消えない足跡、消したい痕跡
ちょっとね書くのが大変だなー笑
第1章〈泥の中の指先〉
その街は、常に雨の匂いがした。
北関東のひっそりとした地方都市。湿ったアスファルトの上を、所在なげな足音が通り過ぎていく。浅井朔、二十四歳。彼はこの街の片隅にある特殊清掃会社「クリーン・トレース」で、誰にも名前を呼ばれることなく働いていた。
「浅井、次の現場だ。住宅街の奥、山中さんという方の家だ。生前整理だが……少し骨が折れるぞ」
上司から手渡されたメモは、湿気で少しふやけていた。
朔は無言で受け取り、作業車に乗り込む。窓の外を流れる景色は、どれも灰色に沈んで見える。彼にとって、世界から色彩が消えたのは十年前のことだった。
父が犯した、決して許されない罪。
あの日以来、朔の人生は「自分の存在という痕跡」を消すための逃避行となった。進学も、友情も、恋も。何かに触れようとするたび、加害者の息子というレッテルが彼を突き放す。今の彼は、他人が残した汚れを拭き取り、ゴミを片付けることで、辛うじて自分の居場所を確保していた。
現場に到着すると、そこには周囲の新しい住宅から切り離されたような、古い平屋が佇んでいた。庭の木々は伸び放題で、雨に濡れた葉が重たげに垂れ下がっている。
朔が呼び鈴を鳴らすと、長い沈黙のあと、重い引き戸がゆっくりと開いた。
そこに立っていたのは、背筋を不自然なほど真っ直ぐに伸ばした老人だった。名は山中耕三。使い古された麻のシャツを着ているが、その眼光は鋭く、初対面の朔を値踏みするように見つめた。
「……清掃会社の方ですか。どうぞ。ただ、勝手な真似はしないでいただきたい」
耕三の声は、よく乾燥した薪が爆ぜるような、硬く乾いた響きがあった。
家の中へ足を踏み入れると、そこは「記憶の墓場」だった。床が見えないほどに積み上げられた古本、色褪せた新聞、そして中身の分からない段ボール箱。
しかし、それは単なる不潔なゴミ屋敷ではなかった。積み上げられた物たちには、奇妙な規律がある。まるで、一つ一つの物が、主の過去を繋ぎ止める楔であるかのように。
「何から手をつければいいですか」
朔が低い声で尋ねる。
「全部だ。私が死ぬ前に、ここにあるものをすべて無に帰したい。私の生きた痕跡を、塵一つ残さずにな」
耕三の言葉には、深い諦念と、それ以上の拒絶が混じっていた。
朔は胸の奥を小さな針で刺されたような感覚を覚えた。自分もまた、自分の痕跡を消したいと願って生きてきたからだ。
朔は膝をつき、一番手前にある雑誌の束から手に取った。
埃が舞い、鼻をつく。しかし、彼の指先は驚くほど丁寧だった。乱雑に置かれた物を、まるで壊れ物を扱うように仕分けていく。
「……君、名前は?」
部屋の隅にある椅子に腰掛けた耕三が、不意に問いかけた。
「……アサイ、です」
「アサイ君か。君の指先は、掃除屋のそれではないな。まるで、過去を鎮魂しているようだ」
朔の手が止まる。
「……ただの仕事ですから」
「ふん、嘘が下手だな。君も何かを消したがっている。私と同じ、同類の匂いがするよ」
耕三の鋭い言葉に、朔は心臓を掴まれたような思いがした。
外の雨は激しさを増し、屋根を叩く音が部屋に響き渡る。
この時、朔はまだ知らなかった。この「消したい」と願う老人との出会いが、彼自身の「消えない足跡」を肯定する物語の始まりになることを。
初日の作業を終え、朔が玄関を出ようとした時、耕三がぽつりと呟いた。
「明日も、来なさい。君の静かな指先なら、私の家を任せられる」
朔は会釈だけして、雨の中へと足を踏み出した。
泥にまみれた作業靴が、濡れた地面に確かな足跡を残していく。それは、彼がどれだけ拒んでも消すことのできない、彼が生きている証そのものだった。
第2章〈沈黙の家〉
二日目の朝も、空は厚い雲に覆われていた。
山中邸の門をくぐると、昨日よりもさらに蔦が濃くなったように感じられた。この家は、主である耕三の心を映し出している。外の世界を拒絶し、内側にだけ堆積していく、終わりのない過去。
引き戸を開けると、昨日と変わらぬ古びた木の匂いと、微かな線香の香りがした。
「……おはようございます」
朔が声をかけると、奥の居間で耕三が茶を啜っていた。
「来たか。そこにある段ボールから手をつけてくれ。それは、私がかつて扱った事件の資料や、個人的な手記だ」
耕三が指さしたのは、部屋の隅に積み上げられた茶色い山だった。
