貴方がくれた恋色は紅葉
私はしがない伯爵家の娘、ティフォーネ・セラ・セレーノ。フォーリア王国において重要でもなんでもない中流貴族の家に生まれた、一貴族にすぎない身です。
だから当主であるお父様が決めたら政略結婚が当然で、家のために嫁ぐこともあります。それが貴族に生まれ恵まれた生活を約束されている自分の責務。血を繋げより良い次代を育むことは、貴族の令嬢に課せられた義務なのです。
そう、義務。果たさないのは怠慢。家を、家族を捨て、民より優先して全てを得られる権威の行使を、安定した暮らしを送る権利を放棄するのと同義。
権利には義務が付随する。貴族として生きたいならば果たすのが道理です。
私は家を捨てたいとは思えません。たかが伯爵の令嬢であるこの身でも、背負っている家の名や責任、役目があると理解しています。
それらを誇りに思っている私が家の未来に影響するであろう婚姻を拒否できる立場でないことも。
もちろん全ての貴族が政略結婚をする訳ではありません。夜会で見初めたり見合いで恋に落ち、恋愛結婚をする貴族も少なくないです。子女たちが幸せな婚姻に憧れる気持ちが私もよく分かります。
分かっているのです、婚姻に夢を見過ぎてはいけないと。
お父様が命令するなら政略結婚を拒否なんてしません。けれど、心の自由を。自分で見つけた恋しい人を、密かに想うことくらいは許してもらえないでしょうか。
誓って、周囲へ悟られるような我が家の汚点など作りません。
ですからどうかお許しください、彼の君を想うことを。
安心してくださいませ、私がお慕いする方にはすでに婚約者がいらっしゃる。アプローチもなにも、どうしようもないこと。蹴落とそうなどと傲慢で自分本意な考えはしたくないです。あの御方にご不快な思いをさせるのは間違っています。
それでも想う心はままなりません。
だって私は堕ちてしまったのです。恋なんて貴族の婚姻に邪魔にしかならない感情なのに、叶わないと知りながら、抱いてしまった。
『まるで紅葉を映したような瞳だ』
初めて聞いた言葉。きっかけは間違いなくこの瞬間でした。
そして私の世界ははあの御方がくれた色に染まっていったのです――――。
煌びやかなシャンデリアに照らされ、贅と美を尽くした豪奢で優美な夜会会場。王宮の一角にあるこの場所で、今夜は魔族撃退による祝勝会が開かれます。
女性たちは自分を美しく見せるための華やかなドレスに身を包み、男性たちは地位や権力、功績を示すために立派な礼服や軍服を纏っている。いつにも増して気合いの入った方々が多いです。
何と言っても、異界からこの地に来てくださった聖女様が近頃頻繁に現れるようになった魔族を倒し、我が国に平和をもたらしたのですから。その聖女様がこの度の祝勝会に出られるとあって、皆さん張り切っているのです。
他にも聖女様と共に戦った有力貴族の勇敢なる戦士たちも参加しますし、貴族として是非とも繋がりを持ちたいと考える者が後を絶たないでしょう。
会場に入った時点から感じる男性の視線。チラチラ盗み見る者から堂々と見てくる不躾な者までいる。
両親の美点ばかりを受け継いだと親戚に評判の私の容姿は密かに自慢だ。薄紫色で腰まで届く緩く波打った髪。角度によって朱金に輝く紅茶色の瞳。どちらも私が父母からそれぞれ受け継いだ大好きな色である。
顔だって社交界の花の一輪と噂してもらえる程度には整っていると断言できる。
まあ残念ながら、一番注目してほしい方には意味のないもののようですけれど。
「ごきげん麗しく、ティフォーネさん。久方ぶりです」
「まあフィオラさん、ごきげんよう。ええ、お久しぶりです。…ご無事で何よりです」
「…はい。両親からティフォーネさんがセレーノ家として何度も気にかけてくださったと聞いております。身に余る光栄にございました。格別のご配慮をいただいたこと、まことにありがとうございます。一生このご恩は忘れません」
