5.王女の騎士(2)
そろそろ夜のとばりが下りてくる頃だ。
さすがに空腹が身に染みる。
「お茶でも召し上がりませんか」
カークの提案に、王女はぱっと顔を輝かせ、そしてすぐにしゅんと肩を落とした。
「ありがたいのですけれど、残念なことにわたくし、お金をもっていませんの。持って出た品物も全部奪われてしまって」
「まさか追剥にでもあったんですか」
王女がこくんと頷く。
「詳しい話、聞かせていただけますか?でもそのまえに、腹ごしらえしましょう」
階下の食堂から買ってきた焼きたての菓子を、王女は物珍しそうに眺める。
「これは、何というものですの?」
「あー、パンケーキ?こちらのバターとジャムをたっぷり載せて召し上がるのがおすすめです」
ほかほかのパンケーキの上に置かれたバターがとろりと溶ける。
カークは器用に切り分けて、王女の前の皿に盛った。
「おいしそうですわ」
胸の前で手を合わせて、王女は感激したように頬を染めた。
素直で、世間知らずで、純情な王女様。
「こちらのお茶もどうぞ。庶民の茶ですので、お口に合わないかもしれませんが」
木製のカップに茶を注ぐ。
「ピンク色ですのね」
「そこらじゅうに生えてる香草を使った茶です。蒸らしたり、発酵させたりする手間なんてかけてないので深みはないですけど、それなりに飲めるとは思います」
カークの説明に、王女が大きな目をさらに見開く。
透き通った紫色はアメジストのようだ。豊かなピンクブロンドと相俟って、まるでおとぎ話に出てくる妖精のようだ、とカークは思う。
「おいしい」
一口飲んで、彼女は顔を綻ばせた。
「それで――、王女様がなぜこの場に居ることになったのか、経緯をお聞きしてもよろしいですか」
カークも一口茶を含む。
「カクベルさんは、賢者の梟のようですのね」
危うく茶を噴き出しそうになって、カークはごほごほとせき込む。
「え?それはまた――光栄です?」
「ふふ、お若く見えても博識ですし、その真っ黒な瞳は全てのものを見透かしてしまいそうです。わたくしの知っている召使や侍女たちとはかけ離れている感じがしますの」
「それは、いたみいります」
カークは恐縮して見せた。
この王女、おっとりのんびりしている夢見る少女に見えて、もしかしたらなかなか侮れないかもしれない。
「不思議ですわ。森の賢者様だと思えば、なんとなくお話ししたくなりますもの。――わたくし、今度の新月の夜に、公爵様との婚約が発表されることになっておりましたの」
両手でカップを包み、王女は遠い目になって語り始めた。
ファルブラム王国には二大公爵と称される名家がある。
昔から王家はこの二家の権力バランスに心を砕いていた。
どちらか片方に力が寄らぬように。
それが良い形で公平性と健全な王政につながっていたといえる。
現王家には王子が二人、王女が一人いる。
第二王子は昨年セルブレスト公爵の娘を妻に迎えた。
二家のもう一方、メルエル公爵家は五年前に当主が亡くなり、年若い息子があとを継いでいた。
国王は、その現当主にファルミナを降嫁させることで、両家の力の均衡を保とうと考えたのだ。
国王の肝いりである。王女にもメルエル公爵にも否やはなかった。
「わたくし、ほんとうは嫌だったのです」
手の中のカップの木目を指でたどりながら、王女は呟く。
「でも、わたくしの気持ちなど、婚姻においてさしたる障りにはなりませんもの。抗っても意味はなくて」
だが、婚約の公式な発表の日が近づくにつれて、いてもたってもいられなくなった。
「ですから、わたくし一計を案じましたの」
庭園の手入れを手伝う下働きを仲間に引き入れ、庭の散歩をするふりをしながら、携行品を持ち出して隠し、着々と準備を整えた。
王宮の庭園は広大で死角が多く、常に付き従っている護衛をまくのも容易だったという。
「それで、母のお気に入りの貿易商が来たときに、こっそり窓から外にでて」
庭伝いに通用門横の馬車止めまで行き、貿易商の幌馬車に乗り込んだ、らしい。
荷馬車はファルブラム西側の国境沿いにある砦に寄り、そこからこの宿場を経由して南下する。
「半日馬車に隠れていたので体も限界で、砦で商人のいなくなった隙に馬車を下り」
街道をひたすら歩いて宿場町に行こうとした。
その途中で追剥にあい、持っていた金品はすべてまきあげられてしまったという。
「よくご無事でしたね」
「運がよかったのですわ。これに気づかれませんでしたの」
ファルミアが髪をかき上げ耳朶の裏側を見せる。
そこにごく小さな水晶の粒をつけていた。一種のピアスといえるだろうか。表に見せることのない、護身の魔具だ。
身に着けている者の魔力との親和性が高ければ高いほど効力も大きい。
物理攻撃はほぼ完ぺきに防ぐというから、おおかた野盗には手も足もでなかったことだろう。
「でも、非力なので荷を取り戻すことはできず…とにかく国境を越えようとただひたすら歩いておりましたの」