朔は頷き、膝をついて作業を始める。段ボールを開けると、中にはぎっしりと書き込まれたノートや、裁判記録の写しが入っていた。
朔の手が、ふと止まる。
一枚の古い新聞記事の切り抜きが、ノートの間から滑り落ちたからだ。それは二十年ほど前の、ある強盗殺人事件の記事だった。
「……それは、私が初めて『死刑』を言い渡した男の記録だ」
耕三の声が、背後から冷たく響いた。
朔は息を呑んだ。自分を裁いた側。父を裁いたかもしれない側。
「私は正しかったと信じていた。法の名の下に、悪を排除することが私の足跡だと。だがな、浅井君。その男に家族がいると知ったのは、すべてが終わった後だった。残された子供がどうなったか、私は知ろうともしなかった」
耕三の告白は、朔の胸の奥にある古傷を深く抉った。
加害者家族。その言葉が、朔の喉まで出かかった。自分の父も、誰かの手によって裁かれ、そして自分という「痕跡」だけが世間に放り出された。
「どうして……今になって、全部捨てようとするんですか」
朔は新聞記事を見つめたまま、絞り出すように聞いた。
「重すぎるからだ。この家にあるものはすべて、誰かの絶望や、私の傲慢の積み重ねだ。死ぬ時くらいは、誰の記憶にも残らない、真っ白な存在に戻りたい」
耕三は自嘲気味に笑った。その笑顔は、あまりに脆く、今にも崩れ去ってしまいそうだった。
朔は、黙々と作業を再開した。けれど、その手つきは昨日よりも少しだけ力が入っていた。
午後になり、居間の棚を整理していた朔は、奥の方に隠されるように置かれた「箱」を見つけた。それは他のゴミとは違い、丁寧に布で包まれていた。
「それは……」
耕三が動揺したように立ち上がった。
朔が布を解くと、中から現れたのは、一台の古びた銀塩カメラだった。ドイツ製のライカ。レンズは曇り、皮のケースはあちこちが擦り切れている。
「……捨ててください。それも、ただのゴミだ」
耕三は目を逸らした。しかし、朔には分かった。そのカメラを見る耕三の瞳には、憎しみではなく、耐えがたいほどの愛惜が宿っていることを。
「これは、ゴミじゃありません」
朔は初めて、耕三の言葉を否定した。
「あなたがどれだけ消したいと思っても、これを大切に持っていた時間は、間違いなくここにある。……痕跡を消すことは、自分を殺すことと同じじゃないですか」
部屋に重苦しい沈黙が流れる。
外ではまた、雨が降り始めていた。窓ガラスを叩く水滴の音が、耕三の荒い呼吸と重なる。
「……君に何がわかる」
耕三の声は震えていた。
「何も分かりません。でも、僕も同じだから。自分の足跡を消すために、名前も過去も捨ててきた。でも、捨てれば捨てるほど、自分が空っぽになっていくのが怖かった」
朔の言葉に、耕三は力なく椅子に座り込んだ。
その時、朔のポケットの中でスマートフォンが震えた。
画面を見ると、職場の同僚からの着信。嫌な予感がして電話に出ると、受話器越しに焦った声が響いた。
『浅井! すぐに逃げろ。ネットの掲示板に、お前の写真と本名が晒されてる。お前の親父の事件のことも全部だ。今、会社の前に記者が来てるぞ!』
朔の指先から、血の気が引いていく。
足跡を消してきたはずなのに。どこまでも追いかけてくる過去という影。
朔は呆然と立ち尽くし、手にしたカメラを落としそうになった。
沈黙の家を、現実という名の暴力がこじ開けようとしていた。
第3章〈レンズ越しの過去〉
スマートフォンの画面が、無機質な光を放ち続けている。
『加害者の息子、清掃員として潜伏中』。
掲示板に並ぶ醜悪な言葉の羅列。十年前、父が起こした事件の凄惨な現場写真が、今の自分の無防備な顔写真と並んでスクロールされていく。
朔の視界が、ぐにゃりと歪んだ。
隠してきた。殺してきた。自分という人間を消すために、どれだけの夜を震えて過ごしたか。それなのに、過去という化け物は、どれほど遠くへ逃げても、こうして土足で生活を踏みにじりに来る。
「……浅井君、どうした」
耕三の声で、朔は我に返った。
カメラを握る指が白く震えている。耕三は鋭い眼差しで、朔が握りしめるスマートフォンと、その青ざめた顔を交互に見た。
「……すみません。僕、もうここにはいられません」
「待ちなさい」
立ち去ろうとする朔の背中に、耕三の乾いた声が突き刺さる。
「外に何がいるのかは知らんが、今の君が外へ出れば、それこそ過去に喰い殺されるだけだ。……座れ。作業は中断だ」
耕三は、おぼつかない足取りで台所へ向かい、二人分の茶を淹れた。
