05.家族の前では
実家の最寄り駅に着いたのは、昼前だった。
改札を出ると、見慣れた風景が広がっている。少し古くなった駅舎も、バス停の位置も、全部そのままだった。変わったのは、私だけなのかもしれない。
「緊張してる?」
彼が、小声で聞いてくる。
「少しだけ」
本当は、少しじゃなかった。でも、これ以上大きく言うと、引き返したくなりそうだった。
家までの道を並んで歩く。人通りは少なくて、近所の人とすれ違うたびに、彼は自然に会釈をした。その仕草が、妙に板についていて、胸の奥がざわついた。
玄関の前で、深呼吸を一つ。
「じゃあ……行こうか」
彼がそう言って、ドアが開く。
「おかえり」
母はすぐに気づいて、顔を上げた。そして、その隣に立つ彼を見ると、ぱっと表情を明るくした。
「この人が……?」
「うん。恋人」
言葉にした瞬間、少しだけ現実感が増した。
「初めまして。立花と申します」
彼は丁寧に頭を下げた。声のトーンも、距離感も、完璧だった。
「まあ……! どうぞどうぞ」
母は嬉しそうに何度も頷いて、私たちを居間に通した。
お茶を出しながら、母は彼にいくつも質問をした。大学のこと、将来のこと、住んでいる場所。彼は無難に、でも誠実に答えていく。
私はその横で、相槌を打ちながら、少しだけ不思議な気持ちになっていた。
――ああ、この人は、私の知らないところでも、ちゃんと大人なんだ。
「二人は、仲いいのね」
母が、ふとそう言った。
その言葉に、私は一瞬だけ息を詰めた。
彼は、私の方をちらりと見て微笑んだ。
「はい。おかげさまで」
その言い方が、あまりにも自然で。
演技だとわかっているのに、否定できなかった。
昼食のあと、母は台所に立ち、私たちは居間に残った。テレビはついていたけれど、内容は頭に入ってこない。
「……上手だね」
小声で言うと、彼は少し困ったように笑った。
「失礼があったら、困るでしょ」
「そういう意味じゃなくて」
言いかけて、やめた。
母は、何度もこちらを見ていた。安心したような、少し泣きそうな顔で。
その視線が、思っていたより重かった。
夕方、買い物に行くという母について、私たちも外に出た。並んで歩く途中、母が言った。
「あなた、本当に良い人を見つけたわね」
私は曖昧に笑った。
「……うん」
その瞬間、彼の手が、そっと私の指に触れた。
つなぐほどじゃない。
でも、離れてもいない。
母は、その様子を見て、何も言わなかった。
ただ、少しだけ歩く速度を落とした。
夜、客間に布団を敷きながら、母が言った。
「今日はありがとう。来てくれて」
「こちらこそ」
彼が答える。
そのやりとりを見ていて、私は思ってしまった。
――これが、もし本当だったら。
すぐに、その考えを打ち消す。
本当じゃない。
これは契約で、役割で、期限付きのものだ。
部屋に戻って、布団に横になる。
天井を見つめながら、静かに息を吐いた。
うまくいった。
母は安心した。
それなのに、胸の奥だけが、妙に落ち着かなかった。
彼は、家族の前で、ちゃんと恋人だった。
それは、約束通りのはずなのに。
私は初めて、契約が守られたことを少しだけ怖いと思ってしまった。