夜会の中、目上の家や付き合いのある家への挨拶を済ませて友人を探そうと思っていると、フィオラ・アル・ヴィルトゥさんが真剣な面持ちで話しかけてきた。
彼女は私の友人の一人で、領地も近い子爵家のご令嬢です。真っ直ぐな亜麻色の髪と深緑色の瞳を持ち、しっかりした雰囲気の今どきの令嬢では珍しい方です。
しっかりした方なのですが、いささか生真面目な騎士のような気性で、今も凛と背筋を伸ばし深い感謝の念を全身から感じます。
確かに私の方が一つ上の爵位ですので敬意を忘れないのはいいことです。けれど私としてはもう少し砕けた友人付き合いをしたいと思ってしまいます。
初めてお会いして友人となった時は今よりも固い態度で、私の名前を呼んでもらう際に「様」付けではなく「さん」付けしてもらうのも一苦労でした。
「そう畏まるほどのことはしていません。友人としても我が家としても、フィオラさんとの縁を失いたくなかったために少々ご助力したに過ぎないのですから」
実は魔族の何体かがヴィルトゥ子爵領に現れたことがあって、私はその際に迅速な民の避難と隔離、その後の復興支援を手伝うようお父様に願った。
根底に友人を助けたいという感情があったのも事実ですが、ヴィルトゥ家に貸しを作れる機会だという打算も含まれていました。
代々騎士を輩出してきた武の名家であるヴィルトゥ家は、爵位こそ低いものの屈強な私兵を持つと有名。いざというとき、かの家と強固な信頼関係を築いておくことは我がセレーノ家の助けになります。
「私欲のためにしか動けない貴族はただの愚か者でしょう。だから、ティフォーネさんは賢い御方なのです。あるべき貴族の形を保っていられる貴女様を、わたしは心より敬愛しております」
「ありがとう…。ふふふ、フィオラさん。私も貴女のあり方を尊く思っていますわ」
「…っ…はい。わたしの方こそ、過分なお言葉、ありがとう存じます」
「あら、そんなに大げさに言っていないのに。もう」
うっすらと頬を色づかせたフィオラさんは照れ隠しなのか、目を泳がせた後に必要以上の感謝を返してくれました。
暫くフィオラさんと談笑を楽しんでいたら、あっという間に時間が過ぎたらしい。本日の主役である聖女様ご一行が入場し、場が一気に盛り上がった。
えも言われぬ熱が会場に満ちる中、王族の方々も入場。これで夜会で主要な方達が全員入場し終わりましたね。
「あ…」
聖女様たちと歩く一人の男性。あの御方の姿を捉え、自然と目が離せなくなる。
「どうかいたしましたか、ティフォーネさん」
「いいえ、何でもありませんの。ただ、陛下も来られたことですし、父たちを探さなければと思いまして」
「そうですね。わたしも両親を探してまいります」
「ではまた後ほどに」
「はい」
どうにか視線をフィオラさんに戻し、上手く誤魔化す。でも陛下へ挨拶するのに両親を探しておかないといけないので、嘘でもない。
不自然ではなかったようで、何事もなくフィオラさんと別れることが出来た。
秘めた胸の内に感づかれなかったことに安堵する。
良かった…まだ、大丈夫。私はセレーノ家の娘です。私の言動が家の名に影響を及ぼすことはあってはなりません。
視界の端に映る赤みがかった黒髪を目で追わないように注意しつつ、父と母の姿を探した。
貴族の長蛇の列が消化されていき、いよいよ列の中盤より少し前あたりに最初はいた私たちの番が近づいてた。
一段高い場所に並ぶ王族方は圧巻で、存在感がとてつもないです。見目麗しいとはこの方達のためにある言葉だと思います。
王族方の横には聖女様たちが並んでいて、この流れだと私の父母も挨拶するのだろうなとぼんやり考える。王や王子たちに挨拶するよりもよほど緊張する一瞬だ。
表情筋をフルに使い、なおかつ意識は遠くに飛ばして余計なことは考えないようにしようと決めた。
ついに王族がたとの挨拶も終わり、聖女様一行との対面がきた。
「お初にお目にかかる。私は伯爵の位を賜っているトラモント・ヴィア・セレーノと申します。この者は妻のルビアーチェ、そしてその隣が娘のティフォーネです。我がフォーリア王国をお救いくださった救国の聖女様にお会いでき、光栄の極み」
