Episode26 揺るがないキモチ
まだ夜が明けたばかりの道を全力で駆ける。
こんなに走ったのはいつ振りだろう。多分、体力測定の時以来だ。
身体のあちこちが悲鳴を上げている。呼吸が苦しい。それでも足は前へ前へと進もうとする。
肺が酸素を求めて空気を吸い込もうとする。でも空気は白い煙となって吐き出されるばかりだった。
私と楓の携帯に送られてきたのは地図。
送信者は鈴音ちゃん。
文章はなくとも、この地図が何を意味するのかは一瞬で理解することができた。
佳子はこの場所にいる。
確信した私たちは、何も考えずに家を飛び出していた。警察に任せようだとか、佳子のお母さんに伝えようだとか、考えるべきことはいくらでもあったはずなのに。
「明美、大丈夫?」
私よりも余裕そうな楓が、不安そうに顔を覗き込んできた。私は小さく頷いて応える。
この程度の苦しさ、佳子が胸に抱えている何かに比べれば軽すぎるくらいだ。
始発電車に飛び乗って、地図に書かれている場所に向かう。
こんな時間でもスーツ姿の大人たちは黙って電車に揺られている。新聞を読んでいる人もいればスマホを弄っている人もいて。息を切らして座っている私たちはひどく浮いているように感じた。
「……鈴音ちゃんは、どうやって佳子を見つけたんだろうね?」
尋ねてみると、眠そうに目を擦っていた楓は露骨に目を逸らす。どうしてなのかは分からない。恋人である私にも言えないことを隠してるってことは分かる。
佳子と会って話したら、楓も話してくれるのかな。
私だけが取り残されているみたいで、寂しい。
数駅分電車に揺られて、地図に記されていた最寄駅で下車する。改札と小さな売店があるだけの簡素な駅で、降りた人は私たちしかいなかった。
改札口を出るとバスのロータリーがあって、その先には住宅街が広がっている。私たちとすれ違うように、大人たちや大きな鞄を持った高校生が改札口に吸い込まれていった。
地図を確認しながら住宅街へ向かう。
目印が指し示すのは、普通の住宅のようだった。私はここが鈴音ちゃんの家じゃないかと思っている。きっとどこかで佳子を発見して、家に入れてあげたのだろうって。
目的地が近づくに連れて、不安ばかりが増幅していく。
佳子の冷たい表情。鈴音ちゃんの心から嬉しそうな笑み。その裏に隠された私だけが知らない秘密。それを覗いていいのか。覗いたら全てが終わってしまうのではないか。そんな自問自答を繰り返す。
でもここまで来たらもう、引き返せない。
「…………ここだ」
足を止めた楓が赤い屋根の家を指差す。
鈴音ちゃんはお嬢様という噂があったから、どんな豪邸が出てくるのかと思っていたけど、何のことはないごく普通の一軒家だった……こんなこと思ったら失礼かな?
表札を見たら鈴音ちゃんの名字が書かれていたので、ここに住んでいるのは確かだ。
楓と顔を見合わせてから、勇気を出してインターホンを押す。しかし何の反応もない。呼び出し音すら鳴らないということは、インターホンの電源自体が切られているのかも。
困っていると、楓は迷わずドアノブに手を伸ばした。
「……鍵が開いてる」
「え?」
私の瞳をじいっと見つめてくる楓。何を考えているのかなんて、簡単に想像できる。
「……勝手に入るのはだめだよ」
「ここに佳子がいるかもしれないんだよ?」
いくら鈴音ちゃんの家だとはいえ、許可なく立ち入れば不法侵入……でも、楓の言っていることも分かる。せっかくここまで来たのに引き返すなんて、できない。
「……おじゃまします」
声をかけてから、ゆっくりと玄関に入る。
廊下は暗くひんやりとしていて、誰かがいる気配はなかった。
「鈴音ちゃん、いるの?」
声を張って鈴音ちゃんを呼んだ。
でも、返ってくるのは沈黙ばかり。楓はもどかしさに耐えるように、拳を握って震わせる。
「明美、佳子を探そう」
「えっ、でも……待って楓!」
止める間もなく、楓は靴を脱いで廊下を駆けて行ってしまう。私も慌ててその背中を追った。
廊下には埃ひとつなくて、その生活感の無さにはある種の恐怖すら感じる。
ぴんと張りつめたような緊張感。それがどこから来るものかは分からない。
リビングに出たところで楓に追いついて、その腕を掴んだ。
「楓、だめだよ」
「…………明美。ここ、おかしい」
振り返った楓は、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
周囲を見渡して、私もその意味を理解する。
このリビングには生活の跡がなにひとつない。家具は揃っているけど使われた形跡はなく、本棚には一冊の本も並んでいなかった。鈴音ちゃんは、本当にこんな家に住んでいるの?
佳子は、本当にここにいるの?
「……楓、落ち着いて」
手を握って楓を落ち着かせる。その柔らかい温もりで、私も落ち着きを取り戻す。
「まずは佳子のお母さんに連絡して、それから」
「…………明美、あれ」
言い終わる前に、楓が何かを発見して指差した。私も振り返って、目を見開く。
リビングの隅にひっそりと佇む、明らかに不自然で無機質な扉。
あれはいったい、なに?
「行ってみよう」
決意したように楓が言った。
「……だめだよ。なんか、怖いよ」
直感が告げている。この家はなにかがおかしい。そしてあの扉の先には、見てはいけないものがあるような気がして。でも楓はするりと私から離れると、その扉を躊躇いもなく開いてしまう。
その先に続いていたのは、無機質な階段。コンクリートが打ちっぱなしになっている薄暗い通路。配線がむき出しになった電球だけが、それをぼんやりと照らし出していた。
「なに、これ」
私も楓も言葉を失った。
こんなものが普通の家にあるわけがない。鈴音ちゃんは、どうしてこんなものを。
この先にはいったい、なにがあるの?
「……佳子はこの先にいる」
確信を帯びた呟き。私にはなぜか、それを否定することができなかった。
「私が行ってくるから、明美はここで待ってて」
「……えっ、待って楓!」
言い残して行ってしまおうとする楓の手首を掴んで、引き止める。楓は振り向かない。
「行かなくちゃ……佳子のために」
「それなら私も行くよ……だって」
佳子は私の親友だから。
もう、知らないのは嫌なの。今度こそはっきりと知りたい。何も知らないまま取り残されるのは嫌だから。
そんな思いが伝わったのかな。振り返った楓は私の瞳をまっすぐに見据えて、「本当にいいの?」と尋ねる。
私は、はっきりと頷いた。
「……分かった。一緒に行こう」
楓は、どこか寂しそうに笑った。