古い茶碗から立ち上る湯気が、朔の凍りついた心をわずかに溶かす。朔は、導かれるように椅子に深く腰掛けた。
「……僕の父は、人殺しです」
ポツリと、朔の唇から言葉が零れた。
「知っています。さっきの電話で、大体の察しはついた。ネットという場所は、死者を掘り起こすのが得意らしいからな」
耕三は、朔の前に茶を置くと、先ほど朔が見つけたあの古いライカを愛おしそうに撫でた。
「このカメラな……。実は、私が裁判官を辞めた後に手に入れたものだ。罪を裁くことに疲れ果て、何も信じられなくなった時、私はこのレンズを通して世界を見ようとした」
耕三の意外な告白に、朔は顔を上げた。
「私はね、浅井君。人を裁きながら、ずっと怖かった。自分が下す判決が、その人間の未来を、そしてその家族の人生をどれほど無残に引き裂くか。私は法衣を着ていれば、神にでもなれたつもりでいた。だが、本当はただの、血の通った臆病な人間に過ぎなかった」
耕三はカメラのシャッターを、空押しした。
乾いた『カシャッ』という音が、静かな部屋に響く。
「私はこのカメラで、名もなき人々の日常を撮り続けた。公園で笑う親子、夕暮れに帰宅する労働者。そこには、裁判所では決して見ることのできない『生』の痕跡があった。……そして、ある時気づいたのだ。どんなに重い罪を背負った人間にも、その背景には、誰にも汚せない美しい瞬間があったのではないか、とな」
耕三の瞳が、真っ直ぐに朔を見据える。
「君の父親が何をしたかは、法が裁いた。だが、君が今日まで必死に生きてきたその足跡まで、他人に汚させる必要はない。君は、父親の身代わりとして生まれてきたのではない。君自身の人生を撮るために、ここにいるはずだ」
朔の目から、一滴の涙がこぼれ、茶碗の中に落ちた。
「でも……世界は、許してくれません。僕がどれだけ掃除をしても、僕自身が『汚れ』だと言われるんです」
「なら、私が証人になろう」
耕三は力強く言った。
「君がこの家で、どれほど丁寧に私の過去を扱ってくれたか。それを知っているのは、ネットの住人ではない。この私だ」
その時、家の外で複数の足音が聞こえた。
門を叩く音。低く、野卑な好奇心に満ちた声。
「おい、ここにいるんだろ!」「浅井! 出てこいよ!」
朔は肩を震わせた。しかし、耕三は動じなかった。
「浅井君。そのカメラの裏蓋を開けてごらん」
朔が言われるままにカメラの底を操作すると、中には一本の古いフィルムが入ったままになっていた。
「それは、私が最後に撮ったフィルムだ。現像する勇気がなくて、ずっとそのままにしていた。……私が死んだら、君がこれを現像してくれないか。それが、私から君への『最後の依頼』だ」
「……僕が、ですか?」
「ああ。君なら、この中に何が写っているのか、正しく見つけてくれる気がするのだ」
外の怒号は激しさを増していく。
過去という嵐が家を取り囲む中、朔は耕三から託された、ずっしりと重いカメラを抱きしめた。
それは、消したい過去の中から見出した、小さくとも確かな、救いの痕跡のように思えた。
第4章〈見えない追跡者〉
門扉を激しく叩く音が、静かな山中邸の空気を切り裂く。
「浅井! 逃げられると思ってんのか!」
「人殺しの息子が、聖人君子ぶって掃除屋かよ。笑わせるな!」
窓の外には、スマートフォンのライトがいくつも揺れている。それは現代の松明のようであり、一度標的を見つければ、その息の根を止めるまで消えることはない。
朔は床に蹲り、耳を塞いだ。十年前、実家の周りを取り囲んだ野次馬たちの記憶が、今の光景と残酷に重なり合う。
「……まただ。また、全部壊れる」
震える朔の肩に、ゴツゴツとした節くれだった手が置かれた。耕三だった。
「浅井君、立ちなさい。ここは私の家だ。招かれざる客に、土足で踏み込ませるつもりはない」
耕三は、かつて法廷で数多の被告人を沈黙させたあの威厳に満ちた足取りで、玄関へと向かった。
引き戸を勢いよく開ける。外の喧騒が一瞬、止まった。
そこに立っていたのは、数人の若い男たちと、ビデオカメラを構えた中年の男だった。彼らは耕三のあまりに鋭い眼光に、気圧されたように後ずさった。
「何の騒ぎだ、これは」
耕三の声は、低く、地を這うような重みがあった。
「いや、じいさん。ここに浅井っていう、凶悪犯の息子が隠れてるだろ。俺たちは正義のために……」
「正義だと?」
耕三は冷たく鼻で笑った。