貴族男性らしい上品な例服を着た父が、母と私を聖女様に紹介する。
小動物のように愛らしい大きな目、クセのないセミロングヘアの髪。フォーリアにはまずいないであろう黒髪黒目の異国情緒あふれる小柄な少女が薄桃色のドレスを身に付け佇んでいる。
「はい、存じてますよ。陛下からうかがっていましたし、娘のティフォーネさんは社交界の花の一人だと友人からも聞いていましたから」
コロコロと笑う聖女様――ヒジリ・サクラノというお名前らしい――はご自身の名を教えてくださってからそう言った。
「ご友人から、ですか?」
「ええ、プレアソードに来てから出来た友人達です。ティフォーネさんをとても好ましく思っているそうですよ」
「なんと…!それは光栄だ。そのご友人方に会ったらお伝えください。聖女様に名を覚えていただく栄誉の機会をティフォーネに与えてくれたことを感謝している、と」
「―――はい、必ず」
気のせいでしょうか。聖女様が意味ありげにこちらを見た気がします。
「フォーリアをお守りくださった救国の聖女様に神のご加護があらんことを」
「神のご加護があらんことを」
「神のご加護があらんことを」
父にならい、私も母と共に聖女様へ感謝と祝福の言葉をささげる。終始慈愛の笑みで接してくださる聖女様はやはり立派な方だと思います。
聖女様との挨拶を無事に終えられてほっとしつつ、私は父母とこの場を後にした。聖女様の隣に目を向けないように。
「はあ…」
祝いの場でする行為として正しくないことを理解していても、私は溜息を止められなかった。
夜会ホールからバルコニーへ続くガラス戸を開けて夜風に当たる。バルコニーから見える王宮の中庭は王家自慢の美しさで、よどんだ感情を洗い流してくれる。
私はこんなにも感情的で脆かったのですね……。
感情を読ませない振る舞いは得意だと思っていた。セレーノ家の長女としてふさわしい言動、他者に隙を見せない姿勢。
幼い頃から培ってきたのだ。たとえ恋に悩まされていてもそれらを如才なく発揮できる。
発揮できると、思っていました。
「どうやら私は自分を見誤っていたようです。いつの時代も人は、恋や愛に囚われ、ままならないものに振り回され、狂わされてきたのに…」
自嘲の笑みがこぼれ落ちる。
瞼を閉じて甦るのは、つい先ほど見た光景。
聖女様への挨拶を終えた後、何人かの男性とダンスを踊って疲れたので、休憩も兼ねてフィオラさん含む友人達と雑談していた。魔族が出没し治安が危ぶまれていたから半年は実家にいました。久しぶりに会うフィオラさんや友人達との会話に嬉しくなり、いつもより饒舌であったと思う。
喉が渇き、飲み物をとろうかとホールの中央に視線をやってしまった。
その時。
彼の君と聖女様が親し気に、とても近い距離で会話されているのを目撃した。加えてあの御方は見たことがないほど優しく嬉しそうな表情をしている。
目眩に似た衝撃を感じて息がつまり、心がきしむ音が鳴ったようだった。胸中に湧く衝動を抑えきれなくなる前に、バルコニーへとやってきて現在に至る。
「まさかお二人がそんな仲だとは勘違いしませんが、でも間違いなくそれがきっかけで私の中で浅ましい考えが浮かんでしまって消えてくれません…っ」
聖女様は我が国の王太子殿下との婚約が発表されていますし、あの御方にも祖国に公爵令嬢が婚約者としていらっしゃる。どちらも仲は良好だと聞き及んでおります。
だからきっとお二人が見せた親密な態度は、魔族撃退のおりに共に戦ったからなのでしょう。
ええ、分かっていますわ。そこを疑っているわけではありませんの。これは嫉妬ではありません。ただ考えてしまったのです。
「…もしも私に戦う力があったなら、あの御方のお役に立ち、あの御方に優しく微笑んでもらえるような未来があったのかもしれない。体裁を気にせず、一途に想いながらひたすらにおそばで支える未来もあったのかもしれないっ」
