Episode15 彼女を思うキモチ
パァン、と乾いた音が響いた。
左頬の衝撃に、顔が自然と右に向いてしまう。
絶句する明美の表情が、静止画のようにはっきりと見えた。
「……何してるんだ」
びっくりする程冷たい、楓の声。
恐る恐る顔を向けて見据えてみると、楓は腕を振り切った体勢のまま、わなわなと肩を揺らしていた。目の奥は怒りに燃えている。
ヒリヒリと痛む左頬に、そっと手を当てる。
私、楓に叩かれたんだ。
「楓!!」
明美が立ち上がり、大声を上げる。珍しく本気で顔を怒らせていた。キッと楓を睨み付け、握った拳を震わせている。道行く人達が何事かと私達に視線を向ける。
でも私は、状況が飲み込めないままただ呆然としていた。
私は今、何をしていた?
鈴音と昼食を終えてファミレスを出た時に、泣きながら駆けて行く明美を見つけた。鈴音は「行ってあげてください」と無表情のままでで言ってくれて、私はすぐに追いかけた。
花壇の前で涙を流す明美が可哀想で、話を聞いてあげることに決めた。
そして悪魔が私に囁いたのだ。
このまま明美を、自分のものに出来るんじゃないかと。
あろうことか私は明美を抱き寄せ、気持ちを伝えてしまおうとした。楓と喧嘩している彼女を、奪ってしまう為に。押し込んでいた感情を、全てさらけ出してしまうように。
そんな私を、楓は現実に引き戻した。
「どうして叩いたりするの!?」
「……私の明美に何をしてたの」
楓にはきっと、明美の言葉は聞こえていない。ただ私に冷たい目線を向けていた。
私の明美、か。
確かにその通りだ。二人は愛し合っていて、私に入る隙間なんて無い筈なのに。気持ちを伝えなかった臆病者に、明美を今更奪う権利なんて無い筈なのに。
「佳子はただ私を励ましてくれようとしてただけだよ!」
「……佳子には鈴音がいるだろ?」
明美が楓の肩を揺らして必死に訴えかけるけど、楓は冷たい声を私にかける。
鈴音? どうして鈴音の名前がここで出て来るの? 楓も明美も、まるで私が鈴音と付き合っているとでも思っているみたいだ。
「行こ、明美」
「ちょっと!」
楓が明美の手を引いて通行人の中に消えて行こうとするけれど、明美は手を振り切ってそれを拒んだ。楓の冷たい目線が明美にも向けられる。
「やっぱり佳子の方が大事なんだ」
「楓は何も分かってない! 佳子は私達とずうっと一緒にいた親友でしょ!? 違うの!? そんな、そんな風に言わないでよ! 一体どうしちゃったの!?」
涙ながらに叫ぶ明美。そこでようやく、二人がどうして喧嘩したのかを理解した。
二人は、きっと私のせいで喧嘩してるんだ。
恐らく、楓は明美を自分だけのものにしたいのだろう。そのことは、さっき映画館で会った時の態度から分かる。そしてきっと明美は、私のことを「親友」として大事に思ってくれている。だから私のことを気にかけてくれる明美に楓は不満を抱き、私に嫉妬しているのだ。
でもそれだと明美が私を親友だと思っている限り、二人は永遠に幸せにはなれない。
私は、どうすればいいんだろう。
私には二つの選択肢がある。
一つは、明美のことを思って私が二人の前から姿を消すこと。そうすれば楓の不満は解消されて、二人はもう喧嘩をすることも無い。
本当に二人のことを思っているなら、これが「最高の選択」だ。
そしてもう一つは、明美と共にこの場から逃げ去ってしまうこと。
落ち込んでいる明美を優しい言葉で励まして、楓ともう会わせないように仕組んで、少しずつ私に気持ちを傾けさせて、そのまま……。
姑息な手段だ。こんなことを思いついてしまう自分が嫌になる。でも愛し合っている二人の中に割り込むにはもうこれしか手段は残されていない。たとえ恋人にはなれなくても、私は明美の「親友」としてずっといられる。
二人の親友のことを考えるか、自分のことだけを考えるか。その決断だ。
私は、選ばなくてはいけない。
「……明美、楓」
私が二人の名前を呼ぶと、言い争っていた二人は私に顔を向けた。楓の冷たい目が、明美の涙に濡れた不安そうな目が、私を見下ろす。
口を開いて、閉じる。
私は迷っている。
明美のことを思うか、自分の気持ちに従うか。
私は、
「……ありがとう、明美。私のことを親友だと思ってくれて」
でも、
「……私は二人のこと、親友だなんて思ってないから」
二人の表情が一瞬で凍り付いた。
私に怒っていた楓さえ呆然として固まっている。明美は、訳が分からないというように引きつった笑みを浮かべている。
「よし……こ?」
私は、二人を心から大切に思っている。だから私のせいで二人が幸せになれないのは嫌だった。こうすれば、私が二人の親友でなくなれば、何の躊躇いも無しに二人は愛し合うことが出来る。
私の明美に対する気持ちは、どうせ届かない。なら今度こそ捨ててしまおう。こんな気持ちは、自分も二人も傷つけるだけだ。
もう、これまでだ。
「……だから、もう私に関わらなくていいよ」
言い捨てて、二人の顔は見ずに立ち上がる。すぐに明美の手が私の手首を掴んで、引き留める。私は振り返らない。
「嘘……だよね? 嘘って言ってよ佳子……」
「……」
明美は優しい、優しすぎる。でもその優しさが、彼女自身を傷つけている。
明美にはもう楓がいる。側にいるべきなのは、私じゃない。
「……嘘じゃない」
嘘だ。全て嘘だ。
するりと抜けるように、明美の手が離れた。
私はそのまま、立ち尽くす二人を置いて聖夜の街へと消えていく。
これで、良かったんだよね。
気がついたら、私は鈴音のいるファミレスの前まで戻って来ていた。
鈴音は雪の中傘もささずにじっと立っていて、私が来たことに気がつくと心配そうに寄って来た。頭に白い雪を被っている。ロングの黒髪が揺れて、また明美の姿と重なってしまった。
「……先輩?」
私は、何も言えなかった。
もう二人はきっと、私を親友だとは思わない。
自然と涙が溢れてきた。自分で決めた選択の筈なのに、辛くて辛くて堪らない。ただ静かに、頬を涙が伝っていく。
「……先輩」
そんな私を、鈴音は何も訊かずにそっと抱きしめた。身長が私より低いから抱きつく感じになっているけど、その瞬間に涙は更に勢いを増した。温もりと甘い匂いが私と包み込む。
こんな事、前にもあったっけ。
「大丈夫です……私がいます」
鈴音は私の背中を叩いて、小さく呟いた。