走狗死して
太陽と荒野が支配するこの世界、鋼砂世界ギガレス。
人々は少しでもマシな大地で生きるためこの世界では争いが絶えない。
今ここでも1つの争いの火種が燃えあがろうとしていた。
小高い丘の上の上に男が立っている。
袖の短いシャツの上に胸甲を付け手甲脚絆という出で立ちは乾季は30度を超え、雨季でも20度を下回る事がないギガレス世界では一般的な戦士の姿だ。腰には片手半剣を吊るしている。大多数の戦士は剣と同時に盾も愛用するが、この男は盾は持っていない。
男の名はカルブ・サイド・ザイール。砂塵のような茶色の髪が特徴の青年である。しかし、傭兵としてのキャリアは長く、大功も幾つか上げている。今回彼は傭兵部隊の隊長に任命されていた。
丘の麓には彼が任されている傭兵部隊40人が今か今かと息巻いている。ザイール自身も戦いの高揚に包まれていた。
「遠いな。ざっと2、3キロってところか?」
丘の北方、そこに彼の雇い主であるアウゲル魔法都市に向かって侵攻しているという敵の姿が見えている。レド共和国。最近勢力を伸ばし始め、周辺国家に手当たり次第に戦争を吹っかけているお得意様候補の国だ。今回は敵だが、この戦いが終われば向こうに雇われる事もあるかもしれない。
「このまま奇襲かけて追い返す……で、良いんだよな?」
横に立つ魔法都市の防衛隊の隊員に確認する。
実に簡単な仕事だ。敵はどうやらアウゲルまで残り5日のこの場所で最後の休息を取るつもりらしく野営の準備を進めている。完全に油断しているのかこちらにはまだ気づいていないようだ。
このまま奇襲をかければものの数時間で制圧できる自信があった。
「待機だ。」
「は?」
「聞こえなかったか?貴様ら傭兵は指示があるまで待機だ。」
ザイールは一瞬自分の耳が悪くなったのかと疑った。
「おいおい、ここからアウゲルは眼と鼻の先だ。こんな場所で見逃すって」
「見逃すのではなく監視しつつ待機だ。指示があるまで絶対に手を出すなよ。以上だ。」
隊員は一方的に告げるとこちらの返答も待たずに転移呪紋を使い消え去った。残されたザイールは普通ならありえないはずのその指示にしばらく混乱してしまっていた。
「おかしい。」
この「戦場」で何度目か分からないその言葉をザイールはまた呟いていた。
この丘で待機の指示が出されてすでに3日が過ぎていた。
「やっぱり幻覚か何かなんじゃないのか?」
少し下った位置で敵の野営地を偵察していた弓を担いだ女性にザイールはこちらも何度も問いかけた言葉を向ける。返答はその度に返ってきたものと同じ文面だ。
「その可能性は限りなく低い。もしそうなら、よっぽど優秀な紋章彫りがいるんでしょうね。」
文面こそ同じだが苛立ちは増しているようだ。先刻は言葉の棘だけだったのが今回は矢が飛んできた。手投げでなおかつ当たらないようにコントロールされてるとは言ってもその飛翔物に乗せられた殺気は本物だ。
「オレニ アタル ヤメロ」
ザイールの横に立っていた鎧を付けていない筋骨隆々の蛮族出身の男が女性に対し抗議の声を挙げる。
彼らは傭兵隊の中でも特に信頼を受けている2人だ。隊長とはいえそこまでカリスマも見識も持ち合わせていないザイールは彼らの力を借りて部隊を纏めていた。
「シェルバ、お前ならどうする?」
「ブキミダ ワナ ウタガウ」
名前を呼ばれた蛮族の男はそう答えると後ろを振り返る。
