⑥
廊下に飛び出し、左に向かって走る。右は行き止まりだった。階段があるとすればこっちだ。
「森下さあん。ダメですよお。」
後ろから医者の声が聞こえる。追いかけてくるのか? とにかく急がなければ。逃げなければ、何をされるかわからない!
両手両足が千切れるんじゃないか、自分ではそう思うほどの勢いで、俺は駆けていた。しかし、体に力が入りすぎているのか、うまく前に進めない。まるで悪夢の中にいるように、鈍く感じられて仕方がない。さっきと同じ、いや、それ以上に体が重い。
廊下の電灯は点滅していた。光と暗闇が交互に目に飛び込んでくる。この先に廊下があるはずなのに、うまく見えない。
「うわっ!」
右足が左足に引っかかった。俺は顔面から床に激突した。すぐに手をつき立ち上がろうとする。その時、廊下にどろっとした液体が落ちた。これは、鼻血か? 真っ赤なはずのそれが、今はモノクロにしか見えない。電灯のせいか? それとも、俺がおかしくなっているのか?
「森下さあん。」
「く、来るな!」
医者がこちらに歩いてくる。決して早足ではないにも関わらず、妙に早い。俺は無理やり体を起こすと、再び走り出そうとした。急がないと、追いつかれる。しかし、血を見たからだろうか、体から力が抜けていく。俺の動きは今や老人のそれと変わらなくなっていた。よろめきながら、手すりを握りしめながら、無様に歩くしかない。
クソ、どうしてだ。何でこんなにとろいんだ。早く、早く逃げないといけないのに。足が震えて動かない。
気づけば、再び床に這いつくばっていた。四つ足になったことで僅かに進めるようになったが、その速度は芋虫程度でしかない。
それでも、止まるわけにはいかない。逃げなきゃ。頭が、人格が、弄られる。もう何も信じられない。とにかく、ここを離れるんだ。
さっきのトイレを越えて、ようやく階段が見えてきた。あれを降りれば、逃げ切れるかもしれない。俺は階段の手すりを掴むと、もう一度立ち上がろうとした。
その時、誰かが俺の肩に手を置いた。
そんな、嘘だ。あいつは歩いていたんだぞ。いくら俺が鈍くたって、まだ追いつかれないはずなのに。
全身から汗が噴き出す。口をうまく閉じられず、歯がカチカチと鳴っている。
俺は震えながら、後ろを振り向いた。そこにあったのは、今まで見たことがないほどの笑顔を携えた、あの医者だった。
「あ、あああ。」
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。
俺は医者の手を振り払おうと体を捻った。それがいけなかった。足がもつれた。体のバランスが崩れた。俺は階段を踏み外し、真っ逆さまに落ちていった。
目を瞑っていてもわかるほど、眩しい光が俺に当てられている。俺はゆっくりと目を開いた。そこにあったのは、大きな電灯と、青い手術着を着た医者たちの姿だった。
「おや、目が覚めましたかあ。」
俺は何か言おうとしたが、口が動かない。それどころか、全身に全く力が入らない。
「麻酔をかけたんですがねえ。起きてしまうとは。」
医者の表情はマスクで見えないが、きっとあの笑顔を浮かべているのだろう。逃げる俺を追いかけていた時の、本気で楽しそうなあの笑みを。
「まあいいでしょう。痛みのある『手術』ではありませんし。始めましょう。」
そんな、まさか。本当に『手術』を始める気なのか?
「ではあ、装置を。」
「はい。」
看護師がそれを医者に渡した。大きな機械とケーブルで繋がれた半球型のそれには、平面の部分に小さな針がいくつも付いていた。
「これを頭に刺しますよお。そして装置のスイッチを入れれば、自動的に『手術』が始まります。」
医者がそれを俺の頭に近づける。やめろ。来るな。やめてくれ。俺は、俺はあ!
しかし抵抗はできなかった。身動きの取れない俺の頭に、それは差し込まれた。
「では、スタートですよお。」
医者はそういうと、機械のスイッチを入れた。
その瞬間から、見えている世界が反転した。そして暗闇に放り込まれていく。俺の意識も感覚も、全てが世界から離れていく——。
目が覚めた時、最初に視界に入ったのは、見覚えのない天井だった。元は綺麗な白色だったのだろうが、今は所々茶色いシミが広がっており見る影も無い。まるで、汚水で雨漏りしたかのようだ。
「目が覚めたようですねえ、森下さあん。」
声の方に首を曲げると、そこに一人の男がいた。白髪の混じった斑らな頭髪に、ぎょろりと剥かれた大きな目。口元はいやらしく歪み、開くと金歯だらけなのがよくわかる。座っているので確かなことは言えないが、背はかなり小柄なようだ。指を絡ませながらニタニタと笑う姿は、どこか頭足類の生き物を思い起こさせる。
「気分はどうですかあ?」
どうかと聞かれれば、あまりよくはなかった。長く眠っていたから(確証はないが)なのか、体には妙な浮遊感が残っており、どうにも心許ない。その上、頭の中には靄がかかっているようで、考えがまとまらない。俺には何か退っ引きならない問題があったような気がするのに、である。
「ここは、どこ……?」
俺の口から出た言葉は、それだけだった。それ以上続けようにも、乾ききった口内が引きつってしまって、音を言葉に変換することができなかったのだ。
「ここは、病院ですよお。」
男は甲高い声でそう言った。なぜか肩をすくめている。
病院。確かに俺はベッドの上にいるようだし、この男は白衣を着ている。よく見れば、男の後ろには看護師のような女もいる。男の言葉が嘘であるようにも思えない。
だがしかし、その回答はもう一つの問題をより鮮明にさせた。そう、「どうして俺はここにいるのか」である。
「なんで……?」
ようやく発することのできた言葉を聞いて、男のニヤケ面がさらにひどくなった。何がそんなにおかしいというのか。こっちは真剣に尋ねているというのに。
男はねっとりとした気持ちの悪い声で、その言葉を俺に言った。
「『手術』は成功ですねえ。」
了