ローレライ
時は中世。人々がその交通手段において、船が一般的になってきた時代。
現代のように精巧な地図があるわけではなく、誰かがぐるりと世界一周を成し遂げたわけでもない。そんな時代の海といえば、まだ見ぬ未知が待ち構えているものの代名詞であった。
ある者はこう言った。『この海の果てには金銀財宝が山のようにある島がある』と。
またある者はこう言った。『海には魔物が棲んでおり、船と人を襲う』と。
そしてある者はこう言った。『海には人と魚の中間の姿をしたものがいて、そのものに認められなければ海を渡りきることはできない』と。
人は、それをマーメイドもしくは、ローレライと呼んだ。
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「おい聞いたか?ガナッフさんのとこの船、この間の漁の帰りに沈んじまったらしい。」
「本当かそりゃ?で、ガナッフさんは?」
「帰ってきてねぇってよ。不死身のガナッフも、やっぱりただの人だったんだな。」
「ああ……あの10年に一度って言われてる大嵐から生還したのにな。呆気ないもんだ。」
「何かよ、噂によるとローレライに沈められちまったらしいぞ?」
「ああ~、海の魔性ローレライか。何でも気に入った男がいると、船ごと沈めて食っちまうとか聞くぜ。」
「おぉ、おっかねぇ!…………なんだか雲行きも怪しいし、こりゃ漁は無理だな。」
「違えねぇ。酒場にでも行くか!!」
漁師たちの間では海の魔物の話は有名だ。その中でも特に噂が絶えないのが、ローレライに関するものだった。
ローレライは、一般的に上半身は絶世の美女の姿をしており、下半身は魚の体をしていると言われている。
突然海の真ん中に現れ、船に助けを求める。見つけた場所が遠く、その場所に近づこうと船を近づけると、進行方向の海中に鋭い岩礁があり、それで船底に穴を開けられ沈められる。
見つけた場所が近ければ、小さい船で何人かで近づき助けることができるが、その船は急に嵐にぶつかり、やっぱり沈められてしまうという。
ならば出会っても無視すれば良いのだが、中々それが出来ない。
そもそも、船の乗組員はほぼ全員が男性。女性に免疫がなければ無視はできない。それに、女性を助けて良いところを見せてあわよくば……などと考える者も多いだろう。何より絶世の美女である。まず無視などしないだろう。
これらの理由から、ローレライによるものと思われる事件は後を立たず、現在も増加の一途を辿っている。ただ実際にローレライに遭遇して生還した試しがないため、結局のところ噂でしかないのだが。
そして、先ほどの2人の漁師の会話を聞き、憤慨している少年が1人いる。
「何だよ、どいつもこいつもローレライの悪口ばっかでさ!ローレライは悪くねぇんだ!!」
少年の名前はピコ。先ほど生還者はいないといったが、ここで訂正しよう。実は彼こそが、ローレライに出会って生還したただ一人の人間なのだ。
ただ彼の場合、状況があまりにも違いすぎた。
遡る事2週間ほど前、彼は友達と一緒に海で遊んでいた。
その日は潮の流れも緩やかで、少年たちは海に潜り魚や貝を採ったりしていた。
そのうちそれも飽きはじめ、沖まで競争することになった。彼は泳ぎに自信があり、実際に競争しても彼が一番遠くまで早く泳いでいた。
やがて他の友達を引き離したところで、ピコは泳ぎ終わり岸へ戻ろうとしたその時、
「(痛っ……ヤバい!!)」
急に足を攣り、激痛が襲いかかった。それにかまけていたばかりに、普段なら平気なちょっとした波に飲まれてしまい、溺れてしまったのだ。
「(息ができない…………オイラ、死んじゃうのかな…………。)」
もう駄目だと思った時、尾ヒレを付けた人が海の底からすごい速さで泳ぎながら近づいて来た。苦しさのあまりそんな事にも気づかないピコは、足の痛みを我慢しながら、もはや抵抗することはやめていた。
「(水ばっかりだ。最後にもう一回、空が見たかったな……。)」
そう思い上を見上げると、綺麗な女性の顔がすぐ近くにあり、びっくりして慌てて息を吐きだした。しかし次の瞬間、
「(…………!!)」
ピコの口は、女性の口で塞がれていた。
不思議なことに、呼吸がどんどん整っていく。
そしてその女性が攣った足に触れると、嘘のように痛みが引いたのだ。
「(……綺麗だなぁ……。)」
女性を見ながら、ピコはそんな感想が出るほど回復していた。
『大丈夫だった?』
水の中だから声など聞こえるはずもないのだが、ピコには女性がそう言っているように聞こえたので、笑顔で頷くと、女性に抱きしめられる。
流石にまだ幼い男の子とはいえ、上半身が殆ど裸に近い、それも美人に抱きしめられるとなると、気恥かしさのあまりそっぽを向いてしまう。
女性は、少年を抱いたまま岸に向かって泳ぎ始めた。
そこでピコは徐々に意識が遠くなり、気がつくと海岸で倒れていた。