ああ、気づいてしまいました。そんな可能性があると知ってしまえば手を伸ばしたくなってしまうから、見ないようにしていたのに。
「私は貴族です。セレーノ家の娘です。貴族だから…好いた殿方のそばにあることができる幸せ者は少ないのす。夢を見てはなりません、貴族なら報われる恋の方が珍しいと理解していたでしょう…!」
もしも、もしも…。そんな意味のない仮定を想像してしまう。なんと愚かで、浅ましい。これは自分で選び取った結果だというのに。
貴族の自分を望んだのは私です。“貴族の子”ではなく、“貴族”でありたいと自ら進んだ道なのです。貴族である者が恋に感情が左右されるなどあってはならない。
貴族とは、社会において絶対的な優遇を得られる代わりに、その持てる資産を最大限に使い、民を守り導く責任と義務がある。
≪高貴なる者の義務≫。ノーブレス・オブリージュと呼ばれる貴族の指針。太古の昔に召喚されたという異国の勇者が伝えた言葉だ。
「私は“貴族の娘”としてあることよりも“貴族”であることを望んだ。であればそれに沿う振る舞いをする必要があります」
だから。
「この想いは徹底的に秘さなくてはなりません。封じて、誰の目にも映らないように」
わざと決意を声に出す。自分に言い聞かせるように。
この世界を、プレアソードを創った偉大な神よ。切り替えるために、最後に一度だけ想いを認め心の表層に出すことを罪をお許しください。
――グラディウス様、二年前のあの日より、お慕い申し上げています…。
胸中で言った言葉は、誰にも知られず闇夜に紛れて消え去った。
そこで急に風が吹く。
ふぶいた突風は私の言葉を奪い去り、ひらりひらりと数枚の葉を落とす。散らばる紅は特徴的な形をしていて。
「ふふ。グラディウス様が例えてくださった、私の色。ああ、そうね。もうそんな季節になったのね」
アチェロという葉。子どもの掌のような形状で赤く色づいている。所々日の当たり具合によって色の濃淡が違い、その違いが美しい。
彼の君、グラディウス様の国では「もみじ」と呼ぶそうだ。遥か昔にグラディウス様の祖国、アヴァンツァーレ帝国に降り立った勇者様が名付けたらしい。
二年前、社交界デビューして間もない私は貴族の駆け引きを必死にこなしたり、いなしたりするのでいっぱいいっぱいだった。見ず知らずの男性に頻繁に声をかけられるのも苦手で、同じような美辞麗句を散々聞かされストレスも溜まっていた。
そんな中、不思議と男性みや煩わしさを抱かなかった相手がグラディウス・アルマ・ラン・アヴァンツァーレ様。当時我が国フォーリアへ留学に来ていた隣の大国、アヴァンツァーレ帝国の第二皇子だ。
ある時行われた夜会で疲れた私は息抜きにバルコニーへ出た。そして幾ばくか時が過ぎた頃、グラディウス様もまた、息抜きに訪れたのです。
『大変ですね、皇子殿下。私はもう失礼させていただきますので、ごゆるりとどうぞ』
『…。ああ、悪いな』
『いえ』
大国の皇子という身分に容姿と能力まで備わった御方。女性たちが放っておかず、夜会の間ずっと囲まれていらしたのを知っている。
私とグラディウス様が初めて出会ったのはこの時です。
我がフォーリア王国の王都にある学園に留学されていましたので、在籍していた私もその存在は知っていました。
しかし、実際にお会いして言葉を交わしたのはこれが初めてでした。
ホールに戻り社交に励んでいると、殿下が近づいてくるのを視界にとらえた。
バルコニーでは影が差しこんでよく見えなかった艶やかで赤みのある黒いクセ毛と濃い紫色の瞳が光に照らされ、存在感を醸し出している。
たれがちの目元なら柔和な雰囲気を与えるはずなのに、あの御方の瞳はどこか冷たい印象だ。
『グラディウス・アルマ・ラン・アヴァンツァーレだ。一曲、お相手願いたい』
『っ…、はい、喜んで』
まさかダンスにお誘いされるとは。
一瞬驚きで硬直したが、内心を顔に出さず応じる。平常に振る舞ったつもりだったがやはり混乱していたのか、普段なら絶対にしないような名乗り忘れをしてしまった。