「顔も名も隠し、寄ってたかって一人の青年を追い詰めることが正義か。笑わせるな。この男は、私の家の整理を任せている大切な客分だ。法を語るなら、まずは不法侵入と名誉毀損の罪を自覚してからにしろ」
男たちは顔を見合わせ、舌打ちをしながらも、耕三の放つ圧倒的な威圧感に毒気を抜かれたようだった。
「……ちっ、ボケ老人が。いいよ、行こうぜ。居場所はもう割れてんだ」
彼らは吐き捨てるように言い、暗がりの向こうへと消えていった。
静寂が戻った玄関で、耕三は大きく溜息をつき、膝をついた。その背中は、先ほどまでの威厳が嘘のように小さく見えた。
「……山中さん!」
朔が駆け寄ると、耕三は弱々しく首を振った。
「大丈夫だ。少し、張り切りすぎただけだ。……だが、浅井君。彼らはまた来る。彼らにとって、君は人間ではない。消費される『コンテンツ』なのだ」
朔は、耕三を抱えるようにして奥の部屋へ戻した。
窓の外では、まだ誰かが見張っているような気配が消えない。SNSを開けば、今この瞬間も自分の居場所が実況され、過去の傷口が広げられ続けている。
「……どうして、僕を助けたんですか。僕がいれば、あなたまで汚されるのに」
朔の問いに、耕三は壁に立てかけられた古い本棚を見つめたまま答えた。
「汚される? 浅井君、私はもう十分に汚れている。先ほど、私は正義を説いたが……実はな、私はあの日、君の父親の裁判に関わっていたのだ」
朔の心臓が、跳ね上がった。
「……え?」
「直接の担当判事ではなかったが、裏で資料を精査し、量刑を議論する場にいた。私は、君の父親を一刻も早く社会から抹殺すべき『汚れ』として処理した。その先に、君のような幼い子供が取り残されることも想像せずにだ」
耕三の手が、震えていた。
「私はずっと、君たち家族の人生を奪ったという『痕跡』を、この胸に抱えて生きてきた。君が私の前に現れたのは、偶然ではない。これは、私が人生の最後に受けなければならない、判決なのだ」
朔は言葉を失った。
自分を追い詰めた加害者の息子。
自分を裁いた側の元判事。
奇妙な因縁で結ばれた二人が、今、ゴミと過去に埋もれた家の中で、同じ嵐を凌いでいる。
「……皮肉ですね」
朔は、手の中にあるライカの感触を確かめた。
「僕、ずっと恨んでました。父を奪った世界を。でも、その世界の一部だったあなたが、今、僕を守ってくれた」
朔は立ち上がり、カメラの裏蓋に手を添えた。
「山中さん。このフィルム、現像しましょう。明日、僕が信頼できる写真屋へ持って行きます。あなたが何を撮りたかったのか、僕に教えてください」
耕三は、濡れた瞳で朔を見上げた。
見えない追跡者たちが周囲を取り囲む中、二人の間にだけ、新しい「信頼」という名の足跡が刻まれようとしていた。
第5章〈雨の断罪〉
翌朝、雨はさらに勢いを増し、世界を白く塗りつぶしていた。
山中邸の門前には、昨夜よりも数が増えた人だかりができていた。傘の群れの間から、執拗なスマートフォンのレンズが玄関に向けられている。
「浅井君、これを持っていきなさい」
耕三は、古びたトレンチコートのポケットから、一包みの鍵と住所が書かれたメモを差し出した。
「私の知人が営んでいる古い写真館だ。今はもう閉まっているが、暗室の機材は生きているはずだ。そこなら、誰にも邪魔されずにフィルムと向き合える」
朔は、預かったライカを防水のバッグに深く沈め、胸に抱えた。
「山中さんは……大丈夫なんですか?」
「案ずるな。私は元裁判官だ。彼らも、年寄りに手を出すほど愚かではあるまい」
耕三は無理に笑ってみせたが、その顔色は土色で、立っているのが精一杯に見えた。
朔は意を決して、裏口から外へ飛び出した。
生垣を抜け、路地裏を泥まみれになって走る。背後で「あいつだ!」「逃げるぞ!」という声が上がったが、雨音にかき消された。
辿り着いたのは、街の端にある錆びついたシャッターの建物だった。鍵を開け、中に入ると、埃の匂いと共に時間が止まったような空間が広がっていた。
朔は息を整え、教えられた通りに暗室の赤色灯を点した。
赤い光に照らされた世界で、朔は慎重にフィルムを取り出し、現像液に浸した。
液体の中で揺れるフィルム。それは、耕三が「消したい」と願いながらも捨てられなかった、心の最深部にある記憶だ。
数十分後、引き伸ばし機から印画紙に像が浮かび上がったとき、朔は息をすることを忘れた。
そこに写っていたのは――凄惨な事件現場でも、厳格な法廷でもなかった。
それは、十年前の、どこにでもある公園の風景だった。
