2.やっかいごと
いよいよ旅に出発です。
災厄の森のすぐ外側には、草木の一本も生えぬ大乾燥地帯が広がっていた。
砂に覆われたなだらかな丘陵には一本だけ道がある。グレゴリの王が敷設した、防砂の魔法がかけられた街道だ。それは砂漠に隣接する小国ファルブラムまで続いていた。
晴れ渡った青空。といえば聞こえはいいが、要はカンカン照りである。
三人の影だけが落ちる道をひたすら歩く。
「人間にはなかなか出会わないわね」
白い日の光で塗りつぶされたような道の先に目をやって、ミトは日傘をくるりと回す。
「最寄りの宿場まであと三里はありますからね」
見渡す限り砂ばかりだ。そりゃ人なんかいるわけがない。と、カークは思うが、とりあえず親切に教えてさしあげる。何しろ大魔王の一人娘様だ。
カークはスケディライダスのように王女付きの側仕えというわけではなく、王直属の御庭番である。生来の能力の高さと汎用性の高さを気に入られて、この一人娘様がご幼少のころからよく面倒を見させられた。だから、わりと気安い。
「サンリ?」
ミトがカークの説明に首をかしげた。
「徒歩だと到着するのに三刻程度かかる距離ですよ」
「さっ、三刻!?まだそんなに歩くの?この炎天下を!?」
「優雅に日傘をお差しになって、荷物のひとつも持たないお嬢が何言ってんですか」
カークの胸中を代弁するごとく、スケディライダスがうんざりした顔で突っ込む。
しかし今回ばかりはミトには切り札があった。
「私の設定は裕福な商家のご令嬢だもの。荷物持たないのなんてあたりまえじゃない」
もっともな話である。
珍しく言葉に詰まった従者を見て、お姫様は嬉しそうに口元に手をやり、おほほほほと笑ってみせた。実に素晴らしい悪代官仕草だ。
「ご令嬢なので体も弱いのよねえ。抱き上げて行ってくださってもよろしいのよ?わたくしの家庭教師兼護衛さま」
調子に乗って追い打ちをかけたら、スケディライダスがブチ切れてしまった。
運んでいた姫君の荷物を路上に放り出すと、つかつかと歩み寄って日傘を取り上げ、それまで道にぽいっと放り投げる。そしていきなりミトを抱き上げた。
「な、なに!?」
「お嬢様をお運びさせていただきますよ。ご命令なんでね!」
「わ、私の荷物は」
「どちらも一気にってのは無理ですから」
彼が背に荷をからっているため、必然的にお姫様抱っこされることになったミトは、思わぬ事態に足をばたばたさせて抗った。
「ひええええっ。ご、ごめんて。わたしが悪かったっ」
「おい、暴れんなって、落ちるぞ」
スケディライダスの腕に力がこもり、ミトをぎゅっと抱き寄せる。
「ひいっ」
絞め殺されるような声を上げて必死に抵抗するうちに、足の先が石畳に触れた。
スケディライダスがゆっくりと屈んでミトを下ろしてくれたのだ。
「ったく。これにこりて今後はお調子に乗らんでくださいよ」
青年従者が立ち上がり、乱れてしまった襟を直していると、二人を見捨てて先に進んでいたカークが慌ててもどってきた。
何やら叫んでいる。
ただならぬ様子に、スケディライダスはとっさにミトを背に庇う。
「もどれ!やばい!魔物だ」
カークの声が聞こえた瞬間、突然轟音とともに砂柱が舞い立った。
でかい。
姿を現したのは、人間の十倍はありそうな図体の虫の魔物だった。管のようなずんぐりした丸い胴体の先に何重にも歯の生えた口がついている。その奥は黒々とした穴だ。そこへ砂ごと餌を吸い込んでいく。
「お嬢はここにいてください。動かないように」
スケディライダスは荷を下ろし、ミトの傍らに置いた。
「大丈夫なの?」
ミトの声にスケディライダスは振り返り、ニッと笑う。
「大丈夫じゃないと思ったら、封印の解呪を唱えてください、お嬢様」
頼みましたよ。
声が意識に届いたときにはもう、彼の姿は目の前から消えていた。
カークはすでに魔物に対峙している。
人に擬態しているとはいえ、カークの身体能力は人を遥かに凌ぐ。すさまじい跳躍力で虫の上に乗ると、力任せに口の端を殴りつける。そこがこの魔物の感覚器官だとわかっているのだ。
だが、いつもと違って、どれだけ力を入れて殴っても魔物に攻撃が効かない。
スケディライダスはレイピアを抜き放ち、胴体に切りつけるが、それも弾かれてしまう。
「くそっ」
剣の柄を握り直し、今度は分厚い皮膚を剣先で突く。
ぐおおおおおおおおお。
貫くことはできなかったが衝撃は与えられたらしい。魔物は大きく咆哮すると、体を反転させて逃げ出した。
「カーク!」
スケディライダスが叫ぶ。未だ虫の頭に乗ったままのカークは片手を挙げて声に応え、魔物の感覚器官である小さな穴に、力任せに腕を突っ込んだ。
ぐぎゃあああああ。悲鳴に近い鳴き声を上げて、虫がのたうつ。振り回されながらもカークは腕を抜かず、さらに中にめり込ませる。尺取り虫のように胴体を波打たせ、魔物が速度を上げた。
走ってそのあとを追うスケディライダスは、くっと唇をかんだ。
魔物の向かうその先に、人影が見える。
裾の長いドレス。長い髪。
自分に向かってくる魔物に驚いたように目を見開き、硬直している。
なんでこんなところに女性がいるんだ。
カークもそれに気づいたようだ、魔物の穴を掴んだまま頭を引っ張りあげ、なんとか勢いを殺そうとするが、効かない。
スケディライダスは速度を上げ、魔物を追い抜いて女性に手を伸ばす。
その二人の上に魔物の影が落ち、頭上に魔物が覆いかぶさってくる。
間に合わない!
