『その名義、私に下さい』――泣けば勝てると思った寄進令嬢の前に、伝説の“帳簿の亡霊”先輩が現れた
あの人に“かわいそう”は通用しない。
泣けば泣くほど、証拠として残るだけだ。
「ねぇ、その欄……私の名前にしてくれません?」
王都錬金術師ギルド付属学院の研究棟。薬草と金属と魔力粉の匂いが混ざる廊下で、私は両腕いっぱいに抱えた木箱を止めた。箱の上には赤い封蝋。
《新触媒“ラザライト” 登録申請 一式》。
声をかけてきたのは、白衣をやけに上品に着こなした女生徒――ミレーヴァ・セリドン。寄進名簿で何度も見た名だ。学院の掲示板に貼られる「寄進者一覧」に、いつも中央に太字で載る。
彼女が指さしているのは、申請書のいちばん上――筆頭錬金師の欄だった。
「……どの欄の話?」
私――リュネ・カシェルは、つい聞き返してしまった。
本来なら「初対面で失礼です」とか「そのお願いは受けられません」とか、もっと角のある言葉が先に出るはずなのに。礼儀の引き出しより、疑問の方が早く口を出た。
「筆頭。いちばん上の名前。そこ、あなたでしょ?」
さらっと言う。まるで席替えでも頼むみたいに。
「どうして私が変える必要があるの?」
「だって私、外に出られるし。人脈もあるし。評議会にも顔が利くし。あなたの発明、伸ばしてあげられる」
“伸ばしてあげられる”。
その言い方ひとつで、胃がきゅっと縮んだ。
「あなたは研究だけしてればいいじゃない。表に出るの、得意じゃないでしょ?」
(知らないよね。私が“出ない”ために、蝋燭が尽きるまで何度机にかじりついたか)
ミレーヴァは笑顔のまま距離を詰めてくる。目尻の柔らかさ、声の甘さ、首の傾げ方。完璧に“善意”の形をしているのに、内側は押し売りだとわかる。
「それに、筆頭が私なら寄進が増える。研究室も守れる。ね? みんな幸せ」
“みんな”に、私の意思は含まれていない。
「……できません」
言った瞬間、ミレーヴァの笑みが一瞬だけ固まった。すぐに眉を下げ、困った顔に切り替える。切り替えが早すぎて、むしろ綺麗だ。
「あれ。リュネさんって、案外頑固なんだ」
頑固=悪、みたいに聞こえる。
言葉の細工が上手い。
「わがままじゃなくて、規程的に無理です。魔力刻印で固定されてますから」
錬金師の登録は、実験ログと署名、それに“魔力刻印”で紐づけられる。後から書き換えるのは、ただの不正じゃない。錬金師として終わる。
「規程は変えられるよ?」
ミレーヴァは小さく肩をすくめた。
「だって、変えてきたもん。今まで」
(……ああ。噂の中心、やっぱり)
ここ半年、学院では“名義トラブル”が妙に増えた。若手のログが欠けたり、提出箱の封がなぜか緩んでいたり。笑顔の広報が動くと、書類だけ柔らかくなる――そんな噂。
「お願い。あなたが譲らないなら……困る人が出るよ?」
脅しではない、みたいな口調。
でも内容は、はっきり脅しだ。
「困る人?」
「研究室。予算。あなたの指導師。それに……あなた自身」
最後に“あなた自身”を置く。
ここからの筋書きが見える。嫌なほど見える。
私が返事を探す前に、ミレーヴァは廊下の壁――そこに埋め込まれた監視用の記録晶をちらっと確認した。死角がある場所。分かってて立っている。
「じゃあ、こうしよっか」
彼女は私の木箱に軽く触れた……ように見せて。
次の瞬間、自分の手首を壁の角にぶつけた。
「痛っ……!」
小さく、でも周囲に届く声量で。
その直後、目元が潤む。泣く、じゃない。濡らす。見せる。
通りかかった研究員が足を止めた。誰かが「大丈夫?」と声をかけ、誰かが私を見る。
“構図”が勝手に組み上がる。
(来る)