ブランコに乗って笑う幼い少年と、その背中を優しく押す、一人の男の姿。
「……あ」
朔の指が、濡れた印画紙の上で震えた。
そこに写っているのは、事件を起こす前の、自分の父だった。そして、笑っているのは、自分自身だった。
なぜ、裁判官だった耕三が、自分たちの写真を撮っていたのか。
日付を確認すると、それは父が事件を起こす一ヶ月前のものだった。耕三は、判決を下すずっと前に、偶然にも「幸せだった頃の自分たち」をレンズ越しに見つめていたのだ。
その時、静かな写真館の電話が鳴り響いた。
不吉な予感に駆られ、朔は受話器を取る。
『……浅井君か』
声の主は、職場の数少ない理解者である上司だった。
『今すぐ山中さんの家に戻れるか? さっき、救急車が呼ばれたんだ。心臓の発作らしい……。それに、あそこの野次馬どもが暴れて、家の中にまで踏み込んだっていう通報が入ってる』
朔の頭の中で、何かが弾けた。
耕三が守ろうとしたのは、家ではなく、朔の居場所だった。
「消したい痕跡」だと言い切ったあの家には、自分を肯定してくれる唯一の理解者がいた。
朔は現像したばかりの写真を掴み、土砂降りの街へと駆け出した。
雨は、すべてを洗い流す清らかな水ではない。逃れられない過去を突きつける、冷たい断罪の雨だった。
「待っててください、山中さん……!」
泥を跳ね上げ、全力で走る朔の背中を、見えない追跡者たちの嘲笑が追いかけてくる。
だが、今の朔の手には、父が犯した罪ではない、別の「痕跡」が握られていた。
第6章〈最後の避難所〉
肺が焼けるように熱い。雨水が目に入り、視界は白く霞んでいる。
朔が山中邸に辿り着いたとき、そこには残酷な光景が広がっていた。
門の前には、赤色灯を回す救急車とパトカー。そして、それを遠巻きに眺めながら、獲物を待つ獣のようにスマートフォンを構える群衆。
「おい、人殺しの息子が戻ってきたぞ!」
誰かの叫び声が上がったが、朔は構わず人混みをかき分け、玄関へと飛び込んだ。
家の中は、悲惨な状態だった。
耕三が人生をかけて積み上げてきた本や資料は床にぶちまけられ、土足の足跡が無数に残っている。野次馬の一部が混乱に乗じて侵入したのか、あるいは耕三が倒れた際に誰かが踏み込んだのか。
「山中さん!」
奥の居間で、ストレッチャーに乗せられようとしている耕三の姿があった。酸素マスクをつけられ、顔色は紙のように白い。
「……浅井、君か」
耕三の微かな声が、マスク越しに漏れた。
「逃げろと言ったのに……馬鹿な男だ」
「これを……これを見てください!」
朔は、雨と涙で濡れた現像写真を取り出した。赤い暗室の光で浮かび上がった、あの日の父と自分の姿。
耕三の濁った瞳が、写真に注がれた。一瞬、老人の口元が震え、穏やかな笑みの形を作ったように見えた。
「ああ……やはり、正しかった。君の……その笑顔は、私の救いだったんだ」
耕三の細い手が、宙を彷徨い、朔の泥だらけの服を掴もうとした。
「浅井君……家にあるものは、すべて壊されてもいい。だが、君だけは……君の足跡だけは、誰にも消させてはならない。ここは……君の、最後の避難所だ」
それが、耕三が意識を失う前に残した最期の言葉だった。
救急隊員によって耕三が運び出された後、家の中には不気味な静寂と、荒らされた「過去の残骸」だけが残された。
外では警察官が群衆を遠ざけようとしていたが、SNSの海には、家の中の惨状が「正義の鉄槌」として拡散され続けている。
朔は、荒らされた部屋の真ん中に立ち尽くした。
耕三が命をかけて守ろうとしたのは、この古びた家ではない。父が罪を犯す前の、そして自分が自分として笑っていた、あの「瞬間」の肯定だったのだ。
朔は、散らばった書類の中から、一冊の古い判決録を見つけた。
耕三がかつて担当した事件の記録。その余白に、震える手書きの文字でこう記されていた。
『罪を裁くことは、その人間の人生を終わらせることではない。残された者が生きていくための道を、我々は奪ってはならない』
朔は、激しく叩きつける雨音を聞きながら、静かに、しかし力強く床に落ちた本を拾い始めた。
掃除を。自分にできる、唯一の償いを。
ここは、山中耕三という一人の老人が、罪滅ぼしのために自分に差し出してくれた「避難所」なのだ。
どれほど罵声を浴びせられようと、どれほど過去を掘り返されようと、ここでこの家を清めることだけは、誰にも邪魔させない。
