10.彼の理由
線を引いたはずなのに、完全に切れるわけじゃなかった。
必要な連絡だけ。
最低限のやり取り。
そう決めたはずなのに、彼からのメッセージは三日後に届いた。
「今週末、実家に顔出すんだけど」
それだけで、続きを察してしまう自分が嫌だった。
「一人で?」
少し間があって、返事が来る。
「一人だと、面倒で」
その言葉が、やけに正直に聞こえた。
私は、しばらく画面を見つめてから、短く返した。
「……いつ?」
結局、そうなる。
約束の日、駅で会った彼は、いつもより少し疲れた顔をしていた。
「久しぶりだね」
「……うん」
線を引いたあとで会うのは、初めてだった。
距離を意識して並んで歩く。
手は触れない。肩も近づけない。
それが、逆にぎこちなかった。
「実家、近いの?」
「電車で一時間くらい」
「よく帰る?」
何気なく聞いたつもりだった。
「……あんまり」
彼は、少しだけ間を置いて答えた。
それ以上、突っ込むつもりはなかったのに、彼の方から続けた。
「用がないと、帰らない」
その言葉が、私たちの関係と重なる。
「家族、仲悪いとか?」
「悪いってほどじゃない」
彼は、窓の外を見ながら言った。
「ただ、期待されるのが苦手で」
期待。
その単語に、胸が少しだけ痛んだ。
「昔から、ちゃんとしなさいって言われてた」
淡々とした口調だった。
「成績とか、進路とか。恋人も、当然いる前提で」
「……それで?」
「いないと、説明が面倒」
彼は、そう言って、少しだけ笑った。
その笑いが、どこか寂しそうで、私は何も言えなくなる。
「だから、君に頼んだ」
はっきりと言われる。
「楽そうだったし、割り切れそうだった」
正直すぎて、返す言葉が見つからなかった。
「……今も?」
思わず聞いてしまった。
彼は、すぐには答えなかった。
電車が揺れて、少しだけ沈黙が伸びる。
「今は」
やっと、言葉が落ちる。
「楽じゃない」
その一言で、胸の奥がざわついた。
「割り切れない?」
「たぶん」
彼は、私の方を見ずに言った。
「だから、線を引いたのは正しかったと思ってる」
正しい。
その言葉が、慰めにも、言い訳にも聞こえた。
実家に着くと、彼の空気が少し変わった。
背筋が伸びて、声が低くなる。
玄関で迎えた母親は、私を見るなり安心したように笑った。
「来てくれてありがとう」
それは、私に向けた言葉なのか、彼に向けたものなのか、わからなかった。
家の中では、私は“彼の恋人”として振る舞う。
質問に答え、相槌を打ち、笑う。
彼は、必要以上に多くを語らなかった。
それが、家庭での彼の立ち位置なのだと、なんとなく察する。
帰り道、駅までの短い距離を歩きながら、彼がぽつりと言った。
「さっきの話」
「うん」
「家庭が理由で契約したの、後悔してない」
その言葉に、私は少しだけ驚いた。
「じゃあ……」
「でも」
彼は、歩みを止める。
「君を選んだことは、後悔してない」
それは、告白じゃない。
でも、契約の範囲をほんの少しだけ越えていた。
私は何も言えなかった。
線を引いたはずなのに。
理由を知ってしまったせいで、その線が、前よりも細くなった気がした。
電車に乗り込む直前、彼が言う。
「今日は、ありがとう」
「……どういたしまして」
別れ際、いつもより長く目が合った。
それだけで、胸が苦しくなる。
家庭が理由で始まった関係。
その重さを私は今、初めて共有してしまった。
それが、契約違反なのかどうか。
もう、わからなかった。




