18.前日
その日が前日だと気づいたのは、夜になってからだった。
カレンダーを見たわけでもない。
誰かに言われたわけでもない。
ただ、「明日で終わる」という感覚が、ずっと胸の奥に居座っていた。
部屋は静かで、テレビもつけていない。
スマホは机の上に伏せたまま。
連絡は来ていなかった。
それが正しい。
前日だからといって、何かをする理由はない。
私たちは、ちゃんとしている。
そう思おうとした瞬間、胸が痛んだ。
ちゃんとしているから、終わる。
ちゃんとしているから、何も言わない。
ベッドに腰掛けて、天井を見上げる。
最初に彼から「頼みたい」と言われた日のことを思い出す。
淡々とした声。
条件の確認。
感情の入らないやり取り。
あのときは、これほど静かな終わりを想像していなかった。
スマホが、微かに震えた。
心臓が跳ねる。
画面を確認すると、彼からだった。
「起きてる?」
たった四文字。
指が止まる。
返してしまったら、何かが変わるかもしれない。
返さなければ、何も起きないまま終わる。
どちらが正しいのか、わからなかった。
しばらくして、私は短く返した。
「起きてるよ」
送信した瞬間、胸がざわつく。
「少し、話せる?」
すぐに、返事が来た。
理由は、書いていない。
私は、深く息を吸ってから、答えた。
「少しだけ」
電話がかかってくる。
通話ボタンを押すまでに、数秒かかった。
「……もしもし」
『起きててよかった』
彼の声は、いつもより低くて、少しだけ硬かった。
「どうしたの」
『特に用事があるわけじゃない』
それは、前日らしい答えだった。
『ただ……このまま何も言わずに終わるの、変かなって』
変。
その言葉に、喉が詰まる。
「変じゃないよ」
嘘ではない。
でも、本当でもない。
『そうだよね』
一瞬、沈黙が落ちる。
電話越しでも、彼が言葉を探しているのがわかった。
『ありがとう』
また、その言葉。
私は、目を閉じる。
「……うん」
それだけで、声が震えそうだった。
『ちゃんと、助かった』
役割として。
契約相手として。
『君じゃなかったら、無理だったと思う』
それは、褒め言葉のはずなのに、胸が苦しい。
「……それは」
言いかけて、止まる。
好きだと言ってしまいそうだった。
それだけは、言えない。
『無理しなくていい』
彼が言う。
『もう、終わるから』
終わる。
前日だから、言える言葉。
「……うん」
短く返す。
『じゃあ』
彼が、そう言った。
『明日』
それだけで、十分だった。
「……明日」
通話が切れる。
静寂が、戻ってくる。
スマホを胸の上に置いて、しばらく動けなかった。
前日でも、最後の夜でも、告白はなかった。
それが、私たちの選んだ終わり方だ。
それなのに、涙が一筋だけこぼれた。
声を出さずに泣けたのは、この関係に慣れてしまったからだと思う。
明日になれば、契約は終わる。
恋人のふりをする必要も、線を引く必要も、抑える理由もなくなる。
その代わり。
もう、彼を好きだと言えない理由だけが残る。