朔の指先は、かつてないほど繊細に、泥に汚れた床を拭い始めた。
窓の外では、まだ誰かが自分を監視している。
けれど、朔の胸にあるライカと現像写真は、今や彼にとっての「聖域」となっていた。
第7章〈静かなる別れ〉
嵐が去った後の山中邸は、耳が痛くなるほどの静寂に包まれていた。
庭に散乱したゴミを拾い、泥だらけの床を拭き、朔は一晩中、たった一人で家を清め続けた。外にはまだ数人の野次馬が張り付いていたが、窓を固く閉ざした家の中までは、その悪意も届かない。
夜が明ける頃、朔のスマートフォンに一本の電話が入った。
耕三が搬送された病院の看護師からだった。
「……そうですか。わかりました。すぐに向かいます」
朔は、整え終えた居間を見渡した。
かつてゴミの山だった場所は、今は主を待つだけの静かな空間に戻っている。棚には、あのライカのカメラと、現像したばかりの「父と子の写真」が並べて置かれていた。
朔は、耕三が自分に託した家の鍵を握りしめ、病院へと向かった。
病院の白いベッドに横たわる耕三は、まるで深い眠りについているようだった。
昨日のような鋭い眼光はなく、ただ穏やかに、安らかに。モニターに映る心電図の波形は、今にも消え入りそうなほどに弱々しい。
「山中さん、掃除……終わりましたよ」
朔が耳元で囁くと、耕三の瞼がわずかに動いた。
耕三はゆっくりと目を開け、視界の中に朔を見つけると、枯れ木の枝のような手で、朔の腕を弱く掴んだ。
「浅井、君……。あの……フィルムは、見たか」
「はい。見ました。……どうして、あんな写真を撮っていたんですか?」
耕三は、遠い記憶を辿るように天井を見つめた。
「あの日……私は、裁判官としての自分に、限界を感じていた。法で人を裁くことが、本当に正義なのかと。そんな時、公園で君たちを見かけたんだ。あんなに……あんなに幸せそうに笑う親子が、一ヶ月後に地獄へ落ちるとも知らずに……」
耕三の目から、一筋の涙がこぼれた。
「私は、君の父親に極刑を求めた側の人間だ。だが……あの写真の中の、君を抱き上げる彼の姿だけは、嘘ではなかった。私は、それを証明したかったのかもしれない。……君の父親は、ただの罪人ではなく、君を愛していた一人の父親であったことを」
朔の胸の中で、十年間凍りついていた何かが、音を立てて崩れ落ちた。
世間がどれだけ父を罵り、自分がどれだけ父を憎もうとしても、あの公園の光だけは、誰にも奪えない真実だった。
「……ありがとう。ありがとうございます、山中さん」
朔は、耕三の手を強く握り返した。
「浅井君……。もう、自分の足跡を消すのは、やめなさい。君が歩いてきた道は、確かにここに……私の心の中に、残っている……」
それが、耕三の最期の言葉となった。
モニターの音が、一本の直線へと変わる。
耕三は、自分の人生という「痕跡」をすべて消したいと願っていた。けれど、最後に彼は、一人の青年の心の中に、決して消えることのない深い足跡を残して旅立った。
病室の窓から差し込む朝日は、かつて山中邸で見た雨の色とは違い、透明で、どこまでも優しかった。
朔は、亡き主のために深く頭を下げた。
彼の仕事は、特殊清掃員。汚れを拭い、痕跡を消すのが仕事だ。
けれど、今の朔には分かっていた。
本当に大切なものは、どれだけ拭っても、どれだけ時が経っても、決して消えることはないのだと。
第8章〈現像された真実〉
耕三が息を引き取ってから三日が過ぎた。
葬儀は、親族のいない彼の遺言通り、簡素な直葬として行われた。参列者は朔と、かつての同僚だった老弁護士が一人だけ。世間を騒がせた「元裁判官の死」と「加害者の息子の潜伏」というスキャンダルは、皮肉にも耕三の死によって急速に熱を失い、新たなニュースの波に飲み込まれつつあった。
朔は再び、静まり返った山中邸にいた。
主を失った家は、以前よりも広く、冷たく感じられた。しかし、朔の手によって清められた空間は、かつての「ゴミ屋敷」の面影はなく、冬の柔らかな光を畳の上に受け入れていた。
彼は、仏壇の代わりに設けた小さな棚の前に座っていた。そこには、あの日現像した「父と自分の写真」と、耕三が遺したライカのカメラが置かれている。
「……山中さん。まだ、わからないことがあります」
朔は、耕三が「最後の依頼」として託したあのフィルムの、残りのカットを思い返していた。
あのフィルムには、公園での親子写真の後、数枚の奇妙な写真が続いていたのだ。
朔は再び、あの閉鎖された写真館の暗室へと向かった。
