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 病室の外は、長い廊下になっていた。電灯はついているのだが、数が少ない上にチカチカと点滅している。誰も歩いていないこともあり、まるで廃病院のように見える。俺はまず、左右を確認した。右側は行き止まりのようだ。ならば左側は……。あった。トイレのマークだ。あそこに行けば頭部の確認が取れる。俺はゆっくりと歩き始めた。手すりを握り、のろのろと進んでいく。その緩慢な動きに反して、心は急いて仕方がない。早くあそこに行きたいのに、この異常事態から解放されたいのに。

 一歩進むたびに、不安が俺の心に蔓延していく。その不安を跳ね返すために、心の中で何度も呟く。俺は森下研二俺は森下研二俺は森下研二……。だが、そうすればするほど、心臓を冷たい鎖で縛られたかのように体の動きが鈍っていった。

 それなのに、俺は心の中で自分の名前を唱えることがやめられなくなっていた。逆効果だと頭でわかっていても、わかっているはずなのにどうすることもできない。

 俺は森下研二俺は森下研二俺は森下研二俺は森下研二……。

 「オレハモリシタケンジオレハモリシタケンジオレハモリシタケンジ……。」

 気づけば実際に呟いていた。

 僅かに残った理性が警報を鳴らす。これでは病室であったあの男と変わらない。俺の頭がおかしいという証明になってしまう。俺は急いで先に進もうとする。ついてこない体がもどかしい。

 その時、天井に付けられていた電灯が突然ショートし、廊下全体が暗くなった。まるで、影に包み込まれたかのようだった。この影は、何を知っているんだろう。俺が本物の森下研二でないと、言いに来たのだろうか。そして俺は、この暗闇とともに永遠に消えてしまうのだろうか。

 そんなことあるはずない!

 俺はそう叫ぼうとした。できる限り大きく口を開き、胸の中にある全ての空気を吐き出そうとした。しかし、出てきたのは甲高い掠れた音だけだった。再び闇が、俺を包み込もうと近寄ってくる。

 手すりに掴まっていられなくなった。上体ががくんと垂れ下がり、床に両手を着く。息が苦しい。トイレの入り口が、遠い。このままでは、辿り着けない……。

 いや、まだだ。まだ終わってはいない。ちょっと鏡を覗きに来ただけじゃないか……。

 四つん這いになった俺は、這いながら辛うじて前に進んだ。体は言うことを聞かない。泳げない人間が海で足掻くのと同じように、俺は地上で暴れていた。何だっていい。前にさえ進んでいれば、もう構わない。とにかく、これ以上ここにいてはいけない。心が、歪んでいく……。

 遂に、トイレの入り口に到着した。上部に小さく男性マークが描かれている。このマークはどうして黒いのだろう。トイレの男性マークといえば、青いのがお決まりのはずなのに。

 俺は這ったままトイレに入った。ここも電灯は点滅している。入ってすぐに、洗面台が現れる。やっと辿り着いた。後は、鏡を見るだけだ。俺は台の縁に手をかけた。

 ぴとん、ぴとんと、水の落ちる音が洗面台から聞こえる。どうやら蛇口が締まっていないらしい。暗いこの場所では、その音だけが異様に大きく響き渡っているように感じる。一定のリズムで落ちる水滴。それに対し、俺の鼓動はどんどん早くなっていく。もしも、頭に『手術』の跡があったら……。もしも、鏡に映ったのが俺の知る森下研二ではなかったら……。

 「くそったれ!」

 俺は思い切って体を持ち上げた。震える足を無理やり伸ばし、強引に立ち上がる。すぐに、視界に鏡が飛び込んできた。その中には、見たことのない縫い合わされた顔が——

 そんなものは、どこにもなかった。

 鏡に映っていたのは、見慣れた森下研二の顔だった。そのどこにも、『手術』の跡はない。できる限り、側頭部や後頭部も確認して見たが、やはり気になる点は存在しなかった。

 「は、ははは。」

 気の抜けた俺は、膝から崩れ落ちた。よかった。ここにいるのは間違いなく森下研二だ。そして、『手術』はやはり存在しなかったのだ。

 俺はふらふらと立ち上がると、病室に向かって歩き始めた。あんなに遠かったはずの病室が、今では目と鼻の先にしか見えない。電灯も、なぜか今は普通に点いているようだ。もはやここは、ただの病院の廊下にすぎない。

 少しずつ、体の方も調子を戻しつつある。全身に暖かい血液が巡っている。足の震えも止まった。全く、俺は何を恐れていたのだろうか。冷静になって考えてみれば、人格を書き換えるような恐ろしい『手術』なんて行われているはずがないのだ。俺の抱いていた不安は、杞憂でしかなかったのだ。

 そうなると、残る問題はただ一つ。どうして俺はこんなところにいるか、という点だ。あの気色悪い医者がもう一度来たら、何が何でも聞き出してやる。

 そうこうしているうちに、俺は病室に到着した。中に入ると、誰もいない。あの頭のおかしい男は、また外出しているらしい。よかった。あんな男ともう一度絡むなんて考えただけでも鳥肌が立つ。いないに越したことはない。

 ほっと一息つき、俺はベッドに腰掛けた。さて、これからのことを考えなければならない。こんなところ、さっさとおさらばするに限る。

 入院しているのだとすれば、退院すればいいだけの話だ。俺が健康であることを証明すれば、ここから出してくれるはず。しかしそれは、ここがまともな病院だった場合だ。突然捕まえてきて、「あなたに『手術』を施しました」なんて悪質な冗談を寄越すこの病院がまともだとは到底思えない。そもそも本当に病院として営業しているのかすら怪しいところだ。となると、無理やりにでも脱出するしかないか。しかし、どうやって。ここがどこかもわからないのに、脱出するなんてできるだろうか。せめてスマホが手元にあれば、ここがどこか調べたり、家族に連絡を取ったりできるのだが。

 俺は立ち上がり、窓のそばに寄ってみた。さっきはベッドに寝ていたため曇天しか見えなかったが、ここまで来ればそれ以外のものも見えてくる。どうやら、この病院は山の縁に立っているらしい。緑色に生い茂った木々は生命力に満ちている。加えてミンミンと虫の鳴き声のような音が聞こえた。周りに他の建物は見えない。あの狂った男が言っていた通り、ここは相当な田舎のようだ。これは困った。これでは病院を脱出しても行き場がない。逃げようがないではないか。

 俺はベッドに戻って考え始めた。脱出のために必要なものはその経路だ。とにかく人のいるところまで逃げたい。そうすれば、通報してもらうことも可能だろう。そのためには、まずこの病院から出なければ。窓から見た限り、ここは少なくとも三階以上だった。まずは階段を探して、一階まで降りなければ。

 この病院は、どう考えても異常だ。きっと俺がここにいるのも、まともな理由からではない。


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