孤影
いつかの価値観の相違は刺激的でそれに惹かれていったのだと思う。
でもいつからだろうかその差が怖くて「違うまま」じゃ居られないと差を埋め込むようになったのは。
認め合うことを正しさのぶつけ合いに変えてしまったのはきっと私たち自身だった。
あの図書館の階段に、今も君は座っている気がする。
午後三時。西陽が差し始めたガラス窓から、埃がふわりと浮かぶのが見える。週末だというのに館内は静かで、時おり誰かがページをめくる音と、子どもの笑い声が遠くで交差する。
あの頃、君とここによく来ていた。
本なんてろくに読まないくせに、「この空気が落ち着くんだよね」と、君は嬉しそうに言っていたっけ。ぼくはその横顔が好きだった。何かを好きだと感じる君を、好きだったんだ。
最初は、楽しかった。
君は朝が苦手で、ぼくは朝に強かった。君は辛いものが好きで、ぼくは辛いものが苦手で甘党だった。好きな音楽も違えば、笑うタイミングさえずれていた。
でも、それが面白かった。
「朝だよーもうそろそろ起きよっか?」
「朝からテンション高いね疲れないのー?」
「こっちの味も食べてみてよ!美味しいよ」
「そっちこそ、辛いのちょっとくらい我慢して食べてよ!辛い美味さがわかるって!」
そんな風に、互いの「違い」を埋め合って、寄り添っていくのが恋なんだと、そう思っていた。
それが、いつからだろう。
「なんで起きれないの?」
「なんでそんなに朝から元気なの」
「甘いのばっかじゃなくて違うの食べようよ」
「いや、そっちだってそうだろ」
同じ言葉でも、言い方ひとつで凶器に変わる。
知らないうちに、好きだったはずの違いが棘になって、角の尖った言葉で傷つけ合うようになった。
思い出せば、最後に一緒に見たアニメも、シーズン2で止まっていた。
「続き観ようよ」と言ったぼくに、「また今度ね」と、君はスマホから目を離さなかった。
その“また”は、結局、来なかった。
そして、ある日ふたりは別れた。
「お互いのために」と言いながら、その言葉はどこか冷たかった。
ぼくは泣かなかったし、君も泣かなかった。けれど、胸の奥で何かがぽつんと崩れる音だけがしていた。最初の1週間は開放感すらあった。静かな時間、喧嘩のない日常。その落ち着きは、どこか物足りなかった。
ふと、コンビニで見かけたトマトサンドを思わず手に取ってレジに持っていったけど、気づいて棚になおした。もう君は横に居ない。
テレビのリモコンが置きっぱなしで、君がよく寝転がっていた場所だけが、やけに広く見える。
見たくもないのに、録画リストの中にまだ残っていた。君と途中まで見たアニメ。シーズン2で止まったまま、何度も「続きをみますか?」と聞いてくる。
見れるわけも消せるわけもなかった。
それを見返す勇気もなくて、ただ「見るかもしれないから」という言い訳を、ずっと抱えていた。
君は、最初から特別だった。
違うところばかりの君が、鮮やかに見えた。
朝に弱くて、寝起きの声がすこし低くて。
辛いラーメンを食べながら、額に汗をにじませる姿がなんだかかわいくて。
言葉の選び方も、空気の読み方も、どこか自分とは違っていたけれど、それが刺激で、だから惹かれたんだと思う。
でもその“違い”は、だんだんと、苛立ちになっていった。君が遅刻するたびに、「またかよ」って言いたくなった。辛いものをすすめられるたびに、「俺、言ったよな」って冷めた声を出してしまった。
君が楽しそうに話しているのに、心のどこかで「今はその話じゃない」と思ってしまう瞬間があった。
恋って、こんな風に冷たくなっていくんだと、初めて知った。
けれど、別れたあとの夜。
君の名前を口に出しただけで、涙がこぼれた。
「なんで、うまくやれなかったんだろう」
「どうして、もっと優しくできなかったんだろう」
「……どうして、笑って送り出したんだろう」
本当は君の後ろ姿を、引き止めたかった。
でもそれが「格好悪いこと」のように思えて、できなかった。
君は泣かなかった。
強がってたのか、本当にもう冷めていたのか、それは分からない。でも、そのまっすぐな目だけが、ずっと頭に焼きついていた。
「久しぶり。少し話せないかな。」
LINEを送った夜は、なかなか眠れなかった。
「今さら何言ってんだよ」って、きっと思われる。
「自分勝手すぎるだろ」って、そんな言葉が返ってくるかもしれない。
それでも、何か言わずにはいられなかった。
“やり直そう”なんて、言えなかった。
ただ、“まだ君のことを忘れられていない”と、伝えたかった。
でも、返事は来なかった。
既読の文字だけが、スマホの画面に残って、
その沈黙がすべてを語っていた。