「なるほど」
「ところで、王女殿下がそれほどまで婚約を嫌がったのはなぜなんです」
カークが頷くと同時に戸口から声が飛んだ。
「スケディ!?いつ帰ってきてたんですか?」
話に夢中になって、カークもファルミアも、スケディライダスたちが戻ってきたことに気づけなかったらしい。
カークが立ち上がって二人を迎える。
「おかえりなさいませ、ミトお嬢様。ずいぶん息が上がってますね」
「ええ、急いで帰ってきたのよ――あのね、あなた」
カートに適当な返事を送り、それどころではないというように、鬼気迫る顔でミトはファルミアに歩き寄った。
「貴女を探してる人がいたの。その人に私たち殺されそうになったのよ!」
真剣な顔で迫るミトを、ファルミアはおっとりと見つめた。
「あらまあ――もうここまでたどり着いたんですの。追手がかかることは想定内でしたけれど、あなた方を巻き込むつもりはありませんでした。ごめんなさい。お詫びしますわ」
「お詫びなんていらない。あなた、そんなのんびりしてていいの?彼必死であなたを探してたわよ」
ファルミアの表情がかすかに動く。
「彼――?その方は一人でしたの?警邏隊ではなく?」
それにはスケディライダスが答えた。
「王宮警護の近衛騎士でしたよ。バフコートの右胸に星とユリの記章がありました」
星とユリ。近衛兵の中でも王女警護に特化した、王女専属の近衛隊――プリンセスガードの紋章だった。
ファルミアが目を見開く。
初めて見せる、驚愕の表情だった。
「それは…どんな方でしたか。髪の色は?目は?」
「黒髪だった。目ははしばみ色で――身長はスケディよりちょっと低いくらい。いい声のたいそうな美丈夫だったわよ」
ミトの説明を聞くうちに、ファルミアの双眸が潤み始めた。
「その方は、名乗りましたか?」
瞳から零れ落ち、頬を伝う涙をぬぐいもせずに、王女は尋ねる。
「ううん」
首を横に振るミト。
ファルミアは、とうとう顔を手で覆ってしまった。
細い肩が震えている。
スケディライダスは戸口に立ったまま静かに口を開いた。
「――あなたを追てってきた近衛騎士を、あなたはご存じなのですね」
顔を覆ったままファルミアは頷く。
「おそらく…私の良く知る人物です」
「その人物が、あなたの婚約者なのですか」
「違います。彼は私の兄の乳兄弟で――幼いころ、兄妹同然に育った間柄なのです」
「ふむ。だんだんわかってきました」
カークが難しい顔で眉間に人差し指を当てる。
「その乳兄弟とやらを、姫君はお慕いなさっているのですね。だから、どうしても他の男性と婚約するのが嫌だった」
ファルミアが両手から顔を起こす。
「賢者の梟様――!あなたには何もかもわかってしまうのですね」
「フクロウ?なんだそれ」
スケディライダスが怪訝な顔になるのをカークは手で制し、続ける。
「国境を越えようとしたのは、彼が追ってきて一緒に逃げてくれることに賭けた、ということでしょうか?」
「――いいえ…彼が…マクシマムがもしわたくしに追いついたら、あの人はわたしを王宮に連れ戻すでしょう。必ず。誠実で、まっすぐで、職務に忠実な人ですもの」
ファルミアの目には諦観が満ちている。
なのに彼女は笑った。
自嘲の笑みとも、脳裏に浮かぶ面影に思わずこぼれた笑みともとれる、複雑な表情で。
「わたくしの気持ちは片恋なのです。わたくしはただ、自分のこの気持ちに嘘がつけなかった。つきたくなかったのです。他の方のもとに嫁ぐことは、どうしてもできないと思ったのですわ」
「…わかる。なんだかわかるわ、その気持ち」
ミトはファルミアの手をとって両手で握った。
「心に想う人以外の隣で生きるなんて、辛すぎる」
「ミアさん…」
「そんな悠長なこと言ってる暇はないんですよ、お嬢。わかってるでしょう」
スケディライダスがミトの前に割り込む形でファルミアと対面する。
「あなたは逃げているといった。だから私は、そのマクシマムとかいう近衛騎士に、あなたはアレシア街道を南下していったと嘘をつきました。彼は今必死で街道を南下しているでしょう。だが早晩途中で騙されたことに気づくはずだ。賢そうな人だった、もうとっくに気づいているかもしれない。時間的な猶予は少ない。だから、今決めてください。あなたは、どうなさりたいのですか」
王女の選択によってこちらも対応を決める必要がある。
近衛騎士に会うというなら、事を荒立てないためにファルミア王女単独で引き合わせた方がいいだろう。そのときはここで袂を分かつことになる。
だがもしこのまま国外に逃亡することを望むなら、袖振り合うも他生の縁だ。ミトお嬢様もできるだけ助けたいと思うだろう。
「どうしたいか…」
ぽつりと復唱する王女に、スケディライダスは言った。
「ええ。マクシマムと会って、王宮にお帰りになるか。このまま逃亡を続けて国外に向かうか。選べる未来はその二択しかない」