6悠の回想
悠が教室へ足を踏み入れると、突然、ドアの横から何者かが突進してきた。悠は防衛本能が働いて、反射的に解放された能力を行使してしまう。即座に分厚い水の壁ができて、その人物は全身水浸しになり、悲鳴を上げる。
「うわーっ‼︎ なんだこれっ、すげぇぇぇ‼︎」
思わぬ好意的な言葉に、悠は耳を疑う。が、それどころではない。慌ててパン、と手を叩いて、水浸しになっていた人物や床や壁の水を一瞬で消し去る。
「ご、ごめん‼︎」
悠が瞬時に膝を床につけて頭を下げ、懇切丁寧に謝罪した。いわゆる土下座である。昨日、せっかくクラスメートの数人から友好的な眼差しをもらったのに、こんなことで台無しにしてしまうなんてあってはならない。悠は祈る思いで額を木目の床に押し付けた。すると、
「いや、いやいや、俺の方こそごめん! 俺が急に驚かしたから! あ、頭あげて!」
と、頭上で必死に手をぶんぶんと振る音が聞こえた。頭を上げるように促され、悠は恐る恐る顔を上げ、立ち上がる。
「え…許してくれるの?」
「許すも何も、俺が悪いんやから! 俺の方こそごめんな!」
悠が張り詰めた表情で尋ねると、彼――八尾愛之助は謝罪し、深々と頭を下げた。先ほどからの言葉からわかるように、愛之助は関西出身である。しかしあまり濃い地域で生まれ育ったわけではないらしく、時々方言が混じるくらいだ。
「う、ううん…。僕は全然大丈夫…。ていうか…何しようとしてたの?」
「いや…ドアの横で水氣のこと待ち伏せしてたんだ。驚かそうと思ってさ。」
その回答に、悠はより脳内が疑問で埋め尽くされる。なぜ急に、自分なんかにちょっかいを出そうとしてきたのだろう。
「あ…そうなんだ…。な、なんで僕を?」
愛之助はいつも軽快なトークやボケで周囲を笑わせ、楽しませる。存在するだけでクラスが一気に明るくなる愛之助は、当然の如くクラス、いや学年全体の人気者である。彼の周りから人が絶えることがない。わざわざ、恐怖の対象である悠に話しかけなくても、彼には話す友達が大勢いるはずだ。悠がそう思って愛之助に尋ねると、彼はきょとんとした顔つきになった。
「なんでって…仲良くなりたいからに決まってるやん。俺、水氣が能力者だってわかって、お前のこと怖くなった。けど、昨日わかったんだ。お前が能力者であろうと、水氣は水氣なんだって。そう思ったんやけど…俺、水氣のことあんま知らないな、って実感してさ。それでまずは、水氣のこと知りたいと思って。その…仲良くしてくれる?」
愛之助の発言に、悠は目頭が熱くなった。まさか能力者だとバレた後で、悠の内面を知ろうとしてくれる人物が現れるなんて、予想だにしなかった。
「もちろん。ありがとう…。」
悠がしみじみしながらお礼を言うと、愛之助はニッと歯を見せて笑った。悠はその飾らない笑顔を眩しく思い、つられて笑顔を浮かべた。その後、悠は自席へ荷物を置くと、愛之助が悠の手前の席から椅子を反対向きに置いて、悠の目の前に腰掛けた。
「そんじゃ、まずは友情の握手を。」
愛之助がそう言って肘をつきながら右手を差し出してきたので、悠は一切の疑いを持たずに右手を重ねた。すると、愛之助は引っかかったー、と意地悪い笑みを浮かべ、腕を左に倒そうとする。
「うわっ。」
悠は彼の意図がわかり、慌てて自分も左に手を倒そうと踏ん張る。しかし、すぐさま愛之助の方に倒れてしまう。
「いえい、俺の勝ちー。」
「あーっ、ずるいよっ。」
愛之助の誇らしげな顔つきに、悠は頬を膨らませてそう返すも、対等に腕相撲をしても彼に勝つことはできないだろう。
「わりぃわりぃ。」
愛之助が両手を合わせて謝る。悠は、彼が他の友達にするように悠を扱ってくれて、心がポカポカと温かかった。普通の人ならば、能力持ちの悠に近寄ることを避けるし、触れることなんてもってのほかだ。
「いや…ありがとう。」
「ん? 何が?」
愛之助はきょとんと首を傾げた。
「愛ちゃーん、おはよー。」
その時、教室のドアがガラガラと音を立てて開くと同時に、愛之助を呼ぶ声が響いた。
「あら、三浦くんじゃなぁい。御機嫌よう〜。」
すると、愛之助はぶりっ子ポーズをして、裏声を出して挨拶を返す。その言動に、クラス内がわっと湧き、あちこちでくすくすと笑い声が漏れる。愛之助はその稀有な名前を揶揄われることも多く、愛ちゃん、という愛称を授けられた。これは小学校の頃から変わらない。女子のようなあだ名をつけられ、嫌がる人もいるだろうが、彼の場合は違う。愛ちゃん、と呼ばれる度、女子のふりをして周囲を笑わせる。愛称で呼ばれない場合も、普段は名字で呼び合うことの多い男子でも、親しみを込めて愛之助、と下の名前で呼ぶ。
(八尾くんってほんと、愛されてるよなぁ。)