数日後、共通の友達から君が新しい街に引っ越したと聞いた。仕事を変えてもう次の1歩を踏み出していると。図書館に久しぶりに行ったのは、それから少し経った春の日だった。
懐かしさよりも、最初に感じたのは、居心地の悪さだった。
2人で何度も通ったあの静かな空間が、今はただの「空き席」だった。
君が好きだった場所。
陽の差す窓辺。
座ってみたけれど、何を開いても、何も頭に入らなかった。
風が本のページを捲っても、僕の気持ちは閉じたまま。
遅すぎるんだ、全部。
君のいない春が来て、僕はようやく気づいた。
「違うこと」がしんどくなったんじゃない。
「違うまま」いようとする覚悟がなかっただけだ。
君を変えようとすることで、自分の未熟さをごまかしてた。
歩み寄るって、合わせることじゃなくて、認めて受け入れてそれすら愛し合うことなんだって。
君がくれたもの、君がくれようとしていたもの。
全部、僕は受け取るのが遅すぎた。
春の風が、また部屋のカーテンを揺らす。
君の好きだった柔軟剤の匂いは、もうどこにもない。
きっともう君は、新しい朝に目覚めて、知らない誰かと笑っているんだろう。
君の未来に、僕の居場所はない。
でもそれでも――
「ありがとう」って言えるようになるまで、
僕は、君と見たあのアニメの続きを、
まだ、再生できずにいる。
あのとき、もっとちゃんと、
君の“違い”を大切にできていたら。
あのとき、好きだったものを、
一緒に“続ける”努力ができていたら。
そんな「もしも」は、
静かな春を終わらせるように
ただ、ゆっくりと過ぎていくだけだった。
駅のホームに、淡い陽が差し込んでいた。
春の匂い。少しだけ湿った風が、髪の隙間を抜けていく。
新しい街での生活には、まだ慣れない。
電車の乗り換え、夜のコンビニの明るさ、どこか薄い味のパン。
全部に「まだ知らない」がついてまわって、だけどその「知らなさ」が、時々やさしかった。
だって、君を思い出さなくて済むから。
別れてからも、何度かLINEは来た。
でも返事はできなかった。
あのとき、自分から別れを切り出したくせに、私はずっと迷っていた。
好きだった。今でもきっと、そうだと思う。
でも、あの頃の私は、好きと同じくらい「しんどかった」。
違いを面白がる余裕が、どこかで消えてしまっていた。
君の家に行った日のことを、今でも覚えてる。
靴を脱ぎっぱなしにしていたら、君が眉をひそめた。
「いつも言ってるだろ、ちゃんと揃えてって。」
そう言って並べ直した後の沈黙が、いやに重かった。
いつの間に、こういうことが“正解か間違いか”になってしまったんだろう。
恋人って、先生でも親でもないのに。
「私だって、君の言葉にずっと合わせてたよ」
そう言いたかった。でも、その言葉を飲み込んだ。
言えばまた喧嘩になる。
君の目が冷たくなるのが、こわかった。
……好きなのに、こわくなる。
好きなのに、言いたいことが言えない。
そのくせに、少し連絡が来ないだけで寂しくなる。
自分の気持ちがわからなかった。
“好き”と“疲れる”が同居するなんて、誰も教えてくれなかったから。
ある夜、ひとりでアニメの続きを再生した。
シーズン2の途中から。
君と止めたあのシーンのすぐ先。
キャラクターが、相手に言う。
「君のこと、全部はわからない。でも、それでも好きでいたいって思った」
涙が出た。
遅すぎる。
たったその一言が、あの頃の私には言えなかった。
「全部わかってもらいたい」
「分かってくれないなら、いらない」
そんなふうに思ってた。
“違い”が怖くて、境界線ばかり引いていた。
ある日、図書館の近くを通った。
今もある、あの建物。
君と一緒に通った階段。
春の午後、ぼんやりと陽を浴びながら他愛もない話をした日々。
私はあのとき、ただ話を聞いてほしかっただけだった。
お互いに“正しさ”なんて持ち出さなければ、
きっと、もっと笑いあえたのに。
君からの最後のLINEには、
ただ「久しぶり。少し話せないかな」とだけあった。
“話す”って、どんな顔で?
どんな声で?
あの頃の私たちは、どこにいるの?
既読をつけたあと、ずっと画面を見つめてた。
でも、指は動かなかった。
時間は経っていた。
君はもう、あの頃の君じゃないかもしれない。
私も、あの頃の私じゃない。
……でも、
それでも返事をすべきだったと、今でも思うことがある。ただ“ごめん”と、“ありがとう”を言うだけでも、よかったのかもしれない。
春の終わり、電車の窓に映った自分が、少しだけ大人になった気がした。
きっと、誰かと出会っても、もう同じ間違いはしないと思う。
“違う”ことを、怖がらずに済む気がする。
でもね。
それが「君」じゃないのが、
やっぱり、少しだけ寂しいんだ。