その瞬間。
「スケさんカクさんっ、やっておしまいなさいっ」
ミトの声が響き渡り、虫の魔物が爆散した。
その場にとどまるように言われていたミトだが、じっとしてはおれなかった。
追いかけたその先で、スケディライダスが魔物に飲み込まれそうになるのを見た瞬間、とっさに解放の呪を叫んでいた。
「…つまり、スケさんカクさんがそれなわけですね」
カークとミトは二人で放り出された荷物を回収し、現場に残って女性を介抱しているはずのスケディライダスのもとへ急ぐ。
「私が決めたんじゃないわよ。もらった紙にそう書いてあったんだからね」
「わかってますよ」
まったく、あの王様の考えることといったら、とちくるっているとしか言いようがない。もう少し気の利いた呪文らしい呪文にできなかったのだろうか。
襲われた女性は気を失ったままだった。スケディライダスは彼女を寝かせ、こびりついた魔物の体液を布で丁寧に拭ってあげていた。
よくみれば、ミトとさして変わらない年頃の美しい娘だった。
身なりは悪くない。むしろかなり上等である。装飾は少なめだったが縫製も丁寧で生地も上質だ。おそらく貴族の息女なのだろう。それがこんな砂漠の街道に、供も連れずに一人で歩いていた。かなりの訳ありに違いない。
厄介ごとに関わるのは御免こうむりたい一行だったが、無視して素通りすればもっと厄介なことになりかねない。
結局ミトが自分の荷物を背負い、空いた手でスケディライダスが少女を抱え、宿場を目指すことになった。
歩きながら、ミトはちらちらとスケディライダスをうかがう。
一瞬ではあれ自分が収まっていた場所に見ず知らずの女の子がいるのを見ると、何やら胸の奥がもやっとする。
「重たくないの、スケディ」
隣を歩きながら尋ねると、従者はいつものようににやりと笑って「お嬢よりは軽いですかね」と軽口を返してきたので、ミトは彼の脇腹にパンチを一発おみまいしてやった。
ミトの喉の渇きと足の痛さが限界に達したころ、ようやく国境の宿場町にたどり着いた。
大通りにはいくつもの宿屋の看板が下がっている。カークはそれを物色しつつ、結局薄暗い路地の奥の、いかにも胡散臭げな小さな宿屋を選んだ。
「なんか臭くない?」
足で踏むたびにぎしぎしと鳴る古ぼけた階段をのぼりながらミトがぼやく。
「お嬢様、お言葉が過ぎますわ」
ここはすでに人間の領分だ。カークは完全に小間使いになりきっている。
安宿だけに客層はあまりよろしくなさそうだが、盛況な階下の酒場と違って部屋は空いていた。続きの二部屋をとり、奥に貴族令嬢を寝せる。
「この人には俺がつきますよ。カーク…ベルとミアお嬢様は手前の部屋で休んでてください」
令嬢をそっとベッドに下ろしながらスケディライダスが言う。
「そうだね、じゃあそのお嬢さんの目が覚めたら呼んで」
何の疑問もさし挟まず踵を返そうとしたカークの腕を、ミトががしっと引っ掴んだ。
「待てい!」
「何ですか?お嬢様」
小間使いになりきったカークは、かわいらしくミトを見る。
だが彼の主人はそんなかわいさには惑わされずゴリラのような顔つきで
「令嬢、女子」
寝台に眠る令嬢をびしっと指さした。目が座っている。
次に
「こいつ、男」
とスケディライダス、
「お前、今女」
エプロン付きのワンピース姿のカークを指さし、
「わたし、女」
最後に自分を指さした。
「?何がおっしゃりたいんです?」
きゅるんとした愛らしいカークの顔にミトが吠える。
「貴族の令嬢と男を二人きりにするとかありえんのじゃ!お前が看病するんじゃカクベル!!」
掴んだままの腕をぐいっとひっぱり、ベッドわきの椅子にカークを座らせる。
「男のお前はこっちじゃ馬鹿者――!」
そしてスケディライダスの襟首をひっつかみ隣の部屋に放り込んだ。
入り口に仁王立ちになってぜいぜいと肩で息をするミトを、二人の従者はなぜか感極まったようなまなざしで見つめる。
「何よ」
「お嬢って、まともなところあったんですね」
「お嬢が常識的なことを言うなんて…奇跡」
心底感心したようにつぶやく二人。
ミトはフルフルとこぶしを震わせ、拳を握った。
「お前ら…お前らぜってえ許さーーーんっ」
怒りに満ちた雄叫びは、宿屋中に響き渡ったのだった。
「ん…」
ベッドから小さな声が上がる。ミトの怒声で、令嬢が目を覚ましたらしい。
「大丈夫ですか?」
ベッドのそばに座らされたカークが覗き込み声をかけると、令嬢は薄く目を開け、視線をさまよわせた。
「ここ…は…?」
かぼそく、消え入りそうな声で令嬢がつぶやく。
「国境の宿場町――ケローナですよ。あなた、砂漠で魔物に襲われたんです」
カークの答えに彼女は二三度めを瞬かせ、「ケローナ…さばく…」と口の中で復唱する。それからはっとしたように、ガバっと身を起こした。
「ここはまだ国境なのですね。わたくし…国を出られなかったのですね…」