誕生
或る日、泉のささやかな清流が染みた、小瀧の脇の地に、小さな子葉が二葉、顔を覗かせた。それは、一日中頻りに雨(この雨は下界には降ることのない、恵みの雨であった)が降り、山がその純白のヴェールに包まれていた日のことである。子葉は、美しい曲線を描き、天上に向かって、しなやかな青々しい帆を張った。辺りに立ち込める柔らかなヴェールは、初々しいそれに何かーー未だ誰にも知られていない何かが、包まれているような気分を濃厚にしていた。然し、もちろんそれは未だ誰にも知られないので、子葉はポツンと唯そこに存在しているように、見えるだけであった。日々の雨水は地に染み、豊かな地を奥深くまで潤していた。
又或る日、湿気に満ちた森は、白みがかった靄に包まれていた。森の上には、ぼやけた曇天の空が広がっていた。森の中では、苔の緑がぼんやりと白んで透けている。靄は、血管のように地面を浮き出た樹々の根や、不規則に散らばり、連なった巌の起伏を、滑らかに伝っていった。健気な子葉は、靄の移動に任せてゆらゆらと揺れていた。靄の往来は繰り返され、森は何度も焦れったく表面を撫でられた。
然し、天上を覆う雲はいち早くこの場を過ぎ去り、靄は、太陽が出てくると、綿のように繊細にその光を淡く纏い、樹々に生えた苔を絡め取るように、何処かへ抜けていった。
靄が去った後、こまごまとした葉の重なりから零れた日光は、澄み渡った辺りの空気に、鮮やかな色彩を与えた。意味もなさそうな現象が突然に始まり、突然に終わる。不思議なことが、この場所ではごく自然に受け入れられていた。
太陽が沈んでも、星々が夜空一帯を飾り、月は昨日よりも微かに膨らんで現れた。月光の照らす地に、子葉の主根は力強く刺さり、側根はその周囲に広がった。柔らかな土に蓄えられた養分は、どんどんと吸い上げられ、飛び出た葉の付け根からは、茎が伸びていった。暫くもすると、四方にしなやかな葉をつけ始めた。次第に葉脈も浮かび出て、表面を巡り、縁の部分も細かく、鋭利に尖り始めた。その造形は何処か不規則なようで、思慮深く計算されたような、奇妙なもので、広すぎる程の空間が目の前にあるにも関わらず、その成長には何処か優美な謙虚さがあったのである。
その脇を下る泉の流れは、せせらぎの音色を葉に聴かせた。流れの内から飛び出す水の音、外から現れる水の音、心地よく弾ける水の音、空気をさする水の音ーー流れゆくような、満たされるような、不思議な音が葉の脈に打たれていた。しぶきが飛び散るように、それらは面白く地面を弾んだ。そして、何処か見えない場所へ行き、溶け合った。然し、それらの背後の(水中をひたすらに駆け巡る)聴こえない音が、僅かに重々しくもがいていた。その音すらも、確かに脈を伝っていたのである。
そして、葉は一つの小さな蕾を付けた。それは根元から萼に覆われていた。樹葉の間から注ぐ、太陽の光やそれによる泉の流れの反射、それが擦れる際に現れる泡ーーそんな光景を思わせるような色をつけ始めたそれは、深い緑に包まれた世界では次第に、それだけが輪郭の縁を描かれたような、異彩を放つようになった。だがその異彩は、周囲とのごく自然な調和を、いとも簡単に果たしていた。
泉の水は、先日の雨のせいか、荘厳な瀧のように、しぶきを上げながら、快活に下へと流れていた。流れの上に現れる、白波も威勢よく弧を描き、そのまま下流に飛び込む音や、泡の弾ける音が、静まった森の中を華やかにした。その水は、山に濾過された、やはり澱みの一つ無い、清らかなものであった。又澄み渡る空の元、樹々は伸びでもするかのように、微風に葉を震わせた。蕾は、木漏れ日と影との明暗の絨毯に包まれ、又自らも明暗の点滅を纏った。そして日に日に、その点滅も広がりを見せていった。
然し、華々しい日々の中、その広がりはある日を境にして、ピタりと止んでしまった。太陽や月が蕾を照らしても、微動だにしない。それは、そこに小さくとも、周りの樹々のように大きな、一本の柱が立っているように思われる程、立派な様子であった。