Episode9 消えないキモチ
「佳子先輩? 聞いてますか?」
箸を持ったままぼーっとしていた私の顔を覗き込んで、鈴音が訊いてくる。それに漸く私は正気に戻り、背筋を伸ばして目をしっかりと開いた。同じく弁当を前に箸を持った鈴音の顔に焦点を合わせる。しゅんと不安そうな顔をしている彼女。
「もしかして、お口に合いませんでしたか?」
「いやいや! そんな事ないよ!」
私とした事が、折角の好意なのに鈴音を不安にさせてしまった。慌てて箸を弁当に伸ばし、卵焼きを掴んで口に運ぶ。
「……うおっ」
美味しい。なんだこれ、今まで食べた事が無いくらいに美味しい。うちは甘い卵焼きが常なのだけど、この出汁の卵焼きはそれを覆すくらいに美味しい。
びっくりして顔を上げてみると、鈴音は私の反応を見て嬉しそうに微笑んでいた。
昼休みの空き教室は、鈴音が先生に無理を言って使わせてもらったようで、当然ながら私達以外の姿は無かった。
先程明美と楓と一緒に食堂へ行こうか机に座って考えていたところ、鈴音が私の為に作ったという弁当を持ってやってきて、今に至る。
––––鈴音に全てを話してしまってから一日、鈴音は昨日の言葉通りに私の相談に乗るべく頑張ってくれている。
相談はどうにせよ、私が鈴音に救われているのは確かだ。昨夜も鈴音とメールのやり取りをしていなかったら夜通し泣き続けていたことだろう。でも何とかそうならずには済んだ。
今朝も、二人の登下校に水を差したくないと言う私の為に、電車でやって来る彼女と駅で待ち合わせて一緒に学校まで行くことになった。
いや、水を差したくないなんてただの言い訳だ。本当は二人を見ているのが辛いから、逃げているだけ。その逃げに後輩を付き合わせてしまうなんて、私は本当にダメな先輩だ。
この昼休みだってそうだ。結局は二人と一緒に食べているのが辛いから逃げてきただけ。まぁ結果的には付き合い始めた親友の邪魔をせずに済んでいるのだから、それはそれでいいのかもしれないけど。
それにしても、まさか鈴音が突然弁当を作ってやって来るとは思っていなかった。今まで二年間一緒にいるのに、そんな事は一度も無かったし。それどころか一緒に昼休みを過ごした事も無い。
「なんか、ごめんね?」
思わず謝ってしまうと、鈴音は顔を上げて何を謝られているのか分からないというように首を傾げた。その反応に私は言葉を続ける。
「弁当もらっちゃったのもそうだし、普段一緒に食べてる人達もいるだろうに私に付き合わせちゃったしさ」
「いえ、全然大丈夫ですよ」
苦笑する鈴音。
「普段は一人なので」
「……え?」
思わず、箸が止まる。
普段は一人? それってつまり、昼休みはいつも一人でご飯を食べてるって事?
だってクラスの友達とか、色々いるじゃない。
鈴音はさも当然の事のようにけろっとしているけど、全然大丈夫じゃない。
「えっ、ほ、ほんと?」
「恥ずかしながら……」
目を逸らしながら、乾いた笑いを漏らす鈴音。それ以上は触れないでくれと言っているようだった。
確かに考えてみれば、鈴音が誰か友達と一緒にいるところを見た事が無い。たまに文芸部の一年生といるところを見るけど、昼休みあの二人は二人だけで食べていると聞いている。やはり先輩が後輩の中に入っているのは息苦しいものがあるのだろう。加えてあの二人は昔っからの幼馴染で、付き合ってるんじゃないかってくらいに仲が良いのだから尚更だ。
「そう、なんだ」
顔も良くて成績も良くて性格も良い。クラスに友達が出来ない要素なんて無い筈なのに。
確かに鈴音が「完璧すぎて近寄り難い」と噂されているのを聞いた事がある。今考えるとそれ故に周りから距離を置かれてしまっている、という事だろうか。
何が洞察力が優れている、だ。後輩のこんな事すらにも気づいていなかっただなんて。
「だから全然気にしないで下さい」
……いや気にするって。
口には出さないけど、心の中で呟く。もっと早く気づいていれば良かった。私達は次のテストが終わったらもう学校に来る事自体少なくなってしまうし、もうあまりに遅すぎる。
「っと、私の話はいいです。先輩の話をしましょう」
