⑦
その後も俺たちはいくつものアトラクションを楽しんだ。メリーゴーランドにゴーカート、空中ブランコにも乗った。空中ブランコこそ少々キツかったが、なんだかんだ言ってどれも楽しかった。
少しずつ、時間が消費されていく。日陰が大きくなっていき、気温もわずかに下がり始めた。
「次で、最後かな。」
「そうだね。もういい時間だ。最後に何に乗りたい?」
「やっぱり、あれかな。」
そう言って理衣が指差したものは、観覧車だった。恋人同士のデートといえば、確かに観覧車は定番である。この時間帯なら景色も特に綺麗だろう。
「わかった。行こう。」
徐々にお客が帰り始めているせいか、観覧車にはそんなに人は並んでいなかった。これなら、すぐに乗られそうだ。
俺はふと観覧車を見上げた。この観覧車の高さはどれくらいだろうか。だいたいジェットコースターと同じくらいであるはずだが、具体的な数字はわからない。ジェットコースターの時はあれだけ恐ろしかった高さだが、観覧車ならそうでもなく感じられるような気がする。ゆっくりと回るゴンドラそれぞれに、何か物語が乗っているのかもしれない。
「研二くん、私たちの番だよ。」
言われて前を見ると、赤いゴンドラがやってきた。乗っていたお客が笑顔で降りていく。
「次の方、どうぞ。」
俺はゴンドラに乗ると、理衣に手を差し出した。理衣もその手を掴み、ゴンドラに乗り込む。
「いってらっしゃいませ。」
係員は明朗な声でそう言うと、ゴンドラの扉を閉め、鍵をかけた。
ゴンドラが、ゆっくりと登り始める。少しずつ、係員や他のお客の姿が小さくなっていく。概算ではあるが、一回転にかかる時間は十分ほどだろう。つまり、五分後に頂上に着く計算になる。やはりジェットコースターの時とは違い、今度は恐れることなく景色を楽しむことができる。
「今日は、楽しかった。」
向かいに座った理衣が、ぽつりと呟いた。
「今までのデートで一番楽しかったかもしれない。」
「俺も楽しかった。多分一番。」
正直な感想だった。恐ろしい目にも何度か遭ったが、それを含めて本当に楽しい一日だった。
「今日の記憶を、ハードディスクか何かに保存しておきたいくらい。」
理衣の顔は、少し寂しそうだった。
「今日が終わっちゃうの、惜しいな。」
「また来られるよ。何回だって、一緒に来よう。」
理衣は外を眺めていた。明るく、美しい夕焼けが広がっている。明日も晴れるな、なんてどうでもいいことが頭に浮かぶ。
「記憶といえば、さ。」
理衣はこっちを見ないで喋り始めた。
「知ってる? ある研究では、人の記憶は脳以外にも蓄積されている可能性があるんだって。」
脳以外に記憶?
「細胞記憶って言ってね。一部の学者によれば、人間の臓器には記憶を蓄積する機能があるんだって。だから、臓器移植を行うと、移植された人に元々の臓器の持ち主の記憶も移植されるから、性格や習慣が変わったりするらしいの。知らないはずの外国語を突然話せるようになったり、音楽の趣味が変わったり。中にはドナーを殺した犯人の似顔絵を描いたケースもあるらしいよ。」
「つまり、ドナーは殺人事件の被害者で、その記憶を引き継いだ患者が犯人の似顔絵を描いたってこと?」
「そう。その似顔絵によって、犯人は逮捕されたんだって。これってすごいことだよね。人間は、死んでもその記憶を継承できるかもしれないってことだもん。」
理衣がこちらを向いた。夕日が彼女の顔を照らしている。
「今日のことも、私の細胞に記憶されているのかなあ。そうであってほしいな。」
「きっと、されているよ。理衣の細胞にも、俺の細胞にも。」
「そうだよね。」
そう言って、理衣は笑った。しかし、その目は涙を湛えていた。
「理衣?」
「……ごめんね、研二くん。」
理衣が顔を両手で覆ってしまった。なんとか泣くまいとしているようだ。しかし、その手も小さく震えている。
「こんなに、研二くんが楽しませてくれようとしているのに。それなのに、私は……。」
理衣には、障害がある。前向性健忘症というもので、彼女は新しい記憶を蓄積することができない。憶えていられるのは、その日の間だけ。次の日になれば、前日のことは全て忘れてしまうのだ。
こうなった原因は、交通事故による外傷だった。二ヶ月前のある日の夜、理衣は俺の目の前でトラックに轢かれた。居眠り運転だった。電灯の点滅する明かりの下で、俺を見つけた理衣はこっちに駆け寄ろうとしていた。そこにトラックが突っ込んできて、彼女は轢かれた。俺は轢かれる寸前に理衣を突き飛ばそうとしたが、間に合わなかった。今も、俺の網膜にはあの時のことがはっきりと焼きついている。暗闇から突然現れたトラック。宙を舞う理衣の体。全てが、こびりついて離れない。
不幸中の幸いで、理衣の命に別条はなかった。頭以外には、目立った傷もなかった。しかし、頭を強く打った彼女は、一週間眠り続けた。辛い、本当に苦しい一週間だった。もしかして、二度と理衣は目を覚まさないのではないか。何度もそう考えた。理衣の両親も、あれだけ陽気な理衣の母親でさえも、狼狽し、苦悩していた。だから、理衣が目覚めた時は、本当に嬉しかった。それなのに。
「どうしてこんなことになってしまったんだろう。私が何をしたっていうの?」
目覚めた理衣は、脳に大きなダメージを受けていた。あれ以来、理衣はトラックに轢かれた次の日を繰り返している。
「こんなに楽しかった日も、明日になれば忘れてしまう。毎日毎日、メモ帳を見て項垂れるばかり。」
理衣にとって、メモ帳が記憶の代わりになっている。毎日その日に起きたことを、細かく記録し続けている。
「忘れたくないよ。研二くんが頑張ってくれているのに、忘れたくないよ。」
俺は黙って理衣の言葉を聞いていた。俺は、無力だった。理衣の記憶に残ることもできない。俺にできるのは、理衣のそばに居続けることだけだった。
「ごめんね。ごめんね。」
俺は立ち上がり理衣の隣に座ると、彼女を抱きしめた。理衣も抱きしめ返してくる。胸の中に顔を埋め、涙を必死に堪えている。気づけば俺の方が泣き出しそうになっていた。しかし、俺はそれを耐えた。理衣が泣いていないのに、俺が泣くわけにはいかない。
「謝らなくていいんだ、理衣。理衣は何も悪くないんだから。」
俺に言えることは、たったのこれだけ。理衣の悲しみを、少しも和らげてあげられない。俺は理衣の彼氏なのに。
ゴンドラが、ゆっくりと下り始めた。夕日も沈み始めている。すぐに暗くなるだろう。もう、帰らないといけない。どれだけ俺が頑張っても、終わりは必ず訪れる。俺は、胸の中で苦しんでいる理衣に何をしてやれるんだろうか。




