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12.踏み込まれる距離

線を引いたあと、彼は距離を保っていた。

連絡は短く、用件だけ。

会うのも必要なときだけ。

それが、少しずつ崩れ始めたのは、本当に些細なことからだった。


「ノート、貸してほしい」

そんな理由で、久しぶりに会うことになった。

学内のカフェで、向かい合って座る。

テーブルの上には、彼のノートと私のノート。

距離は、ちゃんと取っているはずなのに、視線が合うだけで落ち着かない。

「助かった」

彼はそう言って、ノートを閉じた。

「この講義、苦手で」

「意外」

「意外?」

「ちゃんとしてそうなのに」

言ってから、しまったと思った。

家庭での彼の姿が、頭をよぎったから。


彼は少しだけ笑った。

「ちゃんとしてるふりは得意」

その言葉に、胸がきゅっとする。

「……無理しなくていいのに」

思わず、口に出た。

彼は一瞬、驚いたような顔をした。

「無理してるように見えた?」

「……ううん」

本当は見えていた。

でも、それ以上は言えなかった。


沈黙が落ちる。

コーヒーの湯気が、二人の間を漂う。

「このあと、時間ある?」

彼が、自然な調子で聞いた。

「少しなら」

そう答えた自分に、内心でため息をつく。

歩きながら、彼はぽつりと言った。

「最近、君と話すと落ち着く」

心臓が、跳ねる。

「それって……」

「契約的に、じゃなくて」

彼は、前を見たまま続けた。

「素の感じでいられるっていうか」

逃げ場のない言い方だった。

私は、何も言えなかった。


公園のベンチに座る。

風が冷たくて、木の葉が揺れている。

「変なこと言ってたら、ごめん」

彼はそう言ったけれど、表情は穏やかだった。

「でも、言わない方が不自然な気がして」


不自然。

それは、私がずっと避けてきた言葉だった。

「……契約、覚えてる?」

やっと、それだけ聞いた。

「覚えてるよ」

即答だった。

「だから、これは違反じゃない」

違反じゃない、という言い方が逆に苦しい。

「安心するって言ってるだけ」

彼は、そう整理しているらしい。

私は、うなずくことしかできなかった。


夕方になって、別れる時間が近づく。

「また、必要なときに」

彼はそう言って、手を振った。

その仕草が、あまりにも自然で、胸が痛んだ。


必要なとき。

それは、契約の範囲内の言葉だ。

なのに、私は知ってしまっている。

彼の言う「安心」は、もう、ただの条件じゃない。

帰り道、一人で歩きながら、私は思う。


彼は、踏み込んできたつもりはない。

ただ、自然に距離を縮めただけ。

それが、一番残酷だった。


本気は禁止。

でも、避け続けるには、もう近すぎる。

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