重くなった空気を振り払うように、鈴音が明るい声を出す。しかしその内容はその声とは裏腹に私の心を重く揺れ動かした。
「先輩は、このまま二人と距離を置き続けるんですか?」
そうだ、それが問題なのだ。
私は二人の親友でいたい。でも、付き合っている二人を見ているのは辛い。その矛盾が葛藤となって、私を苦しめている。
明美ともっと一緒にいたい。楓と冗談を言い合って笑いたい。でも明美に対するこの強い思いが、楓に対する黒い感情がそれを許してくれない。
だから私には二人と距離を置く事しか出来ない。こうしていれば、誰も傷つかずに済むから。本当に二人の事を思っているのなら、きっとこれが最善の選択だ。
「……二人の邪魔は出来ないからねー」
強がって、笑ってみる。鈴音はじっと私の目を見つめていた。ゆっくりと、唇を動かす。
「……寂しく、無いんですか?」
寂しいに決まっている。いつも私達は三人で一緒だった。そして、これからも。大学だって三人一緒だ。でも、二人の間にいる私はもはや邪魔者。一歩後ろから、二人を見ている事しか出来ない。明美の楓に向けた笑顔を、見ている事しか出来ない。
「……ま、会えなくわけでも無いし」
また強がって、弁当箱の中の煮物に箸を伸ばす。
私は今まで何度も自分の気持ちを押し込んでひたすら隠して来た。そうすれば他の人が幸せになれるから。確かにこの明美への気持ち、好きという気持ちは絶対に消えてはくれない。でもそういう事には慣れている。だから私は平気だ。
それよりも、心配なのは鈴音の方だ。
本当に寂しいのは、あなたの方なんじゃないの?
私の事を助けるより、自分の方を鑑みた方が良いのではないだろうか。
「……辛かったら、私に話して下さい」
それでも鈴音は微笑む。私には、きっと鈴音の気持ちを読む事は出来ない。一体何故、鈴音は私のわがままで最低な嫉妬にまみれた話を全て受け入れてくれるのだろうか。どうしてこんなにも心配してくれるのだろうか。
分からない。
でも、私の気持ちを包み隠さず素直に話せるのはもう鈴音しかいない。
「……うん」
だから、頷くしか無かった。
放課後、私は一人で帰宅するべく廊下を歩いていた。やっぱり二人と一緒に帰るのは辛かった。今明美と楓に会ったら、またこの気持ちが抑えられなくなりそうで怖い。まるで悪い事でもしているように、こそこそと周りを伺いながら歩く。
しかし、
「佳子!」
その声が私を呼び止めた。振り返る。
「明美……」
胸が痛む。
少し離れた場所で、明美は私を呼んでいた。その顔に笑顔は無い。当然だろう。朝も昼も私は二人から逃げていた。二人だって何かがおかしい事くらい気づいているだろう。
明美はぱたぱたと走ってきて、私の前で止まる。じっと私の顔を見つめて、目を細める。その美しい黒髪が揺れる。
「……一緒に帰ろ?」
漸く明美は微笑んだ。しかしその微笑みは、どこか無理をしているように見える。まるで私に気を遣って笑っているような。
「私は……」
鞄の紐をぎゅっと握って、目を伏せて明美を見まいとする。
駄目だ。やっぱり駄目だ。
「おーい明美、佳子見つかっ……いるじゃん」
明美の後ろから、楓が私達を見つけて走って来た。明美の隣に立って、むすっと不機嫌な顔になる。そして街中で絡んでくるチンピラのように私の顔を覗き込んだ。
「おうおう佳子さんよー。黙って行こうなんて甘いんだよ」
冗談混じりにそんな事を言う楓。
私の気持ちも知らないくせに。そんな怒りさえ湧いてきてしまう。でも、ここで二人に当たるのは間違っている。
もう二人から逃げる事は出来ない。だから私はいつもの笑顔を作る。
「よし、帰ろっか」
明美は嬉しそうに笑った。しかし、楓は私の笑顔を見て疑うように眉を潜めた。
「昨日はごめんね?」
校門を出て、通学路を歩き出すと突然明美がそんな風に切り出した。
私の左側には明美。右側には楓。三人で歩く時の、いつもの並びだった。恋人同士の二人を私が断ち切るような構図。本来なら私は二人が歩いているのを後ろから見つめているのがお似合いなのに。
「昨日って?」
訊くと、今度は楓が言う。