目が覚めてから友達に聞いてみたが、ピコしかいなかったと言う。
それでも、ピコは覚えている。足を触られた時に感じた暖かさや、綺麗な顔立ち。何よりも、抱きしめられた時の温もりを。
今もいつも海岸に行っては彼女を探している。もう一度一目だけでも会いたい。お礼を言いたい。ただその一心で。
そんな事があってから、ピコはローレライのことを悪く言う人間は大嫌いになった。
「ローレライはオイラを助けてくれたんだ。優しくしてくれたんだ。ここまで悪く言われてたまっかよー!!」
少年は腹いせに転がっている石ころを思い切り蹴飛ばすと、そのまま走り去って行った。
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「ただいまー。」
少年は家に着くなり、唯一の家族である兄に話し始める。
「聞いてくれよ兄ちゃん!また漁師のやつらが、ローレライを悪者にしやがったんだ!!」
その様子を見た兄は、ため息混じりに答える。
「やれやれ、またローレライか?俺はお前の言うことを疑ってるわけじゃないけどなぁ、みんなが嫌なイメージを持ってる話だろ?お前、あんまりみんなの前でそういう事ばっかり言ってると、いつか誰にも相手にされなくなるぞ?」
「でもさ、やっぱりオイラはローレライを信じたいよ……。」
「信じるなって言ってるんじゃなくてな、あまり口に出すなって言ってるんだよ。はぁ…………酒場でもお前の話を結構聞くが、正直あんまり良い話聞いてねぇんだからな?」
少年の兄は酒場で料理人の見習いをしている。今日もこれから仕事に向かうようだ。
「……じゃあ、俺はそろそろ仕事に行ってくるから。大丈夫だよ。もう少ししたらお前を学校に行かせてやれるくらいには金が貯まるから、そしたら毎日があっという間に過ぎちまって、ローレライの事を口にする暇なんかなくなる。…………じゃあな。晩飯は、台所に干し魚とパンとチーズを置いてるから、しっかり食えよ。」
ピコの頭をくしゃくしゃと撫でながらそう言うと、彼は出勤していった。
「っ~~~~…………何だよ、兄ちゃんまでさ。」
ピコは兄が大好きだ。毎日働いて、ピコのために食事を用意してくれて、たまの休みには山や川に遊びに連れて行ってくれる。でもやっぱり、他の町の人ほどではないが、ローレライの話題には乗り気ではない。
どうすればローレライに会えるのか。どうすれば悪いイメージを変えられるのか。
少年は考え、そして決意した。
「よおぉーっし、オイラは漁師になるぞ。漁師になって、必ずローレライに会うんだ!!」
とにかくローレライに会えば、全て解決できるはずだ。そう考えたピコは、いてもたってもいられない衝動に駆られていた。
その日の夜は中々寝付けず、少年が寝付いたのは辺りも白んできた頃。
彼は、ローレライにいつか会う夢を見ながら、深い眠りについた。
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ギシッ、ギシッ…………ギシッ、ギシッ…………
強い風と波に揺られ、船が悲鳴を上げる。
船底の樽詰めの食料はあちらこちらに散乱している様子から、かなり酷い嵐に遭っていることが伺える。
そんな中、酒瓶を片手に眠りこけていた青年は目を覚ました。
「……ん?…………そうか。久しぶりに、昔の夢見ちまったのか…………。」
青年の名はピコ。彼は幼き日の決意を胸に、目指していた漁師になっていた。
あれから無事に学校に通い、卒業して直ぐに漁師になった。
だが、直ぐに彼の兄は病気で死んでしまい、漁に出て帰ってきては酒場で呑んだくれるその日暮しの生活を送っていた。
そんな日々が長く続き、いつしか彼はローレライの事を忘れていた。
「…………俺は何でこんな事してたんだっけか?……………………あっ、やべぇっ!!他の奴らは!?」
彼は今、漁に出ている最中。今日は何となく天気が荒れそうな気配がしていたが、ここ最近思うように魚が獲れず、蓄えた金や食料も底をつき始めていたので、焦った彼は他の乗組員たちの反対を押し切って漁に出たのだった。
漁の成果は、久しぶりの大漁で、予想に反して天気にも恵まれていた。本当はもっと早く上がっても良かったのだが、欲を掻いた彼は沖に長居してしまい、結果的に嵐に巻き込まれてしまったのだが、そこからが酷かった。
乗組員たちは初めは黙って嵐を乗り切るために舵をとっていたが、そのうちの一人がポツリと文句を呟いた。それを耳にしたピコは激しく怒り、大喧嘩に発展。ついには乗組員たちは全員言うことを聞かなくなり、ピコは食料のある船倉にこもり、やけ酒を煽っていたのだ。
そこまでのいきさつを全て思いだし、急いで甲板に出る。だが、全てが遅かった。
「ああ…………そんな……………………。」
