11.自覚してしまったこと
その日は、特に何もなかった。
講義を受けて、レポートの締切を確認して、帰りにスーパーに寄った。
いつも通りの一日。
なのに、頭のどこかがずっと落ち着かなかった。
理由はわかっている。
実家からの帰り道、彼が言った言葉が、まだ胸の奥に残っていた。
――君を選んだことは、後悔してない。
告白ではない。
期待してはいけない。
何度も、そう言い聞かせた。
連絡は最低限。
線を引いたはずだった。
それなのに、画面が光る気配を無意識に待ってしまっている自分に気づいて、ため息が出た。
「だめだ」
声に出して言ってみる。
好きにならない。
期待しない。
終わったら、元に戻る。
自分で並べたルールなのに、今はひどく遠い。
夕飯を作る気にもなれず、冷蔵庫から水を出して飲む。
味がしない。
ふと、彼の家で見た光景が浮かぶ。
控えめな態度。
必要以上に語らない声。
それでも、私の方を見るときだけ、少し柔らかくなる表情。
私は、彼の「家庭」を知ってしまった。
重たい期待があること。
一人で帰るのが面倒だと言った理由。
それを知った瞬間から、私はもう、ただの契約相手ではいられなくなっている。
「……同情?」
自分に問いかける。
かわいそうだから?
放っておけないから?
違う。
そんな言葉で片づけられるなら、もっと楽だった。
私は、彼と一緒にいる時間が好きだった。
楽だった。
静かで、無理がなくて、何も演じなくていい時間。
それが、答えだった。
気づいてしまった瞬間、胸の奥が、ゆっくりと冷えていく。
これは、一番してはいけない感情だ。
好きにならない、という約束を私はもう守れていない。
スマホが震えた。
一瞬、心臓が跳ねる。
画面を見ると、彼からだった。
「今日、大丈夫?」
それだけ。
理由も用件もない。
私は、すぐに返事ができなかった。
大丈夫という言葉が、何を意味するのか考えてしまったから。
契約的に?
感情的に?
しばらくして短く返す。
「大丈夫だよ」
嘘だった。
送信してから、胸が締めつけられる。
本当は、大丈夫じゃない。
でも、それを言う権利はない。
少しして、返信が来る。
「そっか」
それだけだった。
画面を閉じて、ベッドに倒れ込む。
彼は、何も求めていない。
私は、何も言われていない。
なのに、もう戻れないところまで来てしまった気がした。
契約は続いている。
期限も、条件も変わっていない。
変わったのは、私だけだ。
天井を見つめながら、ゆっくりと息を吐く。
好きだと認めてしまった以上、この関係は、もう安全ではない。
本気は禁止。
それが、この契約の一番大事な条項だった。
そして私は、それを破ってしまった。