赤い光の中で、残りのカットを一枚ずつ丁寧に焼き付けていく。
現れたのは、夜の街角の風景だった。
街灯の下、うつむいて歩く一人の男。その背中は、事件直前の、追い詰められた父の姿によく似ていた。
そして、その数枚後。
レンズが捉えていたのは、裁判所の廊下で、法衣を脱ぎ捨ててベンチに崩れ落ちる、若き日の耕三自身の姿だった。
さらに、最後の一枚。
そこには、病室の窓辺で、一輪の白い百合の花を見つめる、年老いた耕三の横顔が写っていた。セルフタイマーで撮られたのか、ピントは少し甘い。けれど、その表情には、裁判官としての峻厳さはなく、一人の人間としての、静かな祈りだけが宿っていた。
「そうか……」
朔は、印画紙を見つめたまま、その場に崩れ落ちた。
耕三は、父を裁いたあの日から、ずっと自分自身もまた「被告人」として生きてきたのだ。
法で裁ききれなかった感情、救いきれなかった家族への贖罪。彼はカメラというレンズを通して、自分が壊してしまった世界の欠片を拾い集めようとしていた。
あの公園の写真は、単なる偶然の産物ではなかった。
耕三は、父の事件が起きる前から、その「予兆」に気づいていたのかもしれない。追い詰められていく家族の姿を視界に入れながら、司法の壁に阻まれて手を差し伸べられなかった自責の念。
フィルムに刻まれていたのは、耕三が人生の最後にどうしても「現像」したかった、彼自身の「魂の叫び」だった。
「君が……正しく見つけてくれる気がする」
耕三の最期の言葉が、暗室の静寂の中で蘇る。
朔は、濡れた写真を一枚ずつ、丁寧に乾かした。
父が犯した罪という「消したい痕跡」。
耕三が抱え続けた贖罪という「消えない足跡」。
それらが、一枚のフィルムの上で溶け合い、一つの物語を形作っていた。
朔は決意した。
この写真を、自分だけの秘密にしてはいけない。
これが、耕三が本当に遺したかった「判決」なのだから。
写真館を出ると、雨はすっかり上がっていた。
2026年の、澄み渡った冬の空が広がっている。
朔は、初めて自分の顔を隠さずに、前を向いて歩き出した。
第9章〈足跡の肯定〉
山中邸の整理を終える最後の日、朔は玄関の鍵を閉める前に、もう一度だけ家中を見渡した。
あんなに溢れていたゴミも、過去の亡霊のような書類も、今はもうない。ただ、長年そこに主がいたことを示す、畳の擦り切れや柱の傷だけが残っていた。それは耕三が必死に消したがっていた「生きた証」であり、朔が守り抜いた「尊厳」でもあった。
朔は、あのライカのカメラと現像した写真を抱え、街の中心部にある小さなギャラリーを訪ねた。
そこは、特殊清掃員として働く中で知り合った、数少ない知人が経営する場所だった。
「これを、展示させてほしいんです。……僕の名前で」
ギャラリーのオーナーは、ネットで朔の正体を知っていた一人だった。彼は驚きに目を見開いたが、朔が差し出した写真――公園で笑う親子と、苦悩する元裁判官の姿――を見た瞬間、その言葉を飲み込んだ。
「……浅井君、これがどういう意味を持つか、わかっているのか? また騒ぎになるかもしれないんだぞ」
「わかっています。でも、隠し続けることは、山中さんが遺してくれたこの『光』を、僕がまた泥の中に沈めることと同じなんです」
朔の声は、かつてないほどに澄んでいた。
数日後、街の一角に小さな看板が立った。
『消えない足跡 ― 山中耕三と浅井朔の対話』
展示されたのは、耕三が撮った写真と、朔が清掃した後の山中邸の風景。そして、朔自身がカメラを譲り受けた後に、初めてシャッターを切った「朝焼けの街」の写真だった。
初日、訪れる者は少なかった。冷やかしや、毒づくような視線を向ける者もいた。しかし、写真の前で足を止める人々は、次第に言葉を失っていった。
そこには「加害者家族」も「冷徹な裁判官」もいなかった。ただ、過ちを悔い、誰かを愛し、必死に今日を生きようとした、生身の人間の痕跡だけが焼き付けられていた。
「これ……私の家の近くの公園だわ」
一人の老婦人が、朔と父が笑う写真の前で涙を流していた。
「あの日、確かにこの人たちは幸せそうだった。私は、ニュースで流れる残酷な部分しか知らなかったけれど……こんなに温かい瞬間もあったのね」
その言葉を聞いたとき、朔の中で長い間うずいていた「自分は生まれてくるべきではなかった」という呪いが、音を立てて解けていった。
自分の足跡は、決して汚れただけの道ではなかった。