「シキ ゲンカイ ソロソロ ボウソウ オコル」
シェルバの言うとおり不可解な命令でストレスが溜まった傭兵達は部隊として機能する限界を迎えていた。昨日で4回、今日はまだ午前中だというのにすでに8回も傭兵同士での喧嘩がおこっている。うち5回は剣を抜くまでになっている。
鎧についた砂埃を払いながらザイールは大きく溜息を吐いた。
「レイレ、向こうさんは動く気配はないんだろ?」
「全く。まるでバカンスでもしてるみたいに暢気よ。今からぶっこみかけても余裕で勝てるんじゃない?」
呆れた感じのレイレの右目には遠見の紋章が彫られている。その紋章を撫でて効果を解除しながら彼女は丘を下って隊に合流した。
「どうするか。」
彼女の意見は出来れば採用したい。このまま部隊が自然崩壊するのを待つより多少の無茶は行ったほうがマシだろう。だが、こちらは金を貰っている側だ。雇い主の意向に反し戦果を挙げてそれで報酬が支払われるかと言うと微妙なところだ。むしろ支払拒否をされる可能性が高い。
ザイールとシェルバも味方の様子を一瞥し、再び溜息を吐くと丘を駆け降りた。
問題は敵がいつ動くか、ではなく、どれだけ指揮が保つか、だ。
この様子では今晩が山場だろう。その証拠は何回も起こり、そして今もまた発生しているこの喧嘩だ。
「またか……」
ザイールの呟きはこの場にいる人間全員に共通していた。喧嘩の理由はどうせ些細な事だ。口論でもしてストレスを発散しないとやってられない。
どこの戦場でも良くある事だから大抵の場合は皆関与せず、本人達の気のすむまでやらせるのだが。
この部隊はどうも違う。
「おら、抜けよ玉無し。傭兵だろうが。だったら剣で決着だろう。」
巻き舌の口調でその傭兵はさっきから似たような挑発を繰り返している。男の名は確かヴァル。辺境の方ではそこそこ名の知れた傭兵らしい。もっともこの感じを見る限り、戦場での功績ではなく悪名の方だったと容易に窺い知れる。この男、部隊に配属された時から何かともめ事を起こし、剣を抜いた喧嘩の原因はその全てがこいつだ。
いい加減シメておく必要があるか。
「おいヴァル。」
「んぁ?おお、これは隊長さん、聞いてくれよこいつがよ」
「抜け。」
「あぁ?」
ザイールの言葉に周りの傭兵達がざわつきだす。さっきまでそうするように喚いていたヴァル本人も何を言われたのか理解できないような顔だ。
「お前の行動はいい加減見過ごせないからな。ここらでちゃんと理解してもう必要がある。」
「なにを?」
「お前がどういう立場にあるかだ。来いよ。」
言いながらバスタードソードを抜き放つ。右手一本で構えると、左手で手招きして挑発する。正直ここまでやる必要はないが、多少なりともパフォーマンスは必要だ。
「おもしれぇ、あんた東方の桜華王を一騎打ちで斃したんだよな?ってことは、あんたの首持って東方に渡れば俺は一生遊んで暮らせるなぁ」
くだらない妄想を垂れ流しながらヴァルもサーベルを抜いた。左手にはバックラーを持ったスタイルは戦場の主流だが、構えが滅茶苦茶だ。我流にしても崩れすぎている。
本当に戦場にいた事があるのか疑問に思いながらも、油断はできない。
剣を下段に構えヴァルの出方を見る。
剣を握った右腕は天を指すように高々と掲げられ、盾を持つ左手は後ろに回されている。
演劇か何かか?
