08.他人の言葉で
それを言われたのは、ほんとうに些細なきっかけだった。
ゼミが終わったあと、数人で教室を出て、階段を下りていたときのことだ。前を歩いていた同じゼミの女の子が、振り返って私に声をかけた。
「ねえ」
「なに?」
「最近さ、雰囲気変わったよね」
唐突で、理由もわからない一言だった。
「そうかな」
そう返すと、彼女は少し首を傾げてから言った。
「なんか……前より、柔らかくなった」
柔らかい。
その言葉が、頭の中で一度、止まった。
「それって、いい意味?」
「もちろん。彼氏できたから?」
悪気はなかったと思う。ただの雑談だ。
「……たぶん」
私は、曖昧に笑った。
そのやりとりを、少し後ろで歩いていた彼は、聞いていたはずだ。でも、何も言わなかった。
建物の外に出て、みんながそれぞれの方向へ散っていく。
彼と二人きりになると、さっきの言葉が、急に重く感じられた。
「柔らかく、だって」
私がそう言うと、彼は少し考えてから言った。
「悪くないんじゃない?」
「そういう意味じゃなくて」
私は足を止めた。
「私、変わってる?」
自分でも、なぜそんなことを聞いたのかわからない。
でも、彼は真剣に考えるような顔をした。
「……変わったというより、力が抜けた感じはする」
力。
抜けるほど、入れていた覚えはなかった。
「それって、契約のせいかな」
言ってから、少し後悔した。
契約という言葉を、久しぶりに口に出した気がしたから。
「さあ」
彼は、即答しなかった。
「でも、悪い変化じゃないと思う」
それは、慰めでも、評価でもない言い方だった。
歩き出しながら、私は考える。
私は、誰かと一緒にいることで、変わってしまう人間なのだろうか。
それとも、元に戻っただけなのだろうか。
駅前まで来て、ふと彼が言った。
「周りには、普通のカップルに見えてると思うよ」
「……そうだね」
普通、という言葉に、また引っかかる。
「それ、嫌?」
彼は、私の顔を覗き込むようにして聞いた。
「嫌、じゃない」
正直な答えだった。
「でも……安心も、してない」
安心してしまったら、戻れなくなる気がした。
「じゃあ、ちょうどいいんじゃない?」
「なにが?」
「ちゃんと線を引けてる」
線。
その言葉に、私は少しだけ救われた気がした。
改札の前で立ち止まる。
「じゃあ、また」
「うん。また」
別れたあと、電車に乗りながら、私は窓に映る自分の顔を見た。
確かに、少しだけ表情が違う気がした。
誰かに見せるためじゃない、自然な顔。
それが、彼のおかげなのか。
それとも、契約のせいなのか。
答えは、まだ出ない。
ただ一つだけ、はっきりしていることがある。
この関係は、もう私たちだけのものじゃない。
周囲に「恋人」として認識された時点で、戻れない場所に一歩、踏み込んでしまっている。
それでも私は、その一歩をまだ後悔していなかった。