父の愛を受け、耕三の孤独に寄り添い、そして今、誰かの心を動かしている。
夕暮れ時、ギャラリーの隅に座る朔のもとに、一通の手紙が届いた。
差出人は、かつて耕三が「死刑」を宣告した男の、残された家族からだった。
『あなたの展示を見ました。私はずっと、山中判事を、そしてあなたの父親を恨んで生きてきました。でも、あの写真の中の判事の苦悩する顔を見て、初めて気づいたのです。誰もが、消したい痕跡を抱えながら、それでも生きるしかないのだと。あなたの歩んできた道が、少しだけ私の救いになりました。』
朔は手紙を胸に抱き、窓の外を見上げた。
2026年の、どこまでも高い空。
かつて彼を追い詰めた追跡者たちの声は、もう聞こえない。
代わりに聞こえてくるのは、自分が踏みしめる、確かな一歩ずつの足音だった。
彼は、棚に置かれたライカに手を触れた。
次の足跡を、どこに刻もうか。
消したい痕跡があるからこそ、人は新しく、美しい痕跡を求めて歩き出せるのだ。
最終章〈未来への痕跡〉
ギャラリーでの展示から一年が過ぎた。
二〇二六年の冬、朔は今も同じ街で暮らしている。かつてのように名前を伏せ、影に怯えて生きることはもうない。彼は特殊清掃の仕事を続けながら、休日はあのライカを首に下げ、街の風景を切り取っていた。
彼が撮るのは、煌びやかな観光地ではない。
使い込まれた台所の蛇口、路地裏に咲く名もなき花、誰かが大切に手入れした玄関先の植木鉢――。他人が見落としてしまうような、けれどそこにある「確かな生の痕跡」を、彼は慈しむように写し続けていた。
ある日の午後、朔は山中邸の跡地を訪れた。
古い平屋は、耕三の遺言通りに取り壊され、今は小さな公衆公園となっていた。遊具が一つと、中央に大きな桜の木があるだけの簡素な場所だ。
朔は、その桜の木の根元に、ひっそりと置かれた小さな石碑に触れた。そこには、耕三がかつて判決録の余白に記した、あの言葉が刻まれている。
『残された者が生きていくための道を、我々は奪ってはならない』
その言葉は、今や朔だけでなく、この公園を訪れる人々の心に、静かに根を下ろしている。
「……山中さん。僕、まだ歩いていますよ」
朔が空を見上げたとき、ブランコに駆け寄る一人の子供と、その後ろを追いかける父親の姿が目に入った。あの日、耕三がレンズ越しに見た光景が、時を超えて目の前で再現されている。
朔は迷わずカメラを構えた。
ファインダー越しに見える世界は、悲しいほどに美しかった。
かつての彼は、カメラを「自分を追い詰める道具」だと思っていた。けれど今は違う。カメラは、消えてしまう瞬間を「永遠の足跡」に変えるための、希望の道具だ。
シャッターを切った瞬間、背後から声をかけられた。
「浅井さん。……また、いい写真が撮れましたか?」
振り返ると、そこには以前のギャラリーのオーナーと、一人の若い女性が立っていた。女性は、第九話で朔に手紙をくれた、あの「死刑囚の娘」だった。彼女は最初、朔を恨むために展示を訪れたが、今は前を向くために、時折こうして朔に会いに来るようになっていた。
「はい。とても、いい光でした」
朔は穏やかに微笑んだ。
彼らは、互いに消せない痕跡を抱えた者同士だ。けれど、その傷を分かち合える相手がいることが、どれほど孤独を癒やすかを知っている。
朔は、持っていた防水のバッグから一冊の写真集を取り出した。
自費出版で作った、ごく薄い一冊。タイトルは、『君がくれた、光の続き』。
その表紙には、あの雨の山中邸で、耕三が朔にカメラを託した瞬間の、二人の影が写っていた。
「私の人生は、消したいことばかりでした」
朔は、静かに語り出した。
「でも、消したかった痕跡があったからこそ、僕は山中さんに出会えた。あなたが僕を見つけてくれた。……過去は変えられないけれど、その過去が残した足跡を、どこへ繋げるかは、自分で決められるんだと今は信じています」
風が吹き抜け、冬の陽光が三人を優しく包み込んだ。
朔は再び歩き出す。
彼の歩く道には、もう逃亡者のような頼りなさはなかった。
一歩踏み出すごとに、地面には新しい足跡が刻まれていく。それは過去から逃げるための痕跡ではなく、未来を誰かと分かち合うための、確かな道しるべだった。
カメラの中で、新しいフィルムが次の光を待っている。
消えない足跡。消したい痕跡。
そのすべてを抱えたまま、浅井朔の物語は、これからも続いていく。
なんかね今見たらランキング25位にいた