私は箱を抱えたまま言葉を探した。
「違います」では弱い。
「彼女が自分で」では、“追い詰めてる”になる。
そのとき。
「……カシェルさん?」
廊下の奥から、静かな声がした。
振り向くと、青い腕章をつけた上級生が立っていた。学院の“安全と倫理”を司る委員の印。羊皮紙の束を抱え、靴音が無駄に静かで、影まで几帳面そうだ。
――オルシェン・グレイヴァ先輩。
研究棟の伝説。
封蝋の歪みで「誰が触ったか」を当てるとか、提出期限が近づくと廊下の空気が変わるとか、規程を呪文みたいに暗唱できるとか。笑い話みたいに語られる――“帳簿の亡霊”。
そして私が、誰にも悟られないように、ずっと、こっそり見てきた人。
(見ない。いまは見ない。顔に出る)
心臓が一拍だけ跳ねたのを、私は木箱の重さで誤魔化した。
オルシェン先輩の視線がミレーヴァの手首へ移る。
次に、私の箱の封蝋へ。
そして、記録晶の死角へ。
変な間が生まれた。ミレーヴァの涙が、ほんの少しだけ揺らいだ。
「どうしたんです?」
先輩は、ミレーヴァではなく私に聞いた。
それだけで、喉の奥の固まりが少しほどけた。
「……名義の変更を求められて。断ったら、今」
「なるほど」
先輩は羊皮紙の束の上から、小さな記録札を取り出した。委員会用の簡易記録。声と時刻と場所を写す魔具だ。
「お願いの内容を、短く」
淡々と促す。
“かわいそう”の流れに、乗ってくれない。
ミレーヴァは一瞬詰まった。言えば記録される。言わなければ筋が通らない。
「……筆頭錬金師の名前を、私にしてほしくて」
「不可能です」
即答。声の温度が一ミリも上がらない。
「え?」
「筆頭欄は実験ログと魔力刻印で固定です。改竄は研究倫理規程違反。最悪、除籍」
周囲の研究員が、ざわっと息をのむ。
“泣いてる子”を見る目から、“やばい案件”を見る目に切り替わる。
ミレーヴァは笑顔を保とうとして、口角がひくついた。
「でも、学院のために! 寄進が増えるし、みんなが……」
「寄進は研究に使います。名義に使いません。規程第十二条」
先輩は、まるで教科書を読み上げるみたいに言う。
正論がその場に落ちた音がした。
ミレーヴァは、そこでようやく“痛む手首”をこちらに見せつけるように押さえた。
「……ほら、痛くて……っ」
先輩は一拍だけ置いてから、淡々と告げた。
「その痛みが誰によるものかは、ここでは断定できません」
空気が、わずかに止まる。
「暴力として申告するなら、治癒師の診断と、痕跡鑑定を通してください。接触痕と魔力残滓で判別できます」
ミレーヴァの涙が、揺れた。
“泣けば勝つ”の台本に、鑑定という項目はない。
先輩は続ける。
「今の状況で“彼女にやられた”と主張するなら、虚偽の訴えとして扱われる可能性があります。撤回するなら、今が一番軽い」
ミレーヴァの顔から、可憐さが一枚剥がれた。怒りと羞恥で赤くなり、声が尖る。
「ひどい……! 私は善意で……!」
「善意なら、手続きで示してください。寄進申請の窓口は北棟。名義変更は却下です」
先輩は記録札をしまい、淡々と道順まで言った。
ミレーヴァは言葉にならない声を漏らし、踵を返して走り去った。白衣の裾が乱れ、泣き顔はもう“守ってあげたい”より“面倒が来た”に近い。
廊下に残ったのは、微妙な沈黙と、私の箱の重みだけだった。
私は息を吐いた。助かった。助かった、のに――胸の奥がざわつく。
(……この人と、もし、なんて)
考えるだけで、顔に出そうになる。
落ち込んだ日も、泣きたい日も、きっと先輩は言う。
“要件を短く”。“証拠を添えて”。“期限を守って”。
(助かるかもしれないけど……助かる、けど!)
