09.線を引く
それは、私から切り出した。
理由は特にない。
ただ、このまま何も言わずに進むのが、少し怖くなっただけだった。
「ねえ」
駅から少し離れた、静かな道を歩いているときだった。夕方の空気は冷たくて、人通りも少ない。
「なに?」
彼は、いつも通りの声で返す。
「一回、ちゃんと話しておきたいことがある」
その言い方で、ただ事じゃないと伝わったのか、彼は足を止めた。
「契約のこと」
言葉にすると、空気が変わる。
それまで曖昧に避けてきた単語だった。
「最近、普通すぎる気がして」
「普通?」
「うん。……恋人として」
私は、少し言葉を探してから続けた。
「それが悪いって言いたいわけじゃない。でも、このままだと、境界が曖昧になる」
「境界って、どこ?」
その問いに、私は詰まった。
手をつながないこと?
好きと言わないこと?
未来の話をしないこと?
どれも違う気がした。
「……終わりを決めてること」
やっと、それだけ言えた。
「この関係には、期限があるってこと」
彼は、少しだけ目を伏せた。
「覚えてるよ」
その一言が、なぜか胸に刺さった。
「覚えてるけど、最近は、意識しないようにしてただけ」
私は、息を吸ってから言う。
「意識しないのが、一番危ない」
自分に言い聞かせるみたいな声だった。
「だから、改めて確認したい。私たちは、契約中。恋人のふり」
「……うん」
彼は、否定しなかった。
「好きにならない。期待しない。終わったら、元に戻る」
一つずつ並べるたびに、喉が苦しくなる。
「それで、いい?」
沈黙が落ちた。
彼は、しばらく考えてから、ゆっくりとうなずいた。
「それが、君の安心なら」
その言葉が、優しすぎて、逆に痛かった。
「安心、じゃない」
思わず、本音がこぼれる。
「でも……怖いだけ」
「なにが?」
「このまま、普通になってしまうのが。普通になったら、終わりが来たとき、きっと耐えられない」
そこまで言って、私は初めて、自分が何を恐れているのか理解した。
彼は、少し困ったように笑った。
「ちゃんと考えてるんだね」
「考えすぎかもしれない」
「いや」
彼は首を振る。
「考えないふりをするより、ずっといい」
それから、少しだけ間を置いて言った。
「じゃあ、線を引こう」
その言葉は、静かだった。
「必要なとき以外は会わない。連絡も最低限」
私の胸が、きゅっと縮む。
「それで、契約は守れる」
守れる、という言い方が、まるで感情を排除するみたいで。
「……わかった」
私がそう答えると、彼は少しだけ安心したような顔をした。
別れ際、いつもより距離を取って立つ。
「じゃあ」
「うん」
手を振ることもなく、それぞれの方向へ歩き出した。
数歩進んでから、私は思う。
ちゃんと線を引いた。
正しい選択のはずだ。
それなのに。
背中がこんなにも寒いのは、どうしてだろう。




