03.恋人として呼ばれる
最初に「恋人」を演じる場面は、思っていたより早くやってきた。
ゼミの飲み会だった。断る理由はあったけれど、断らない理由もできてしまった。
「来るって言ったら、自然じゃない?」
彼がそう言ったとき、私は一瞬だけ迷ってから頷いた。
「……うん。そうだね」
“自然”という言葉が、少しだけ引っかかった。
店に入ると、すでに何人か集まっていて、私たちは遅れて入った形になった。誰かがこちらに気づいて、声を上げる。
「あれ? 一緒?」
その瞬間、彼は迷わなかった。
「うん。付き合ってる」
あまりにも普通の声だった。
場の空気が一斉に動く。驚きと納得が混ざった視線が、私たちに向けられる。
「えー、そうなんだ!」
「全然気づかなかった」
私は笑った。ちゃんと、恋人っぽく。
そのつもりだった。
彼は私の隣に座って、自然に距離を詰めた。肩が触れる。ほんの一瞬、逃げたいと思ったけれど、逃げなかった。
必要なときだけ。
そう決めたはずだった。
「いつから?」
「最近」
「きっかけは?」
質問が飛ぶ。彼は適当に答えて、私の方を見る。
私は頷く。うまく合わせられていると思った。
なのに、不思議だった。
誰かが冗談めかして言った。
「なんか、ちゃんとお似合いだよね」
その言葉に、胸の奥がきゅっと縮んだ。
褒められたはずなのに、嬉しいより先に怖いと思ってしまった。
飲み会が終わる頃には、恋人という設定は、もう説明不要になっていた。誰も疑わない。誰も深く聞かない。
店を出て、夜風に当たる。
「初仕事、完了だね」
彼がそう言って、少し笑った。
「……うん」
本当は、何か言うべきだった気がする。でも、言葉が見つからなかった。
駅までの道を並んで歩く。人通りが多くなってきたところで、彼は一度立ち止まった。
「手、つないだ方がいい?」
確認するような声だった。
私は一瞬だけ考えて、頷いた。
「人前だから」
彼の手は、思っていたより温かかった。
強くも、弱くもない。逃げられる余地を残した握り方。
それが、余計に心に残った。
改札の前で、手を離す。
「じゃあ、また」
「うん。……また」
別れ際、彼は一瞬だけ何か言いかけて、やめた。
その沈黙が、なぜかずっと気になった。
家に帰ってから、鏡の前で自分の顔を見る。
ちゃんと笑っていた。恋人らしく。
それなのに、胸の奥だけが落ち着かなかった。
これは演技だ。
必要だからやっている。
何度もそう言い聞かせた。
でも――
誰かに「恋人」と呼ばれることが、こんなにも簡単で、こんなにも重いなんて、知らなかった。




