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 目が覚めた時、最初に視界に入ったのは、見覚えのない天井だった。元は綺麗な白色だったのだろうが、今は所々茶色いシミが広がっており見る影も無い。まるで、汚水で雨漏りしたかのようだ。

 「目が覚めたようですねえ、森下さあん。」

 声の方に首を曲げると、そこに一人の男がいた。白髪の混じった斑らの頭髪に、ぎょろりと剥かれた大きな目。口元はいやらしく歪み、開くと金歯だらけなのがよくわかる。座っているので確かなことは言えないが、背はかなり小柄なようだ。指を蠢かしながらニタニタと笑う姿は、どこか多足類の虫を思い起こさせる。

 「気分はどうですかあ?」

 どうかと聞かれれば、あまりよくはなかった。長く眠っていたから(確証はないが)なのか、体には妙な浮遊感が残っており、どうにも心許ない。その上、頭の中には靄がかかっているようで、考えがまとまらない。俺には気分なんかより差し迫った問題があるにも関わらず、である。

 「ここは、どこ……?」

 俺の口から出た言葉は、それだけだった。それ以上続けようにも、乾ききった口内が引きつってしまって、音を言葉に変換することができなかったのだ。

 「ここは、病院ですよお。」

 男は甲高い声でそう言った。大仰に両手を広げている。

 病院。確かに俺はベッドの上にいるようだし、この男は白衣を着ている。よく見れば、男の後ろには看護師のような女もいる。男の言葉が嘘であるようにも思えない。

 だがしかし、その回答はもう一つの問題をより鮮明にさせた。そう、「どうして俺はここにいるのか」である。

 「なんで……?」

 ようやく発することのできた言葉を聞いて、男のニヤケ面がさらにひどくなった。何がそんなにおかしいというのか。こっちは真剣に尋ねているというのに。

 男はねっとりとした気持ちの悪い声で、その言葉を俺に言った。

 「『手術』は成功ですねえ。」

 ……今、なんて言った? 『手術』? メスで体を切り開いたりする、あの?

 「一体……?」

 何のことだ、と続けたかったのだが、俺の口がそれを許してはくれなかった。言葉の代わりに出てきたのは、大きな咳だった。

 「おやおや、大丈夫ですかあ?」

 言葉とは裏腹に、男の顔には妙な喜びが混じっていた。

 「『手術』明けですからねえ。無理をしてはいけませんよお。」

 そう言うと、男はゆらりと立ち上がった。顔面に張り付いた笑い顔はそのままに、俺の顔を覗き込む。

 「しばらくは安静にしてくださいねえ。」

 それどころではない。俺には聞かなければならないことがいくつもある。俺は何とか男に声をかけようとしたが、それは叶わなかった。そして男たちはそんな俺を気にも止めず、そのまま部屋を去っていった。

 俺は一人部屋に残された。いや、実際に一人なのかどうかはよくわからないが、少なくとも人の気配は感じられない。俺は首を右に曲げた。そこには使われていないベッドがあった。今度は左に曲げる。こちらにもベッドがあった。右との違いは使われている形跡があること、そして壁に窓が付いていることだった。窓の外には幽々たる曇天が広がっている。確かにここは病室で、ということは、ここは病院らしい。

 どうなっているんだ。俺はなぜ病院に? それに、『手術』って何だ。俺は何をされたんだ? 俺の頭にいくつもの疑問符が浮かぶ。一体何があったんだ?

 落ち着いて考えてみよう。冷静になれ、研二!

 現在俺は病院にいる。これは間違いないようだ。薄汚れていてあまり快適そうには見えないが、とにかくここは病院なのだろう。だとすれば、俺の身に何らかの問題が発生していたはず。それが病気なのか怪我なのかはわからない。だが、『手術』するほどなのだから、それはちょっとやそっとの問題ではなかったのだろう。

 では、その問題とは何か。俺は自分の記憶を辿り始めた。しかし……。

 「問題なんて、何も……。」

 俺の記憶にある限り、大きな怪我もしていないし大病もしていない。俺は一般的な範囲で健康であり、特筆すべきことはなかったはずなのだ。

 どういうことなんだ? 俺の記憶が飛んでいるのか?