どうしましょう、今から名乗るのはタイミングが微妙です。
内心焦る私の心情などいざ知らず、殿下は差し出した手に乗せた私の手を引いてホール中央へ進んで行く。
ちょうど曲の切れ目だったようで、着いたとたんにダンスが始まる。皇子殿下に恥をかかせたくない。彼のリードで優雅に見えるよう踊った。
踊りながら、ふと考える。
会話のきっかけとして今なら名乗れるかもしれないと思った。
『名乗り遅れて申し訳ありません。私はセレーノ伯爵家の娘、ティフォーネ・セラ・セレーノと申します』
『知っている』
『そうでしたか』
『……』
『……』
会話が終わってしまいましたっ。
殿下はお世辞にも愛想がいいとは言えない方だ。冷たい印象の目からは感情が読み取れない。
…そういえば学園で友人が話していましたね。アヴァンツァーレの第二皇子殿下はクールで表情があまり動かないと。その冷たさがいい!とも。
私は今までこのような男性貴族と話したことがなく――大概の男性は紳士かつ喋りが上手い――、戸惑いが大きい。
ダンス中の会話は先ほどのことのみで、それ以降はダンスを踊るだけでした。
曲が終わり礼をする。バルコニーで場所を譲った感謝のつもりで誘ってくださったのであろう、と思いながら。
『急に誘ってすまなかった』
『いいえ、とても光栄に思いましたわ。お誘いいただきありがとうございました』
『いや…そうか。その、だな…』
『はい』
何やら言いたいことがあるようです。
『…バルコニーでの気づかい、感謝している』
『お礼をいただくほどのことではございませんわ。でも、ありがとうございます。どういたしまして』
『それと、だな』
『はい、なんでしょう』
『こういう時は、女性を褒めるものだと聞いた…』
『まあ…!強制するようなことではありませんし、必ずしもそうする必要はないと思います。褒め言葉は心がこもっているものが一番良いのです。ですので、殿下も強制でおっしゃらなくてもいいかと』
『そうか』
この手のことは苦手らしい。眉を寄せ、少々不機嫌に見えるが声音は困ったという響きがある。ある意味器用だ。
一つ年上の男性に対し失礼かと思うが、なんだか可愛らしいと感じて気が緩んでしまった。
だからでしょう。この御方の言葉に不意を突かれたのは。
『まるで紅葉を映したような瞳だ。美しいと、思う…』
――強制じゃなかったらいいのだろう?
じっと見つめてきておっしゃったそれが、素の心にするりと入ってきました。
それからはあっという間。反射的に笑顔でお礼を言って、夜会から退場して家に帰った。
殿下の褒め言葉がぐるぐると頭の中を巡って、同時に言いようのない気恥しさが滲む。御しきれない心にどうすればいいか分からない。
いつも言われていた賛美は「夕焼けのようだ」とか「夕日のようだ」とか、少し捻って「紅茶に宝石を浮かべたようだ」といった内容。
時おり赤色のなんらかの花に例えられる程度で、皆大した違いはなかった。
こんなにも印象深く感じたのはいつもと違う褒め方をされたからでしょう。
そう思ってあまり気にしないことにした。
けれどその後の学園で、あの無愛想な赤みがかった黒髪を見かける度、無意識に目を引かれる。あの御方が何かする時、思わず目で追ってしまってそれに気づいてすぐにそらす、ということを繰り返した。
気になって姿を見かける度に目で追うようになると、殿下の色々な面を垣間見ることができた。
剣が好きで、剣術に誰よりも真剣にで向き合う顔。女生徒に言い寄られて困りつつ、面倒そうな顔。好きなのか、小動物をじっと見ている顔。熱かったり酸っぱい食べ物が苦手で、不機嫌だが真面目に食べる顔。
一つ一つ見つける度にもっと知りたくなっていく。他にはどんな所があるんだろう、と。
知らない内に手遅れなくらい惹かれてしまっていた。
私は畏れ多くも、グラディウス皇子殿下に恋をしてしまったのです。叶わない恋を、してしまいました。
想いを自覚したのは彼の君が学園を卒業する間際。
