第一曲『プロローグ』
――世界は音で満ちている。
私は『音』が大好きだった。
たくさんの音が合わさって奏でる歌が、私にとって全てだった。
ずっと歌っていたい。自分で作った曲で誰かを元気付けたい。
まだ幼い私だったけど、そんな大きな夢を持っていたのを今でも覚えている。
きっかけは簡単な事だった。両親に連れられて、とあるシンガーソングライターのライブを観て以降、私の中では『シンガーソングライター』という確固たる夢が芽生えたのだ。
音楽についてたくさん勉強したし、自分で作曲も出来るようになった。
私はその自作曲を引っ提げて、中学三年生ながら両親に黙って路上ライブも敢行した。
――それが間違いだった。
今の私にはもう夢はない。夢を抱くことすら許されない。
いつしか耳を塞ぐイヤホンも無くなっていた。ウォークマンも捨てていた。自作曲も削除していた。路上ライブの為に頑張って購入したアンプもマイクも躊躇わず捨てた。
何もかもが無くなってしまった。……これでいいんだ。
私の夢はもう終わってしまったのだから、もう何も、積み上げたものは何もいらない。
――散っていく桜の花びらが儚くて、まるで私の夢のようだった。
高校二年生になるこの春。私は在籍していた地元の高校から、隣の県の高校へ転校する事になった。それに伴い両親と一緒に高校の近くへ引っ越し、十六年過ごした街を去る。
離れることに躊躇いはない。あそこにいると思い出してしまうから。嬉しい記憶や楽しい記憶よりも、酷く辛い記憶だけを思い出して、枯れたはずの涙が溢れてしまうから。
一刻も早く、私は逃げ出したかったから。
新居に引っ越しを済ませ、私はお母さんと一緒に近隣を散歩することにした。
本当は一人でも良かったけど、心配したお母さんが着いてきてくれたのだ。
「ここは静かでいいわね、葉奈」
お母さんが周囲の景色を、散る桜を見ながら私の名前を呼ぶ。
君島葉奈。この街に、私の名前を知っている人は家族以外いない。
そうでなくては引っ越した意味がないのだから何も問題は無い。
私はスマホを取り出して、メモ帳にせっせと文字を打つ。
内容はお母さんの言葉に対する返事だ。打ち終わってお母さんに見せる。
『静かなのがいい。新しい高校も、静かに過ごしたいな』
「……そうね、無理にお友達を作りなさいとは言わないわ。寂しい時はお母さんやお父さんに遠慮せず言いなさいね?」
『うん、ありがとうお母さん』
それから私とお母さんは一言も会話を交わさず街を歩いていく。
仲が悪いわけじゃない、むしろ仲良しだ。
お母さんは私が静かな時間を好むことを分かってくれているから。
それから二◯分ほど歩いだろうか。
風で散った桜が目蓋に張り付き、それを取った私はふと視線の先に公園を見つけた。
とても小さな公園で、あまり人が利用しているようには思えない。
とても静かな場所。たまにこの公園に通ってもいいかもしれない。
そう思って、私はお母さんに少し待っててと言って公園に入った。
――その行動は、間違いだったのだろうか。この時の私にはまだわからなかった。
でも、私はこの公園で、――小さな小さな出会いをした。
「~~~~♪」
それはよく聴き慣れたメロディーだった。昔、今は失った夢を抱くきっかけになったシンガーソングライターの有名な曲だ。
歌っていたのは一人の少年。私と同い年か少し上。不覚にも少しカッコいいと思ってしまった容姿の少年は、公園のベンチに腰を下ろし、アコースティックギターを片手に透き通るような歌声で音を、詩を紡いでいた。
私の足が止まる。爪先から髪の毛の先まで這いずる気持ち悪い感覚。
――嫌だ、思い出したくない。
私は耳を塞いでいた。それでも、そのメロディーは私の耳朶を撫でていく。
どうして、どうして――気持ち悪く……ない……?
不思議な感覚だった。今の私は音楽というものが気持ち悪くて仕方がない。あらゆるメロディーが不協和音となって鼓膜を震わせる。……はずなのだ。
でも彼の歌声は……メロディーは、なぜか私の心にすっと入っていく。
止まっていた足が、一歩踏み出していた。ざりっと砂利を踏む音がなり、音に気付いたのか彼は歌うのを止めてこちらに振り向いた。
「あ、すみません、うるさかったですか……?」
そうじゃない。むしろもっと聴いていたいと思ったの。
その想いをすぐに伝えられず、私は思わず首を横に振る。
「ははは、なら良かったです。よければ聴いていきますか? なんつって」
ぜひ、聴いていきたいです。
……なんて事が言えなくて、どうしてか私はその場から走り去ってしまった。
さぞ失礼な女に映っただろう。本当は聴きたいんですなんて言い訳をしたって仕方がない。そうでなくとも彼にも……誰にだって、私なんか気持ち悪い人間に映るんだから。
「あら、葉奈? どうしたの?」
突然走って飛び込んできた私に困惑するお母さんの手を引いて、私はこの公園から足早に逃げ去った。なんで逃げてしまったのか、なんで彼の歌を気持ち良く聴けたのか、どっちも分からなかった。
でもきっと、彼は私と一緒なのだ。……違う、『昔の私』一緒なんだ。
だから歌声に乗った気持ちは伝わってきたし、だからこそ……これ以上聴いていると涙が溢れてしまいそうになる。目を塞ぎたくなるほど眩しくて、耳を傾けたくなるほど鮮やかで、心を閉ざしたくなるほど……音に満ちていた。
――私は、音を失った。
世界は音に満ちているのに、私はその音に混ざれない。
もう失ってしまったのだから、弾かれてしまったのだから。
その夜、私の耳からは彼の歌声が離れる事は無かった。
とても優しくて、一番星のように光り輝く、甘い甘い旋律が。
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