 俺の中にある最後の記憶は、昨日のものだった。昨日は春休みの最終日で、俺は一日中緊張しっぱなしだった。次の日から高校生になるのだ。緊張くらいする。クラスに馴染めるのか、高校の勉強についていけるのか、不安の種を挙げればキリがなかった。とはいえ、健康状態と言う意味では、何の変化も無い一日だったはずだ。

 そして今、俺は病院のベッドに寝ている。その間に何があったのか、その記憶は一切ない。もしかしたら、本当に記憶が飛んでいるのかもしれない。

 それはそれで大問題なのだが、今考えるべき最大の問題はそれではなかった。もちろん、『手術』についてである。あの男(恐らくは医者なのだろう)は「『手術』は成功」と言っていた。しかし、俺にはその『手術』の記憶もない。もちろん手術中は麻酔をかけるだろうから、その瞬間の記憶がないのは構わない。問題は、その『手術』の概要すら知らないということだ。一般的には、手術に限らず治療を施す際には患者に内容の説明をするのが、医療機関のルールであるはず。つまり、俺の『手術』に関しても何らかの説明があったはずなのだ。しかし、そんな記憶は一切ない。俺は一体、何の『手術』を受けたんだ?

 思わず頭を右手で掻き毟る。頭が混乱して考えがまとまらない。忌々しい!

 俺はふと自分の右手を見つめた。そうだ、体! 自分の体を動かしてみよう。そうすれば、自分の状況が少しは分かるかもしれない。右手は問題なさそうだから、まずは左手から。ゆっくりと顔の前まで持ち上げる。特に問題はない。次は右足、そして左足をと、俺は全身の動作を確認した。どの部位も、多少重たく感じるものの問題なく動く。筋肉が減ったようでもない。ということは、怪我ではないのか。もしも怪我をして『手術』を受けたのなら、こうも簡単に動かすことはできないだろう。

 呼吸にも問題はない。声も出ないわけではない。やはり、『手術』は外傷によるものではないのか。

 俺は思い切って、体を起こしてみた。体にかかっていた布団を跳ね除け、俺の上体は無事に起き上がった。ベッドがギシギシと悲鳴をあげる。相当ボロいベッドらしい。

 気だるさはまだ残っているが、それも大したものではない。痛みもない。俺は確信した。どこも怪我はしていない。

 ふと体に目をやると、俺は病人らしい薄緑色のガウンのような服を着ていた。俺は閃いた。もしかしたら、この下に『手術』の跡があるかもしれない。例えば、縫合された跡。そう言ったものが見つかれば、現状を探るヒントになるかもしれない。俺はガウンを脱ぎ始めた。周りには誰もいない。下半身は布団で隠れているし、上半身裸になっても問題はないだろう。

 緊張からか、掌がじっとりと汗ばんでいる。そこに何かがあったとしたら、それは記憶にない『手術』が実際に行われたという証明になる。体を弄られた証拠になる。そんなことになれば、俺は……。

 俺はぎゅっと目を瞑った。自然と息が荒くなる。見たくない。受け入れられる自信がない。

 しかし、見ないことには始まらないのも間違いない。上半身裸の状態で、長々といる訳にもいかない。俺は恐る恐る目を開き、自分の腹を覗いてみた。

 何の跡もない。

 いつも通りの少し瘦せぎすな腹がそこにはあった。縫合どころか、何の変化もない。慎重に布団をめくり、下半身も確認してみたが、やはり何もなかった。今度は体を捻って背中側を覘きこむ。どうやらここにも何もなさそうだ。

 体に問題がないのであれば、もっと動くことも可能なはず。俺は両足を薄汚れた床につけると、ベッドの手すりを掴みながらゆっくりと立ち上がった。両足に少しずつ力がかかる。痛みはないが、感覚も薄い。腰を持ち上げ、全体重を両足にかける。……立てた。少し怪しいが、無事に立てたのだ。

 俺はホッと息を吐き出した。安心からか、掌がじんわりと暖かくなる。

 何もないではないか。いつも通りの俺の体じゃないか。つまり、俺は『手術』なんて受けていなかったのだ。そうだ、そんなことがある訳ないのだ。健康体の人間を捕まえて、いきなり『手術』を施すなんて、それはもはや人体実験だ。この日本において、そんなことがあり得るだろうか。いや、あるかないかで言えば、あるのかもしれない。しかし、それは極めて稀な出来事であるはず。極めて一般的で健全な高校生になったはずの俺の人生には、そんなアクシデントは似合わない。

 だが、『手術』がなかったとしたらそれはそれで疑問が残る。男の言う『手術』とは一体何を指しているのか? 何かの隠語だったのか?

 それに、『手術』がなかったのだとすれば、なぜ俺はこんなところにいるのだろうか。健全な高校生には全く縁のない場所である。


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