「いやほら昨日佳子さ、気を遣わせちゃって帰っちゃっただろ?」
「あぁ……」
確かに気を遣ったのは確かだけど、どちらかというと辛くて逃げて来たの方が正しい。でもそれは口に出せない。
「二人の邪魔をしちゃいけないからねー」
本日二回目の台詞。すると楓は眉を吊り上げて、怒ったように私の顔を見据えた。
「それはそれ。これはこれ。佳子を邪魔だなんて思わないって」
「そうだよ」
本当に二人はいい友達だ。でも二人がいくらそう言ってくれても、私は二人と距離を取る事しか出来ない。
「明日は一緒に学校行って、昼ご飯食べよ?」
明美が優しい笑顔を見せる。本当に明美は優しい。でもその優しさが私を苦しめる。
違う。気を遣っているんじゃない。私は明美が好きだから、二人を見ているのがつらいから逃げているだけなの。思わずそう口をついて言いそうになってしまう。でも必死に耐える。言ってしまったら、私は二人の親友ですらいられなくなってしまうから。
「それじゃーなー」
いつものT字路で、楓と別れる。
明美は幸せそうに微笑みながら手を振って楓を見送っていた。無意識にぼーっとその横顔を見つめてしまう。
私と明美との距離は、前よりも更に遠く感じられた。
「じゃ、帰ろっか」
明美が歩き出す。私も慌ててその後ろを追いかけた。
明美が巻いているマフラーは、楓が明美の誕生日プレゼント用に買った物だ。どうやらうまく渡せたらしい。明美は白い息を吐いて、マフラーに口を隠した。
二人きりの帰り道。今まで幾度となく繰り返してきた筈なのに、胸が今まで以上に高鳴っている。体が火照る。胸が苦しくて、自然と目線が左へと向いてしまう。
住宅街の中を会話もなく歩く。明美はおしゃべりなタイプじゃないからいつもは私がぺちゃくちゃと話しているのだけど、今日はその私も黙っているから必然的に会話が無くなる。
それでもちっとも気まずく感じないのは、やはり明美だからだろう。
そんな時、ふいに明美が私に視線を向ける。
「昼休みさ、鈴音ちゃんと一緒にいたの?」
「……えっ」
何で知っているんだろう。思わず額に汗が伝う。何も後ろめたい事なんて無い筈なのに、心臓が更に鼓動を早めた。
「えっ、いやその……そうだけど?」
嘘はつけないからそう答えると、明美は「うーん」と指を顎に当てて少し考える。
「何だか最近、明美と鈴音ちゃんが一緒にいる事多いよね」
「そ、そうかな」
「うん、だって楓も今朝佳子と鈴音ちゃんが一緒にいるのを見たって言ってたし」
確かに最近、特に昨日からだけど鈴音と一緒にいる時間が多い。また家に帰ってからもメールをしたりしてるけど、それは鈴音が私の相談に乗ってくれているからだ。
明美は何か言おうとして口を開き、すぐに閉じる。これは明美が何か言いずらい事を言おうとしている時のお決まりの仕草だ。
「何?」
こちらから訊いてみると、覚悟を決めたように一度頷いて言った。
「佳子はさ、鈴音ちゃんの事どう思ってるの?」
……はい?
「いやどう思ってるって……」
質問の意図が全く掴めない。しかし、明美はものすごく真面目な顔で私を見つめている。
鈴音は部活の後輩。どう思ってるも何も、大切な後輩といったところだろうか。
でも、明美のこの真剣過ぎる様子を見るにきっとそういう事を訊きたいのではないだろう。そうまるで、恋愛感情があるかどうか尋ねるような、そんな感覚すら覚える。
……なんて、まさかね。明美は私が同性を好きになる人だという事すら知らないしそれは無いか。
「……大切な後輩だと思ってるけど?」
だから無難に答えるとまだ暫く明美はじっと私を見つめた後、表情を緩めて諦めたように微笑んだ。
「だよね」
明美はまた前を向いて歩き出す。
私の頭の中では今の質問がぐるぐると頭の中で回っていた。
そう、まるで私を鈴音に取られて拗ねているような、そんな風にも見えた。いや絶対に、絶対にそんな事は有り得ないのだけど。だって明美は楓と付き合ってるし。
胸に手を当てて、白い息を吐きながら呼吸を整える。
明美は、いつだって私の心をかき乱す。
やっぱり私はどうしようも無いくらいに明美が好きみたいだ。