嘘つきな君のさようなら
(1)
四月一日。春の陽気が窓から差し込むこの日は、俺、七瀬春の誕生日だ。
しかし、素直に喜べない理由がある。幼馴染であり恋人のカナは、毎年この日になると、俺の誕生日を祝う前に「特大の嘘」をつくからだ。
「実は私、石油王の隠し子だったの」
「ごめん、ハル。私、明日から火星に移住することになった」
そんな荒唐無稽な嘘なら笑って済ませられる。だが、今年の嘘は少し違った。
『私、今日を限りにこの街を出ることにしたの。もう会えない』
朝一番の電話で告げられたその言葉は、妙にリアルで、カナの声も少し沈んでいた。
「またエイプリルフールの冗談だろ?」
そう笑い飛ばそうとしたが、昨晩のビデオ通話で、彼女の部屋に不自然な段ボール箱がいくつも積まれていたのを思い出した。「断捨離してるの」と彼女は言っていたが、あれは本当に引っ越しの準備だったのではないか?
そういえば、最近俺の住むアパート『コーポ・サクラ』の隣室、業者が慌ただしく出入りしていた。春は引っ越しシーズンだ。誰かが新生活を始める時期に、カナは俺の前から消えようとしている……?
不安を抱えたまま、俺は「最後の思い出作り」という彼女の提案に乗り、待ち合わせ場所へと向かった。
(2)
駅前の時計台下。カナはいつも通りの明るい笑顔で待っていた。
「ハル、遅い! 最後の日なんだから、1秒でも長く一緒にいてよ」
「……本当に、行くのか?」
「うん。遠くに行っちゃうの。だから今日は、私のわがままに全部付き合ってね!」
そう言ってカナは俺の腕を引き、街へと歩き出した。
最初に向かったのは、二人がよく行く喫茶店だった。カナはいつも頼むクリームソーダではなく、珍しくブラックコーヒーを注文した。
「大人になる準備?」とからかうと、彼女は「徹夜明けで眠いだけ」と小さくあくびをした。引っ越しの準備で寝ていないのだろうか。
「そういえばさ、昨日読んだミステリー小説、すごく面白かったんだよね」
カナが急に話題を変えた。彼女は十角形の館で連続殺人が起きるような、本格的なクローズド・サークルものが好きだ。
「どんな話?」
「色々と事件が起きるんだけどね、最後に探偵と犯人がくっついちゃうの。驚きじゃない? 『あなたを逃がさないために、一生監視し続ける』って言って、手錠の代わりに指輪を渡すの。ありえないけど、ちょっとロマンチックだなって」
カナはクスクス笑いながらコーヒーを飲んだ。その時の俺は、その話が単なる世間話だと思っていた。
(3)
夕方になり、俺たちは予約制の高級フレンチレストランを訪れた。
「最後くらい、奮発しちゃった」とカナは得意げに笑う。入り口で名前を告げようとすると、ウェイターが先に口を開いた。
「お待ちしておりました、七瀬様ですね。お二人様、窓際の席へご案内いたします」
俺は首を傾げた。予約をしたのはカナのはずだ。カナの苗字は「星野」なのに、なぜ俺の苗字である「七瀬」で呼ばれたのか。
「カナ、お前、俺の名前で予約したのか?」
「あー……うん。その方が、なんかカップルっぽくてかっこいいかなって。ほら、今日は特別だから!」
少し焦ったように言い訳をするカナを見て、俺はこれ以上追及するのをやめた。彼女がこの街を離れるという現実が、時間とともに重くのしかかってきていたからだ。
美味しいはずの料理も、俺の喉を通りにくかった。カナは美味しそうに頬張っていたが、時折、俺を見るその瞳には、何かを期待しているような、試しているような光が宿っていた。
(4)
午後11時50分。
二人が出会った公園の、街の夜景が一望できる高台にやってきた。
「ハル、今日はありがとう。楽しかった」
カナは夜景を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「本当に……行っちゃうのかよ」
「うん。もう、ハルとは今までみたいに『待ち合わせ』して会うことはできなくなるね」
カナはバッグの中から、小さな金属の塊を取り出した。
「これ、私からのプレゼント。というか、預かっててほしいもの」
渡されたのは、銀色の鍵だった。プラスチックのタグには『202』と刻印されている。
「鍵……? これ、なんの鍵だよ」
「私の、新しい居場所の鍵。ハルに持っていてほしくて」
俺は混乱した。遠くに行くと言っていたのに、なぜ新しい家の鍵を俺に?
時計の針が、午後11時59分を指した。
「カナ、俺は……お前に行ってほしくない。遠くに行っても、俺が絶対に会いに行くから。だから……」
必死に引き止めようとする俺の言葉を遮るように、カナのスマホから、午前0時を知らせるアラームが鳴り響いた。
四月二日になった。
(5)
「はい、タイムアップ!」
カナが突然、満面の笑みで俺の方を振り返った。さっきまでの切ない表情はどこにもない。
「え?」
「エイプリルフール、しゅーりょう! そしてハル、お誕生日おめでとう!」
カナは俺の胸に飛び込んできた。
「ちょ、ちょっと待て。街を出るって話は……」
「嘘に決まってんじゃん! 正確に言うと、『今まで住んでたアパート(家)』を出るってこと。引越し業者が昨日の夜に来てさ、荷造りで徹夜だったんだよね」
だからあんなに段ボールがあり、コーヒーを飲んで眠気覚ましをしていたのか。
「じゃあ、この鍵は……」
俺は手の中の『202』と書かれた鍵を見つめた。
「ハルのアパートの隣、ずっと空室だったでしょ? 最近業者が入ってクリーニングしてたの、気づいてた? 私、今日からハルの隣人になりましたー!」
「なっ……!?」
『もう会えない』のではなく、『待ち合わせをして会う距離ではなくなる』という、言葉遊びのような嘘だったのだ。
「探偵と犯人の話、覚えてる?」
カナがいたずらっぽく笑う。
「手錠の代わりに指輪……いや、鍵を渡すってことか?」
「そう! それとね、レストランの予約の話。なんで『七瀬』で予約したと思う?」
カナは俺の顔を真っ直ぐに見つめ、少し頬を染めながら言った。
「隣の部屋に住むのは、あくまで準備期間。……私ね、いつか『七瀬』になりたいなって思ってるの。これは、嘘じゃないよ」
それは、あまりにも不器用で、大胆な逆プロポーズだった。
俺は安堵と驚き、そしてあふれるほどの喜びで、カナを強く抱きしめた。
「……最高の誕生日プレゼントだよ、ばか」
四月二日の夜空の下、俺たちは二人で笑い合った。嘘から始まった一日は、俺の人生で一番幸せな真実へと変わったのだ。




