Episode7 敗者のキモチ
「あれ? 佳子先輩、どうしたんですか?」
明美の家を出た瞬間、家の前でインターホンを押そうとしていた鈴音に出くわした。鈴音はベージュ色のコートを身に纏い、マフラーで口元を覆うようにして立っている。右手にはスーパーの袋がぶら下げられていた。
「あ、鈴音……おはよ」
頑張って、とっさに笑顔を作る。
「……もう帰っちゃうんですか?」
不思議そうに鈴音が訊く。それもそうだろう。まだ日も暮れるどころか正午を少し過ぎた程度の時間だ。普通、まだ帰るには早すぎる。
でも、私は帰らなくちゃいけない。だって、せっかく「恋人」になった二人の邪魔をしたら、いけないでしょ?
「ちょっと体調悪くてさ……ごめんね?」
「……」
何に対して謝っているのか自分でも分からない。鈴音は納得していないようにじっと眉を潜めていた。まるで、私の心の中を見透かそうとしているように。
「あ、ええっと……じゃあね?」
逃げよう。そう思って、慌てて会話を終わらせる。足早に鈴音の隣を通って、
しかしすれ違う瞬間、鈴音の左手が私の右手を掴んだ。
「何があったんですか?」
前を向いたまま、間髪を入れずに鈴音が私に訊く。息が詰まる。心臓の鼓動が増す。
「え、何もないけど?」
私も前を向いたまま答える。必死に冷静を装って、落ち着いた声で。
「じゃあ何で」
鈴音が声を少し荒げる。
暫くの沈黙。そして再び口を開き、
「何で泣いてるんですか?」
「……え?」
鈴音に言われて、初めて気が付いた。
私の頬に、一筋の涙が伝っていた事に。
これで良かったんだ。
二人は幸せになった。私は二人の親友でいられた。これ以上、何を望む事があるだろうか。
私が明美に気持ちを伝えたところで、どうせ結果はこうなっていた。選ぶ余地なんて、最初から無かったんだ。
なら二人の背中を押す事が、最善の選択だった。
だから、これで良かったんだ。
「……は、ははは」
思わず、笑いが零れてくる。
そう! これが一番のハッピーエンド。二人が幸せになれば、私のこの気持ちなんてどうでもいいのだ。
そう、どうでも。
「佳子先輩」
突然笑い出した私を心配するように、鈴音が私の名前を呼ぶ。泣きながら笑って、他の人から見れば私はただの変な人だ。
なんで私は泣いているんだろう。別に泣く理由なんて、無い筈なのに。二人が幸せになるならそれだけでいい筈なのに。どうして私は泣いているんだろう。
分からない。
二人を祝福しなくちゃいけないのに、出てくるのは絶望と憎悪だけ。二人の親友でいられたからそれでいい? まさか。こんな私には、きっと二人の親友を名乗る資格なんて無い。
じゃあ私は、何だ?
ただ嫉妬も出来ないままに二人を遠くから眺めるだけの存在だ。
「佳子先輩!」
ぎゅっと手を握って、鈴音が必死に私を見つめて名前を呼ぶ。私はただ笑いながら泣いていた。後輩にこんな姿を見せてはいけないと頭では分かっているのに、涙は止まってくれない。
だから思い切り駆け出した。二人と鈴音から逃げるように。現実から目を背けるように。
抑えきれない衝動。深い悲しみと絶望。黒い感情。
その全てから逃げるように、思いきり駆け出した。
この気持ちがどうでもいいだなんて、思えなかった。どんなに自分に言い聞かせても、明美を思うこの気持ちは消えてくれない。
あの笑顔は、もう私のものにはならないのだ。
嫉妬をする権利なんか無い。結果は分かっていると割り切ったつもりでいて、結局は気持ちを伝えるのが怖くて、この親友という関係を壊すのが怖くて、逃げを選んだ私には。
視界がぼやける。身体中が熱を帯びている。頭がクラついて、まともな思考が出来ない。息が切れる。頬を、何かが濡らす。
それでも必死に駆けた。もう自分が何処を走っているのかも分からなかった。
道ゆく人が何事かと私に視線を向ける。
見たいなら見ればいい。逃げを選んだ末の、惨めな敗者の姿を。
「せ、先輩!」
もう何も見えなかった。ただ嗚咽を抑えながら必死で走る。
「先輩!!」
冷たい風が顔に当たって涙を飛ばしていく。どこかでクラクションが鳴る。
明美が楓のものになってしまった以上、もう私に生きる希望なんて無い。この気持ちを抱えて生きるだなんて、出来そうにも無かった。
だから車に轢かれるならそれもいい。
思わず、足が止まった。
「先輩!」
その時、誰かが私の手首を掴んだ。
「何やってるんですか!」
またクラクションが鳴らされ、誰かが私に叱咤をする。涙でぼやける視界の先に、その姿が見えた。
「鈴音……」
彼女は私の手首を掴んだまま、駆け出す。涙を拭って、漸く状況を理解する。
私達は赤信号の横断歩道のど真ん中にいた。私達が歩道に辿り着くと、後ろで車が怒るようにスピードを出して発車した。
それをどこか遠くの出来事のように見届けてから、私は漸く私の手を引いていた彼女に視線を向けた。
鈴音は胸を押さえて息を整えていた。やがて顔を上げて、私を見据える。その顔は怒っていた。
「何やってるんですか!!」
そっちこそ、何でこんな私を追いかけてきたの?