卒業し、祖国へ帰りもう会えなくなってしまうのだと思うと悲しくて寂しくて、圧迫されたように胸が苦しくなった。
自室に戻るとベッドに身を投げ出して動かないでいる日が続いた。何もやる気が起きなかった。あの御方の顔が頭の中でチラつき、心が痛い。
『なんて私は情けないのでしょう』
呟いて顔を手で覆う。涙も嗚咽も出ない。
初めて想いを抱いた相手は手の届かない人。婚約者がいる大国の第二皇子。私なんかが求めていい相手ではない。
時が過ぎればこの想いも思い出に変わるはずです。
私は殿下への想いを心の奥底に沈め、時が経つのを待つことにした。燻る想いに気づかなかったふりをして、卒業する彼の君を見送った。
あれから現在。聖女様と共に戦い魔族を退けた、勇敢で誉れ高い戦士として殿下は再びこのフォーリアの地を訪れた。今宵の祝勝会に参加するために。
「結局、思い出にする暇もなかったですわね…時間が足りなかったのか、想定以上に強い想いだったのかは判断できませんが」
好きになった理由も未だに把握できていない。きっかけは紅葉に例えてくれた言葉だったかもしれないが、その前の会話も無関係ではないように思う。学園で知った彼の君のいろいろな顔も、理由の一端である可能性を否定できない。
なんにせよ、どのみち報われぬこの感情には無意味な疑問なのでしょうけど。
本日何度目かもわからない溜息を吐いて、そろそろホールに戻ろうかと思案する。出会いの瞬間を思い出してから好きになった日々まで甦って、それなりの時間を浪費してしまった。
長く姿を消せば友人達も心配するだろう。
十分に気分転換…できたかは怪しいけれど、戻らないといけませんわね。
戻るため、目映いホールの灯りが漏れるガラス戸を開けようと振り返り―――。
「っ…!」
「…ティフォーネ嬢、少し時間をくれないか?」
振り返った先でガラス戸が開き恋しいあの御方が、グラディウス様が相変わらず冷たい眼差しで、でも緊張を伴って、バルコニーへ踏み込んできた。
心臓が口から飛び出るかと思いました…。
あまりの衝撃にドクドクと鼓動が脈打ち、なかなか治まらない。培った淑女の厚い面の皮でなんとか、みっともなく悲鳴を上げたり口をぽかんと開けることは防げましたけど。
「俺のことは、覚えているか?」
「もちろんです、殿下」
一年以上見ない間に成長された。こうして近くで見ると分かる。
以前よりも身長が伸びてさらに高身長になり、戦士特有の隙のなさと鋭いオーラも増している。その姿に熱を上げようとする心を必死に押しとどめた。
「前に話した時より二年は経ったか…」
「ええ。初めてお目にかかった時も、このバルコニーでしたね」
「ああ。女たちに纏わりつかれるのにうんざりして、ここへ来た。…女は好きじゃない。いつも甲高い声で理解不能なことを喚きながらすり寄ってくるからな」
「そうだったのですか」
理由は察していたので、さして驚かない。
「…あ、いや、違うぞ?ティフォーネ嬢のことは別に嫌いではない」
「そうなのなのですか?…ありがとうございます」
どうしよう。大した意味はないと分かっている筈なのに、嬉しすぎて顔が緩みそうになる。これは気合いを入れなければ。
「そういえば、関係ない話だが」
「はい」
「もう婚姻の適齢期だろう。だから、だな。ティフォーネ嬢くらいの年になれば皆相手を見つけているんじゃないか?」
「そうですね…友人の中にはもう結婚相手が決まった者もいますし、元から婚約者がいる者もいます」
「…ティフォーネ嬢はいるのか?そういう相手や想い人が」
他意はないのだろうが、殿下の言葉が胸に刺さる。
「いえ、残念ながらおりません。…ご期待に添えず申し訳ありませんが」
「いや…!期待していたわけではないっ…この言い方だと貴女に魅力がないと言っているように聞こえるか。なんとなく。そうなんとなく聞いてみただけだ。…いてもいなくても、…いたら困るが」
「…殿下?どうかされましたか」