怖い。少しだけ。
でもその怖さの下に、まだ、ちゃんと熱が残っているのがわかる。たぶん私は、この人の“優しさの形式”が好きだ。
「……カシェルさん。提出、間に合いますか」
先輩が私の箱を見る。
「はい。今から行きます」
「封蝋、触られています。提出前に刻印を再確認してください」
(こわ……ありがたいけど、こわい)
私は頷き、歩き出した。
談話室の水晶掲示は、夕刻になると一段とうるさくなる。
人が集まる時間に合わせて、匿名の文字が泡みたいに増えていくからだ。
『筆頭の子、寄進者に手を上げたって本当?』
『ラザライト、ほんとは誰の?』
『ミレーヴァ様が泣いてたの見た』
……始まった。
涙が通用しなかった分、次は“拡散”だ。
空気と多数決は、規程より速い。
私は寮の机で水晶板を抱え、呼吸を整えようとして失敗した。息が浅い。胸の奥が冷える。
反論したい。でも反論すれば、それが燃料になるのもわかっている。
そのとき、扉が小さく叩かれた。
「……カシェルさん。入れます?」
オルシェン先輩だった。
腕章は外しているのに、気配が“委員会”のまま。
部屋に入るなり、先輩は水晶掲示を一瞥して、「拡散ですね」とだけ言った。怖いくらい正確で、腹が立つくらい頼もしい。
「反論投稿、しました?」
「してません。したら余計に……」
「正解です。燃料を足さない方がいい」
先輩は鞄から、薄い束を取り出した。私の実験ログの写し。魔力刻印の照合票。提出箱の封蝋記録。
いつの間に、こんなに。
「証明は“言葉”ではなく“記録”でします」
その言い方が、妙に落ち着く。
泣かなくていい。うまいこと言わなくていい。ここは“正しさ”が残る場所だ、と言われているみたいで。
「……でも、みんなは記録なんて見ません」
「見せ方の問題です」
先輩は三枚だけを机に置いた。
一、実験計画書:筆頭が私であること
二、実験ログ:刻印と日付、署名
三、規程抜粋:名義改竄不可と虚偽申告の条項
「これを委員会窓口に提出。噂板には“委員会が調査中”の告知だけ。個別の口論は禁止」
簡潔で、冷たくて、だから強い。
私は喉の奥が熱くなるのを感じた。怖さと一緒に、別の何かが上がってくる。
「……先輩、なんでそこまで」
オルシェン先輩は少しだけ目を伏せた。
伏せただけで表情は変わらないのに、その“間”だけが人間っぽい。
「研究棟は、成果を守れないと終わります。あなたの成果が奪われたら、次は私の番です」
私情じゃない分、信じられる。
そして、私がいま必要なのも“信じられる手順”だ。
先輩は続けて言った。
「あなた、今、呼吸が浅い。水を飲んで。座って」
指示が具体的だと、体が動く。
私は水を飲んで、ようやく自分が震えていたことに気づいた。
「カシェルさん」
「……はい」
「あなたは、正しく怖がっています」
私は一瞬、意味が分からなかった。
「怖いのは普通です。拡散は、研究では対処できない。だから怖い。でも怖いから、手続きを踏める」
先輩の声は相変わらず平坦なのに、言葉だけが妙に温かい。
「怖がれない人は、焦って反論して、燃やして、自滅します」
私は小さく笑ってしまった。
笑ったら、胸の冷たさが少しだけ溶けた。
(……やっぱり、好きだな)
言わない。言えない。いま言う言葉じゃない。
でも、胸の底に残るものは消えない。
先輩は鞄を閉じた。
「提出に行きましょう。まだ間に合います」
私は頷いた。
“かわいい”とか“好き”とか、言うには場違いで、言えないままの熱が胸に残る。
あの人に“かわいそう”は通用しない。
――泣けば泣くほど、証拠として残るだけだ。
そして私は、その“残るもの”のほうを信じて歩く。
隣を歩く先輩の足音が、やけに静かで、やけに心強い。
噂の熱より、先輩の足音の冷たさのほうが、なぜか優しかった。




