07.何でもない日
その日は、特別な予定のない一日だった。
講義は午前中で終わり、午後は空いている。帰省の疲れも取れてきて、頭の中が久しぶりに静かだった。
スマホを見ると、彼からメッセージが一つ届いていた。
「今日、空いてる?」
理由は書いていない。
私は少しだけ考えてから、短く返した。
「空いてるよ」
返事はすぐに来た。
「じゃあ、図書館の前で」
それだけだった。
待ち合わせに理由がいらない。
その事実に、私は気づかないふりをした。
図書館前のベンチで待っていると、彼は飲み物を二つ持って現れた。
「甘いのと、甘くないの。どっち?」
「……甘くない方」
渡された紙コップは、まだ少し温かかった。
「覚えてたんだ」
何気なく言うと、彼は肩をすくめた。
「一回聞いたから」
一回。
それが多いのか少ないのか、わからない。
並んで歩きながら、特に意味のない話をした。講義のこと、ゼミのこと、最近できた店のこと。どれも、誰とでもできる話題だ。
でも、不思議と沈黙が気にならなかった。
公園のベンチに座って、私はスマホで時間を確認する。
「もう夕方だ」
「ほんとだね」
それだけで、会話が途切れる。
でも、居心地は悪くなかった。
「ねえ」
彼が、前を見たまま言った。
「俺たち、今、何してると思う?」
質問の意図がわからず、私は少し考えた。
「……時間つぶし?」
「そうかも」
彼は笑った。
「でも、恋人っぽくはないよね」
その言葉に、胸が少しだけ跳ねた。
「契約的には、問題ないでしょ」
「うん。むしろ健全」
健全という言葉に、二人で小さく笑う。
その瞬間、私は気づいた。
今、私は彼を「恋人の役」として見ていない。
契約も、条件も、頭の隅に追いやっている。
ただ、一緒にいる人として、ここにいる。
それが、少しだけ怖かった。
日が傾いて、風が涼しくなってきた。
「そろそろ帰ろうか」
「うん」
立ち上がって歩き出す。
人通りはまばらで、手をつなぐ必要はない。
それなのに、彼の手が私の指先に軽く触れた。
偶然みたいな距離。
私は避けなかった。
駅の近くで、彼が言った。
「今日は、楽だった」
それは、感想みたいな声だった。
「……私も」
答えてから、少しだけ後悔した。
楽だと思ってしまったことを認めた気がして。
「じゃあ、また」
「うん。またね」
別れてから、改札を抜けるまでの間、胸の奥が静かにざわついていた。
恋人らしいことは、何一つしていない。
約束も、義務も、必要性もなかった。
それなのに。
私はその日、初めて思ってしまった。
――この関係が、もう少し続けばいいのに。
すぐに、その考えを振り払う。
続くのは、契約まで。
それ以上は、望まない。
そう決めたはずだった。




