06.戻った場所で
実家から戻ってきた翌日、大学の構内はいつも通りだった。
人の流れも、掲示板の前に集まる学生も、コーヒーの匂いも、何一つ変わらない。なのに、私は少しだけ居心地の悪さを感じていた。
帰省は終わった。
契約は続いている。
それだけのはずなのに。
「おはよう」
講義室の前で彼に声をかけると、彼は振り返って、いつもと同じように手を上げた。
「おはよう。疲れてない?」
「まあ、少し」
本音だった。体より気持ちの方が。
隣に並んで歩きながら、ふと気づく。
距離が、実家にいたときと同じままだ。
近すぎるわけでも、離れすぎているわけでもない。
でも、「恋人の距離」だった。
誰も見ていないのに。
「昨日さ」
彼が、前を向いたまま言った。
「お母さん、安心してたね」
「……うん」
それを聞いて、ほっとしたはずだった。
でも、胸の奥に小さな棘が刺さったままだ。
「ちゃんと役に立てたなら、よかった」
役に立つ。
その言葉が、妙に引っかかった。
私は立ち止まって、彼を見た。
「ねえ」
「なに?」
「……ありがとう」
言う予定じゃなかった。でも、言わずにはいられなかった。
彼は少し驚いた顔をして、それから笑った。
「契約内だよ」
軽い冗談みたいな言い方。
その一言で、私は安心するべきだったのに、なぜか少しだけ寂しくなった。
昼休み、学食で向かい合って座る。
周りには、他の学生たちの声があふれている。
「次、いつ会う?」
彼が聞いた。
「ゼミは週一だし……」
「じゃあ、それ以外は?」
その質問に、私は一瞬だけ詰まった。
契約には、頻度までは決めていない。
でも、会うのが当たり前みたいに聞かれると、理由を探してしまう。
「……必要なとき?」
「それ、曖昧だね」
彼は笑いながら言った。
「でも、嫌じゃなければ、普通に会ってもいいと思う」
普通という言葉が、また引っかかる。
「それって、契約的に?」
「どっちでも」
どっちでも。
それは、選択を私に預ける言い方だった。
「……考えとく」
そう答えると、彼はそれ以上、何も言わなかった。
午後の講義が終わって外に出ると、空はもう夕方の色だった。
彼は自然な動作で、私の横に並ぶ。
「駅まで一緒?」
「うん」
人前だから。
そう言い訳しようとしたけれど、今日は誰も気にしていなかった。
歩きながら、私は思う。
実家では、役割を演じていた。
ここでは、もう少し曖昧だ。
駅に着いて、改札の前で立ち止まる。
「じゃあ」
「うん。また」
別れる直前、彼が少しだけ視線を下げた。
「……無理しなくていいから」
それだけ言って、背を向ける。
その言葉が何を指しているのか、はっきりしなかった。
契約のことか、家族のことか、それとも――。
改札を抜けてから、私は一度だけ振り返った。
彼はもう、いなかった。
戻った場所は、何も変わっていない。
でも、私たちの関係だけが、少しずつ、契約の線を踏み越えそうになっている。
それを止める理由も、進む理由も、まだ私は、ちゃんと持っていなかった。




