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初夏の蒸し暑さに季節の変化を感じつつあったある日、私は所属している高校のオカルト研究部の都合で帰りが遅くなってしまった。こんなことは滅多にないのだが、この日だけはたまたま部内の議論が紛糾し、帰る頃には陽も落ちていた。
「それじゃあ、また明日ね。」
自転車に乗った部活仲間の女子が、こちらにひらひらと手を振ってみせる。疲れているのか、風に揺れる短冊のようなかなり適当な振り方だった。それを見て半ば反射的に、私も手を振り返していた。こちらもかなり適当だったであろう。だが、相手はこちらを碌に見ることもなく去っていった。
高校の校門を出ると、不気味な静寂に包まれた街が広がっていた。目の前の住宅街はまるで迷宮のようで、角を曲がれば何か恐ろしい怪物が出て来るんじゃないかという不安に駆られる。空を見上げても雲がどこまでも覆っていて、月の明かりも届かない。もう夜といってもいい時間なので当然なのかもしれないが、それにしても今日は妙に静かだ。静かすぎる。それが私の脳に刺激を与える。まるで、知らない街に、知らない世界に紛れ込んでしまったかのようだ。胸に不安がさらに大きくなる。私は家に帰ることができるのだろうか。
私は大きくかぶりを振った。一体何を考えているのか。ここはいつも歩いている通学路で、特に変わりなどない。それに、知らない世界なんてオカルチックな展開、オカルト研究部からすれば大好物ではないか。むしろそんな展開に遭ってみたいと思ったことが一体何度あるものやら。
私は足早に道を行き始めた。何にしても、暗い夜道を女子一人で歩くのは得策とは言えない。さっさと帰った方がいいに決まっている。不審者にでも遭ったら大変だ。お化けや幽霊なら怖くはないが、相手が生きた人間となると話は別だ。普段特に運動もしていない私なんて、暴漢に遭えば一たまりもないだろう。
そう、この不安はそういった現実的な恐怖に対するものなのだ。胸騒ぎが治らないのも、そのせいに違いない。家に帰りさえすれば全て解決するのだ。早く帰って晩御飯を食べて、ゆっくりとお風呂に入ろう。そして明日の学校の準備をするのだ。中間試験が終わって少ししか経っていないが、油断してはいけない。高校に入ってまだ三ヶ月目、変に気を抜いたら授業に置いていかれてしまうかもしれない。そんなに成績の悪い方ではないが、良い方でもないのだから、宿題くらいは忘れずに終わらさなければ。
頭を現実的な問題でいっぱいにする。そうすることで、私は胸騒ぎから目を逸らしていた。そんなこと、するべきではなかったのに。
私の家は、学校からそれほど離れていない。そのため、私は徒歩で通学している。そしてそれは、当然ながら私だけではない。私たちの通っている高校は、地元に根ざした経営を目指していることもあり、近くに家を構える生徒も少なくない。だから、角を曲がった時にうちの高校の制服を着た男子がいても、驚くことはなかった。私と同じように、なんらかの理由で帰りが遅くなったのだろう。
男子はすたすたと歩いていた。こうも暗いと、その輪郭がぼやっと見えるだけで、誰なのかまではわからない。加えて、多少距離もあった。詳細がすぐにわからなかったのも、無理ないことだろう。私が彼の正体に気づいたのは、道の隅にぽつんと立っている電灯の光に、彼が照らされた時だった。点滅していたのでわかりにくかったが、その姿は間違いようがなかった。
その人は、私の彼氏である森下研二であった。
私の胸に、温かいものが流れてくる。最愛の人に偶然出会えた喜びと、そして安堵の感情。ああ、これでこの不安ともおさらばできる。彼と一緒に帰ろう。彼の家と私の家はあまり離れていない。彼と一緒ならば、何事もなく帰宅することができるだろう。
私は駆け出した。そして彼の背中に声をかけた。
「研二くん!」
しかし彼は聞こえなかったのか、そのまま十字路を右に曲がってしまった。
「待って、研二くん!」
私も急いで角を曲がった。彼の後ろ姿が再び視界に入る。それはもう目の前といってもいい距離だった。
「一緒に——。」
言い終わらないうちに彼が振り返った。その表情が大きく変わる。素の彼の表情から、目を見開いた驚愕めいたものに。
「理衣!」
突然、彼が叫び声をあげた。なぜ? 頭にクエスチョンマークが浮かぶ。そんな私に向かって、彼は駆け出した。その時、ようやく私も気づいた。後ろから迫ってくる音に。
ああ、どうして気づかなかったのだろう。それは決して小さな音ではなかったのに。暗くて見えなかったから? それはあったかもしれない。だけど、気づけたはずなのだ。いや、気づかなければならなかったのだ。
私は後ろを振り向いた。そこには、大きなトラックがいた。ライトも何も点けていない。闇から突然顔を出したそれは、もう避けられないほど近くまで来ていた。
不意に、私の体を誰かが掴んだ。それが研二くんだと気づいた時、すでに全てが終わっていた。私の体は横に投げ飛ばされた。そして、私の目の前で、彼の体が宙に舞った。
トラックはそのまま走り去った。後には私と、横たわる私の恋人だけが残された。
「研二くん?」
私は立ち上がることすらできず、その場に固まっていた。トラックに吹き飛ばされた研二くんの体は、数メートル離れたところにあった。両手が大きくねじれ、片足がありえない方向に曲がっている。そして全く動かない。そんな彼の体が、点滅する電灯の明かりに照らされている。
「どうしたの? 一体何が……?」
衝突する音を聞いたのだろう、近所の家のエプロンをつけたおばさんがドアから顔を出した。私は彼女の方に首を向ける。よっぽどひどい顔をしていたのだろう。彼女は小さく悲鳴をあげた。
家から出て来たおばさんが彼を見つけるまでに、時間はほとんどかからなかった。
「そんな! なんてこと!」
おばさんが再び悲鳴をあげる。私はその声をぼんやりと聞いていた。何が起きたのか理解したくなかった。動かない彼も、広がっていく血だまりも、全て認識したくなかった。
遠くから、救急車の音が聞こえて来た。