鈴音は私に詰め寄る。
その体は、震えていた。
「こんな……こんな事……」
私が車に轢かれようとしていた事を言っているのだろう。そうだ、私は死のうとしていた。もう、生きる希望は無いから。この辛い現実にはもう耐えられない。
「先輩!!」
ずっと黙っている私を、鈴音がぎゅっと背中に腕を回して抱きしめた。右手からスーパーの袋がアスファルトの上に落ちる。確かな温もりと、柔らかな感触。
突然の事に、私も我に返る。
「黙ってないで……何か言って下さい……」
そこで気が付いた。
鈴音も、震えながら泣いていた。
鈴音は心から、こんな私の事を心配してくれているのだ。
周りで何人かの人が私達を指さしてこそこそと話す。道のど真ん中で、突然泣きながら抱き合う女子高生。興味が湧くのも当然だ。でも私はどうしたら良いのか分からなくて、動く事が出来なかった。
鈴音が私に顔をうずめたまま言う。
「つらい事があるなら……話して下さい……」
「……え?」
話す? 何を?
「先輩がつらそうな理由を……教えて下さい」
私がつらそう?
私はいつだって平気なように振る舞っている。だって私は「そういうキャラ」だから。いつだって笑顔を絶やさないで、底抜けに明るくて。だからつらそうな様子なんて見せた事が無い筈なのに、
「全部抱え込まないで下さい」
この気持ちは、隠さなくちゃいけない。
「本当の気持ちを……教えて下さい」
限界だった。
私は声を上げて泣き出した。
明美への気持ちとか、楓への憎しみとか、失恋の悲しみとか、そういうものが全て流れ出てくるようだった。
もう私は、抱えきれない。
強いように振る舞う事は、出来なかった。
鈴音はそんな私を何も言わずに静かに抱きしめた。ああ、なんて私は格好悪い先輩だろう。今まで元気に振る舞ってきたのが全て台無しだ。
それから先の事は、よく覚えていない。
泣き出した私の事を気遣って、鈴音は私を近くの公園へと手を引いて連れてきてくれた。
それから、全てを話してしまった。
どうして話してしまったのかはよく分からない。ただ、誰かに聞いて欲しかったんだと思う。今まで頑なに隠し続けてきた全てを、私は全てこの後輩に吐き出してしまった。
辛い現実にはもう、耐えられなかった。自分の中に収めておくには、余りに辛かった。
鈴音は、何も言わずに頷いて全てを受け止めてくれた。
全てを話し終えて、涙も枯れた頃には強い羞恥と後悔が私に押し寄せていた。
言ってしまった。もう何も隠している事は無い。今まで必死に見せまいとしてきた私の弱い部分を、全てこの後輩に見せてしまった。
まるで鈴音の魔法にかかったように、全てをさらけ出してしまった。
鈴音はどう思っているだろうか。女同士なのにこんな思いを抱いているのを、気持ち悪いと思うだろうか。
また、流れで楓と明美が付き合う事になったと話してしまったけど、これを言ってしまうのは二人への裏切り行為になっている。
やっぱり私は、最低だ。
「……先輩」
私が話し終えると、鈴音は結んでいた口を解いて漸く言葉を発した。
公園では遠くの砂場で子供達が何人か遊んでいる。それをぼんやりと見つめる私の横顔をじっと見つめて、
「私、なんとなく分かっていました。先輩は、明美先輩の事が好きなのかなって」
「え……」
驚いて、鈴音を見据える。
気づかれてた? という事は、この間の質問はやはりそういう意味だったのだ。
「……これからどうするんですか?」
鈴音が、私に訊く。それを訊きたいのは私の方だ。一体私はこれからどうすればいいんだろう。
二人が付き合っている以上、私達はもう前のようにはいられない。二人は私の事を望んではいない。二人きりで、いたいと思う筈だ。私だって目の前で楓と明美が笑って、触れ合っている姿を見ていたくない。なら、どうすればいいんだろう。
「わかんないよ……」
素直にそう答えると、鈴音は「そうですか」と小さく呟いた。
私達の間に沈黙が落ちる。子供達のはしゃぐ声と、ボールが地面を跳ねる音が聞こえてきた。
私は本当にどうするんだろう。二人と距離を置く事しか、もう出来る事は無い。
「……私、いつでも相談に乗りますから」
「……鈴音が?」
大真面目な顔で「はい」と頷いて答える鈴音。それが何だか可笑しくて、私はつい吹き出してしまった。鈴音は不満げな顔をする。
「な、なんですかー」
「ふふっ、ごめんごめん何でもない」
今までは私が鈴音の相談に乗った事しか無かったのに、これは変な感じだ。
鈴音が相談に乗る、か。
あまり想像は出来ないけど、現に今全てを話してしまって、心の中を軽く感じているのは確かだ。さっきまでは全てが絶望に染まっていたのに、今ではこうして多少演技が入っていたとしても笑う事が出来る。今まで全て溜め込んでいたものを、誰かと共有する事が出来る。私は今までそれを避け続けてきた。弱い部分を必死に見せまいとしてきた。
楓と明美が私に相談してきたのも、そういう理由からかもしれない。きっと胸に抱えたその気持ちを、私に話して軽くしたかったんだろう。
人に心の中を見せる事は、そう悪い事じゃないのかもしれない。
「頼りにしてるよ」
右手で鈴音の頭を撫でる。鈴音はびくりと体を震わせて、一気に顔を真っ赤にした。続けていると段々とその表情が緩んでくる。
いつもは馬鹿がつく程に真面目な鈴音がこういう表情をする事は、きっと私達しか知らない。
私はこれから、どうなるのだろう。
とりあえず分かる事は、私はもう一人でこの明美への気持ちという荷物を抱えているのでは無いという事だ。