
結果、侯爵家が持っていた王宮行事の管理権限は返上させられた。
ディートリヒは処罰こそされなかったが、王宮関係の役職から外された。
セシリアとの婚約話も、いつの間にか消えていた。
だからといって、私は特に嬉しくはなかった。
困るべき人が困っただけだ。
建国祭当日。
最後の馬車を見送ったあと、私は王宮の回廊で大きく息を吐いた。
遅延は二件。
どちらも十分以内に解消。
上出来だ。
「主任調整官」
後ろから声をかけられた。
レオナール殿下だった。
「今日はもう仕事の話はしない」
「では、何のお話でしょう」
「夕食に誘いたい」
私は思わず手帳を開いた。
「公務ですか?」
「違う」
「では、予定表に入れてよいものか迷います」
殿下は少し考えてから言った。
「私用欄はないのか?」
「今まで必要ありませんでした」
「では作ってほしい。できれば、最初の予定は私で」
三年間、私は誰かの予定を整えることばかり考えていた。
自分の予定を聞かれたのは、ずいぶん久しぶりだった。
「明日の夜なら空いています」
「よかった」
「ただし、十九時までです」
「その後は?」
「休みます」
殿下は声を上げて笑った。
「それも大事な予定だな」
一年前の私は、役に立てば大切にされると思っていた。
だから、名前が載らなくても働いた。
礼を言われなくても働いた。
誰かが「簡単な仕事だ」と笑っても、必要ならやった。
今は違う。
必要な仕事には、必要な権限がいる。
働いた人には、その人の名前がいる。
そして、役に立つかどうかと、大切にされるかどうかは別の話だ。
翌年の建国祭。
私が休暇を取っている間も、王宮は何事もなく動いた。
副担当の二人から届いた報告書には、こう書かれていた。
『主任不在。問題なし』
私はそれを読んで、笑った。
それが、私が三年間でいちばん欲しかった報告だった。
隣ではレオナールが、旅行先の地図を広げている。
「次はどこへ行きたい?」
「仕事のないところへ」
「それは難題だ」
「では、あなたが探してください」
「承知しました、主任調整官殿」
役立たずだと言われて捨てられた私は今、自分がいなくても回る王宮を作っている。
そして仕事の外では、私自身を見てくれる人と、次の休日の予定を立てている。