最後の辺りから独り言になったようで小さくなり、内容が聞き取れなくなった。何と言ったのだろう。
「とにかく。別に貴女を軽んじて言ったわけではない」
「分かりました」
本当に真っ直ぐな方だ。この御方は言葉を飾ることをほとんどしない。貴族では珍しい、いえ、王族でも珍しい方。
本心のみを口にする方からの言葉だから、素直に受け取ることが出来る。
「話は変わるが」
「はい」
「フォーリアには伝わっているか?俺が祖国で、魔族撃退の褒美に望んだこと」
「いいえ。周知されると少々波紋が広がるかもしれないから、我が国の王族方は時期が来たら公表するとおっしゃってましたわ」
「そうか。俺が望んだとおりに情報規制がされているようでなによりだ。褒美の内容は俺の国でも王族と一部の上級貴族、国の上層部しか知らない」
「なるほど、それだけ貴族に影響を与えるかもしれないということですか。情報漏えいがないか私で確認できて良かったです」
何故殿下が今になって私に話しかけてきたのか疑問でしたが、そういう理由なのですね。納得です。
確かに私はフォーリアで、王族方以外で殿下と普通に話せる女性かもしれない。社交に励んでいるおかげで人脈もそれなりに広く、情報漏えいがないか確認する相手としては役立つだろう。
「それだけで話しかけたわけじゃない」
…今、私に都合の良い幻聴が聞こえた気がします。
「実は、褒美に望んだのは新しい公爵位なんだ」
「新しい公爵位…?」
「ああ。つまり、新たに家を興す」
「…すごい、ですわね。公爵様になったのですか」
昔、噂で聞いた。王太子である第一皇子が王になった時に支えられるよう、自ら公爵家へ婿に行くことを望んでいたと。その結果が、アヴァンツァーレ帝国でも屈指の大貴族であった公爵家の令嬢との婚約。
「だから、悪いが公爵令嬢との婚約は破棄した」
そう。新しい家を興し公爵となるのなら、婚約者であった令嬢は一人娘なので婚姻は現実的じゃない。公爵令嬢は婿が欲しく、嫁にはいけない。殿下は嫁が欲しく、婿には行けない。
情報規制して正解だわ。これが知れたら殿下はもちろん、婚約者だった公爵令嬢のもとにも新しい縁談が殺到する。
元々殿下は皇子の身分と血に加え、容姿も能力も持っていました。それが、魔族を退けた英雄という名声までついたのです。どこの貴族も喉から手が出るほど欲しい価値が備わっている。
…?殿下はどうして褒美の内容を私に喋ったのかしら。
疑問が湧くと同時に、殿下の雰囲気が変わる。
「二年前に出会わなければ、別の褒美を願っただろう。だが、出会ったし、それを後悔してもいない。俺は欲しいものは絶対に手に入れたい性分なんだ」
この御方の言葉を聞けば聞くほど、有り得ない可能性が浮かんでは消える。期待しない方が後の傷は小さくて済むのに。
ああ、自惚れてはいけません!
「貴女は婚約者も特別な相手もいないと言った。ならば、考えてほしい」
続きを聞きたいようで聞きたくない。違っていたらと思うと、怖くて。それでも期待したいと心が叫んでいて。
「俺は女が喜ぶ話し方も言葉もそんなに得意ではない。だが、貴女が喜ぶなら努力するし、笑ってほしいと思う。…先に言っておくが俺は何が何でも貴女を諦めないだろう」
―――違う、言いたいのはそうじゃないな。やはり多くの言葉を尽くすのは性に合わない。
髪をかき上げて目をつぶり、開いて真剣に私を見つめてくる。
「ティフォーネ・セラ・セレーノ嬢。貴族足らんとするあり方も、ふと見せる優しさも、その心も姿も尊く、愛しく思う。…この先ずっと、俺の隣にいるのは貴女がいい。俺の妻になってくれないか?」
こみ上げる幸福感と困惑と衝撃で頭がぐちゃぐちゃだ。でも、震える声を絞り出す。
答えは言うまでもありません。
「はい…っ」
次の瞬間には触れるほど近くにグラディウス様の顔があって。
私は温かい温もりの中にいた。
夜会の片隅で行われた私たちの幸せな秘密を知る者はいなかった―――。
どうも、猫佐都です。「貴方がくれた恋色は紅葉」、いかがでしたか?