メインのマストは柱が中心部分から真っ二つに折れ、甲板で帆を張り舵をとっていた乗組員たちは、誰もいなくなっていた。恐らく、皆流されてしまったのだろう。
彼は頭が真っ白になった。皆自分のせいだ。彼はそう思い、自分を責め続ける事で辛うじて自身を保っていたが、その精神は崩壊寸前だった。
もう死ぬしかないのか。
何もかも諦めた時、彼は幼き日の夢を思い出した。
目の前には、高い波が迫っていた。
「……絶対に、俺は生きて帰るぞ!もう一度、ローレライを探すために!!」
彼は己を鼓舞しようと、口に出して叫んだ。
その瞬間だった。
徐々に嵐は止み始め、次第に波は凪へと変わり、先程まで嵐であったことなど微塵も感じさせない静けさに辺りは包まれる。まるで、そこは湖であるかのように。
「……なんだここは?俺は…………もしかして死んじまったのか?」
『いいえ、貴方は死んでいないわ。』
独白に、誰もいないはずの空間から声がする。右を向き、左を向き、そこには誰もいない。
だが、後ろを振り向くと、
「!…………ああ……あんたは……!!」
美しい女性が立っていた。
幼き日に見た出で立ち。ずっと探し求めてきたもの。それが、今確かに彼の目の前にあった。
「ずっと私を探してくれていたわね。元気だった?…………あら、どうしたの?」
女性は、懐かしさもあるのだろう、嬉しそうにピコに話しかけるが、その時に彼の変化に気づき、その言葉は挨拶から相手の状態の確認に変わった。
「……へ?…………俺、何かおかしいかな?」
「うん。だって貴方……………………。」
泣いているじゃない。
そう女性に言われるまで青年は、自分が大粒の涙を流していることに気がつかなかった。
久しぶりの再会で涙はいけないと思いつつも、一旦自覚してしまったものはもはや止めようがなく、次第に涙は勢いを増していき、ついにはしゃがみ込み嗚咽混じりで泣き始めてしまう。
「ぐすっ………う、っく…………俺、…………会いたかったん……だけど、お、れは……。」
まるで子供用に泣きじゃくる青年は、まるで幼き日に戻ったようにも見えた。
それを、やはりあの日のまま、優しく抱きしめる彼女。
「……良いのよ。もう良いの。貴方は頑張ったわ。頑張って、私を思い出してくれたわ。嬉しいのよ、私。本当に嬉しいの。だから、今は泣きなさい。辛かったでしょ?苦しかったでしょ?…………私は、ずっと貴方を見てたわ。貴方は私を忘れてしまうまで、ずっと私をかばってくれたよね?ありがとう、ピコ。」
その言葉を聞き、より一層止めどなく溢れ出す涙。
彼は、初めは探し求めていた相手に出会えた安心感で涙を流し、今は相手が言った心のどこかで求めていた言葉を聞き、嬉し涙を流していた。
やがて、泣き終え、落ち着きを取り戻すピコ。
「…………悪かったな、みっともない格好見せちまって。」
「ううん、良いんだよ?私はあなたの事、小さい頃から知ってるんだから。」
その言葉を言われ、顔を赤くしてそっぽを向くピコ。彼女はそれを見て笑いながら、
「私が抱っこしてあげた時もそうだったね。貴方は照れると直ぐにそっぽ向いちゃう。昔から変わってないんだ。…………安心した。」
「……なぁ、何で、会えなかったんだ?俺のこと見てたんだろう?何で。」
「…………私は、人間じゃないのよ。わかる?貴方は年を取って立派な男の人になったけど、私はあの頃のまま。私たちは、触れ合っていてはいけないの。」
ピコはとても寂しい気持ちになった。彼女の言葉に別れを感じたからではない。彼女が自分と見えない壁を作って隔てている事に。
ピコは、彼女をそっと抱きしめた。
「寂しいこと言うなよ。そうやってずっと一人で過ごしていくつもりなのか?…………俺はもう、どこにも行かないよ。」
「本当……?でも、貴方は……。」
「俺はもう兄貴もいないし、家で帰りを待ってる人間なんていないからさ。だから、俺が傍にいるよ。」
彼はとうとう、何年越しかの気持ちを伝えた。
しかし、その言葉に対しての彼女の言葉は、少しだけ彼の思惑とは違うものだった。
「わかったわ…………でも駄目よ。それはできないわ。」
「えっ…………?」
「できないのよ。やってはいけない。だから……………………。」
「私が貴方の、傍にいるから……。」
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「おいおいおい、聞いたかよ。ピコの船、あの大嵐の中ボロボロになっても戻ってきたらしいな。」
「ああ、聞いた聞いた!スゲェ事もあるもんだよな!」
「おまけにピコの奴、どこで捕まえやがったのか知らねぇけどよ、すんげぇ別嬪さんと抱き合ってたらしいからな!」
「ヒュ~やるねぇ。見せつけてくれるじゃねぇか!」
「見た奴の話だとよ、別嬪さんと抱き合って、お互いにすんげぇ幸せそうな顔してて…………。」
「ほお、ほお。それで?」
「船底で死んじまってたってよ…………。」