悠は心中でそう呟いてから、いや違うな、と思った。愛之助は愛を振りまいたからこそ、周囲からも返してもらえるのだ。悠は人知れず相合を崩していた。
「愛之助、なんで水氣といんの。」
三浦くんが愛之助の元まで歩いてくると、彼の驚くような視線が悠に向いた。悠はビクッと肩を震わせる。
「俺、水氣のベストフレンドやから。」
愛之助が冗談めかしてそう言うと、三浦くんは瞠目しながら悠を見つめた。しかし数秒後、三浦くんはふっと息を吐いて口角をあげた。
「そ。じゃ、俺にとってもダチだな。ちょっと待ってろ、俺、今日新作ゲーム持ってきたんだ。ほら、愛之助には前に話したやつ。お前らにも見せてやるよ。」
「やった! あれやりたかったんだ!」
「いや、見せるだけ。やらせない。」
「のおぉぉぉぉ。」
頭を抱える愛之助のオーバーな反応に、悠は耐えきれず、思わず笑いをこぼした。愛之助はそんな悠をちらと見ると、ふっと口元を緩める。その後、三浦くんの持ってきたゲーム機をプレイさせてもらい、気づくと周囲には他の男子も集まっていた。普段は愛之助を中心にして形成される、悠は側から見ていた光景。大勢に囲まれて慣れないことこの上ないが何故か温かく、心地が良かった。初めは悠に警戒心を抱いてギスギスしていた男子らも、次第に打ち解けてきた。とてもではないが信じられなかった。能力バレした後で、こんなに人に囲まれているなんて。これも全て、愛之助が悠に話しかけてくれたおかげだ。
「水氣、お前勉強ばっかりしてるくせに、なんでゲーム上手いんだよ。」
「え、これ上手いの?」
「煽ってんのか、おい。少なくとも愛ちゃんよりは上手だな。」
「ひどいわ! 先ほど、わたくしが水氣様に教えて差し上げたのですわよ⁉︎」
「愛ちゃんキャラ崩壊してる〜。ていうか、さっき教えたばっかなの? 水氣、習得早すぎじゃね? やっぱ頭いいやつは違うのかなぁ。」
「すなわち、わたくしの教え方が上手だったということですわね?」
「いや、なんでだよ。水氣の能力の話だよ。」
「そういや水氣の〝能力〟ってすげぇよな。またなんか出してくれよ。」
「え?」
背後で悠のプレイを見ていた男子にそうお願いされ、悠は思わず振り返ってしまう。その間に、ヒーローが峡谷へと落ちていったゲーム機からは、ゲームオーバーの音楽が流れる。
「あー、うん。いいよ。何にしようかな。」
人の目で見て楽しめるもの。水文字は綺麗だが、悠の自尊心的に、何度も出したので他のものが良い。悠は少し悩んだ挙句、いいアイディアを思いついた。我ながら名案である。悠はそれを実行するため、カーテンを開け、窓を閉めた。そして能力を行使する。
「おー!」
「すごい!」
「綺麗!」
何をするのかと好奇に満ちた目で見ていた彼らは、目の前の光景に歓喜した。気づくと、悠らを眺めていた女子たちもキラキラとした眼差しでそれを見ている。悠が作り出したのは、窓に美しい波を描きながら静かに水が流れる清涼感のある水演出、いわゆるアクアウォールである。
「水氣、お前やっぱすごいな。」
能力を見せるようにお願いしてきた男子に素直に褒められ、悠はくすぐったくなる。
「だよなー。しかも水氣がいれば、砂漠で水が足りなくなった時に生きながらえることができるんや!」
「いや、どういう状況だよ。ていうか水だけじゃだめだろ。食べないとすぐ死ぬだろ。」
そこへ愛之助が口を挟んでボケて、先ほどの男子が突っ込む。
「まぁ一理あるけどね。人間は水と睡眠さえ摂っておけば、食料がなくても、二から三週間は生きていけるから。でも水だけダイエットする時は三日で抑えるべき。それ以降は飢餓状態になるからね。」
悠は突っ込んだ男子の発言の間違いが気になり、補足説明をする。すると、彼らは目を合わせた後、ブワッと吹いた。
「え、何?」
悠が何か間違ったことをしただろうかと不安になると、愛之助が首を振った。
「いや、急に豆知識披露してくるからびっくりした。人間が何日水だけで生活できるかは知ってても水氣なら違和感ないけど、水無しダイエットって。そんなこと知ってんだよ。」
「そうそう。それになんで真面目に訂正してんだよ。お前、案外面白いやつだな〜。」
彼らがおかしそうに笑っているので、悠はひだまりのように温かく、嬉しくなった。
その後の休み時間でも、いつものように友達に囲まれる愛之助は、悠に話を振ってきたり話の中に入れてくれたりした。クラスメートもそんな悠を温かく迎え入れてくれた。悠に対する恐怖心が消えていない人も当然いる。悠が輪に入ると、すっと抜けていく人も数人いたし、元より悠を避ける人もいる。それでもクラスの三分の一は悠を受け入れてくれた。昨日、思い切って水文字で心中の想いを伝えたからだろうか。それならば、昨日は勇気が要たが、本当にやって良かった。