恋愛ものは難しい…なにせ猫佐都も経験したことがないもので…。
とまあ、恋愛の「れ」の字もない猫佐都が書いたものなので、評価・感想どんどんしちゃってください。
さて、以前投稿した「悪でも罪でも後悔しない人生を」でも載せましたが、この作品でも補足や裏設定を説明したいと思います。
【ティフォーネ・セラ・セレーノ】✽主人公✽
緩く波打つ薄い紫の腰まで届く髪、角度によって朱金にも見える紅茶色の瞳。
身長は167センチ。ボン・キュ・ボンの見事な体型。17歳。
セレーノ伯爵家の長女。他に妹と弟が一人ずつ。
社交界の花の一輪として噂される美人で社交上手。
実は密かにファンから、穏やかな物腰と容姿の色彩から「夕暮れの君」と呼ばれている。
誰から言い始めたのかその名が浸透したため、男性諸君も褒め言葉が自然と偏ってしまった。
【フィオラ・アル・ヴィルトゥ】
亜麻色の髪と深緑色の瞳。身長173センチ。17歳。
スレンダーなモデル体型。騎士のような凛とした雰囲気。
ヴィルトゥ子爵家の長女。他に兄が二人と弟が一人いる。
騎士を輩出してきた家系のため、フィオラもまた剣に才能がある。
ティフォーネと同い年で友人。ティフォーネを尊敬している。
策を巡らせるのは苦手で、社交があまり好きではない。
【異界の聖女】:ヒジリ・サクラノ
セミロングの黒髪、小動物のような大きな黒い瞳。
身長158センチ。日本人らしい小柄さと童顔。18歳。
フォーリア王国が同盟を結ぶ周辺諸国からせっつかされ、召喚した少女。
魔族を撃退した救国の聖女と呼ばれている。
光属性の魔法の適性が高く、中位精霊と契約している。
グラディウスから恋愛相談を受けることがしばしば。
【グラディウス・アルマ・ラン・アヴァンツァーレ】*大国の第二皇子*
赤みがかったクセのある黒髪、たれがちだが冷たい印象を受ける濃い紫色の瞳。
身長187センチ。しなやかな筋肉の付いたイケメン。18歳。
フォーリアの隣国であるアヴァンツァーレ帝国の第二皇子。
表情があまり変わらない。貴族らしい会話が苦手。
魔法剣の天才で、聖女と共に魔族撃退の功績を上げた。
ティフォーネが全く自分に興味がなさそうで焦って聖女に相談するも、その場面を見たティフォーネは仲がいいと思い多くの感情が蓄積しバルコニーへ出る。
それを聖女に知らされさらに焦る。
結果、相談に相談を重ねバルコニーで想いをぶっちゃけることに。
【魔族】
浮遊大陸の一つに住む最も強い人種。
身体能力も魔法力も平均以上。スキルという魔法とは違う能力を全員が持っている。
姿は人型であるが、魔物の特徴もある。
プレアソードで他の全種族に嫌われている、悪。
他の種族の国家侵略や住民の虐殺を行うことも珍しくない。
【世界観】
プレアソードという名のファンタジー世界。
三つの大陸といくつかの浮遊大陸がある世界。
ティフォーネ達がいるフォーリア王国は真ん中に位置する中央大陸の北部にある。
※以前投稿した作品「悪でも罪でも後悔しない人生を」と同じ世界観です。
この度の作品のテーマは「貴族」と「恋」でした。
どろどろの甘々なものではなかったのですが、お楽しみいただけたなら嬉しいです。
普通なら異世界から来ている聖女がメインの恋愛になるのでしょうが、猫佐都はその聖女一行のヒーローキャラの一人がただの貴族女性と恋に落ちるものを書いてみました。
以上、補足と裏設定でした。
今後の状況によってはグラディウスsideも書こうかと検討中。
※感想でご指摘いただいた爵位の間違いを修正しました。
また、内容も一部、貴族のあり方に矛盾しないよう修正しました。
では、お読みくださりありがとうございました。




