①
昨日、俺は失恋した。
厳しい夏の暑さを耐え凌ぎながら、俺はコンクリートの道を歩いていた。八月にもなるとその気温は殺人的で、テレビでは盛んに熱中症対策について語っていた。暑い、確かに暑い。去年までの俺なら、こんな暑い日に外出することなんてあり得なかっただろう。家に篭って詰将棋でもしていたに違いない。というかしていた。
では、そんな俺がなぜ外出して入るのかというと、答えは単純なものだった。これから俺は、彼女に会いに行くのだ。
彼女——綾瀬理衣と出会ったのは、高校に入ってすぐのことだった。一目惚れだった。高校生になって初の登校日、緊張に緊張を重ねて教室のドアを開けた俺は、一瞬にして別の緊張を強いられるようになった。理衣が視界に入ったのである。女子としてはやや背が高く、俺との身長差はほとんどない。黒のアンダーリムのメガネの奥には、少し垂れ気味だが大きな目が座っている。また、髪型はショートボブで、サラサラの前髪を赤いピンで留めていた。口は小さく、唇のほのかな赤色が目を引いた。決して派手な姿ではなかった。むしろ周りの女子に比べたら地味な方だったと思う。だが俺にとって、彼女は荒れ地に咲いた一輪の花だった。その姿を見た途端、これ以上早くなるはずのなかった心臓の鼓動が三割り増しになったのをよく覚えている。
初恋だった。それまでの人生で、恋愛関係の出来事など一つも経験したことがなかった。バレンタインの義理チョコですらもらった記憶がない。非モテと言われてもしょうがない経歴だった。そんな俺だ。初めて覚える感情に、どうしたものか頭を抱えたのも仕方のないことだったと思う。
それでも、すぐに行動に移れた自分を褒めてやりたい。委員会のメンバーを決めるときのことだった。理衣が図書委員に手を挙げたのだ。それを見て、反射的に俺も手を挙げていた。他に立候補者はおらず、図書委員はあっさり俺と理衣に決まった。理衣に近づけるチャンスを得たことは大きかった。これがなかったら、俺は未だに理衣に声をかける機会を得られていなかったかもしれない。
同じ図書委員になって、俺と理衣との距離は縮まった。彼女は見た目通り、穏やかで優しい女性だった。読書が好きで、俺が尋ねればオススメの本を教えてくれた。少し変わった趣味があることも、この時知った。
「私、男子とこんなにおしゃべりしたの、初めてだよ。」
そう言った彼女もまんざらではなさそうだった。
一ヶ月ほど経ったとき、俺は思い切って彼女をデートに誘った。
「一緒に遊びに行かないか?」
ただこれだけの言葉を言うのが、あんなに大変だなんて思いもしなかった。口はカラカラになるし、目もシバシバした。洗面台で顔を洗ってうがいもし、それでもなかなか踏ん切りがつかなかった。目の前にやって来ておきながら話を切り出さない俺のことを、理衣も不審に思っただろう。小首を傾げるその仕草も、たまらなく可愛らしかった。
告白したのは、このデートの終わりのことだった。
「笑った顔が大好きです。俺と付き合ってください。」
綺麗な夕焼け空の下で、理衣は頷いてくれた。涙ぐんだ笑顔を見て、俺は彼女を幸せにする、なんて生意気なことを決意したのであった。
そして今日、俺は理衣の家に向かっていたのだった。夏休みも中盤に差し掛かり、少しずつ新学期へ意識も向いてきた。だからこそ、この時間を大切にしたい。俺は可能な限り、理衣と一緒にいるようにしていた。
汗だくになりながら、俺は理衣の家に到着した。理衣の家は、この辺りでも特に立派な一軒家であった。俺の家(普通の家だ)よりもかなり大きい。屋根は赤く、壁は真っ白。まるで出来のいいドールハウスを人間用に大きくしたかのようだった。初めて来た時は、それはもう緊張した。もしかして、理衣は所謂『お嬢様』なのか? 俺なんかがこんな家に入っていいのか? チャイムを押すのを躊躇ったものである。
何度か来る機会に恵まれたため、さすがに今はこの家にも慣れた。俺は躊躇いなくチャイムを押した。
「はい、どなたですか?」
インターホンから女性の声が流れる。理衣の声ではない。理衣の母親だろう。
「森下です。」
「ああ、研二くんね。いらっしゃい。」
ドアが開き、中からエプロンをつけた女性が出て来た。やはり、理衣の母親だった。
「理衣に会いに来てくれたのね。さあ、どうぞ。」
理衣とは違って、母親の方はなかなかに強引な女性だった。確かに俺は理衣に会いに来たのだが、俺がそれを言う前に俺を家に引っ張り込もうとする。仮に別の用件だったとしても、俺はこの家に引き込まれていただろう。
「お邪魔します。」
俺は靴を脱ぎ、玄関に揃えて置いた。