ザイールは余計な考えは脇に置き、呼吸を整える。まず一呼吸。摺足で踏み込み切っ先を脇腹に向かって突きこむ。
小気味良い衝撃が伝わり右手が意に反して跳ね上がる。
数瞬遅れてキンという済んだ音。
あの姿勢からうまく弾かれた。
踏み込んできて、天を指した剣が降ってくる。
構えと比べる正確な動きだ。無理して防ぐのではなく左に身体を逸らしてこれは躱す。裏拳の要領で盾が叩きつけられる。これは後ろに下がり距離を取って去なす。
ここでようやく剣を構えなおす。今度は両手で。肩口に構え突き。
予備動作を大きくとったのでもちろん躱される。剣の腹が叩かれる。速い。
体勢が崩れる前に勢いで袈裟掛けに斬り落とす。
これも当たらない。
ここで二呼吸。
一連の動きの間にヴァルに対する認識を変える。
使う。この変則的な1対1を重視した動きは、常に多数を相手に戦う事を念頭に置く傭兵ではまずあり得ない動きだ。
(趣味か、あるいは演出か)
次のヴァルの動きを警戒しつつザイールは胸中で呟いていた。
(どちらを意識したアレンジか知らんがこの動きを恥ずかしげも無く出来るって事は)
ヴァルの動きに対する見当をつけて顔には出さずに苦笑しているとヴァルの方が声を掛けてきた。
「あんたに対する認識変わるぜ。」
「は?」
「いやよ、こんなにもチョロい奴だったらもっと早めにやってても良かったぜ。」
その言葉が引き金だったのか。
背後から断末魔の叫びが聞こえた。それも1つでは無い。最低でも3人はやられた。振り返ったのは犯人を特定するためだ。
誰が、何の為などは聞かなくても理解できる。
数は10人か。血に濡れた得物を隠そうともせずにニヤツく、そいつらの顔は印象に残っている。
喧嘩を起こしていた奴らだ。最初からか途中からかはこの際気にしても意味は無いだろう。
戦場は結果が全て。その理屈でいけば「彼ら」は勝者に一歩近づいたわけだ。
振り向いた姿勢のまま状態を僅かに逸らす。剣を振り抜いて無防備になった顔面に肘鉄を加える。
驚いたような気配が伝わるがザイールはそれ以上に驚いていた。
「めんどくせぇな!」
慌ててその場を飛び去ったのは経験からだ。
「ハッハァ!だから、あんたはチョロいって言っただろぉが!」
剣を肩に担いでヴァルが嘲笑する。
その顔、いや、顔だけではなく、全身に紋章が浮かび上がっている。
レイレの言うとおり向こうには腕の良い紋章彫りがいるらしい。
魔術紋章は彫れば彫りこんだだけ身体と精神に負担がかかる。
彫られている人間が英雄的な身体、精神の持ち主か、よほど腕が良い彫り師が入念に彫らねば全身に彫ってなんのペナルティも無いというのはまずありえない。
そして紋章の効力は彫りこまれた面積に比例する。全身に浮かぶという事はそれだけ効果が高いという事だ。並みの攻撃で破るのは難しいだろうが……
「この紋章見ろよ。あんたにこれをぶち破って俺を傷つけるだけの攻撃があるのかよ!」
勝ち誇ったこいつを見てつくづく思う。
バカだ。
「まったく。才能がある素人はこれだから……」
ザイールは嘆息する。
「お前の剣の才能、もっとマトモな師事を受ければそれこそ英雄並みだったんだろうが……その動き、教えた奴はエルグスとか名乗ってなかったか?」
「あ?なんでそれを?」
やっぱバカだ。
吹き出したくなるのを堪えてザイールは教えてやる。
「南の方の有名な英雄だよ。といっても、架空の、だけどな。勇者エルグスの龍退治、といえば南方地方の奴なら誰でも知ってる歌劇さ。お前の動きは多少のアレンジがあるが、ほとんどそのまんまこの劇の主役、エルグスの剣だ。」
「は?バカか?んな嘘に騙されるほど」
ヴァルの言葉は続かなかった。
というか、喋らせる気はなかった。
一足飛びに踏み込んで下から切り上げる。
「ーーー!」
踏み込みが甘かった。
斬れたのはせいぜいが右の耳。胸からバッサリ行くつもりだったが、思った以上に紋章の護りは硬い。
「ッヅァアマァハヤァヤァァァガァァ」
耳を抑えて蹲るヴァルを視界の隅に追いやり周辺を再確認する。
ヴァル本人はバカだが、こいつを雇い入れ知恵した奴は随分小賢しい。
人間が集団になると、必ず不和が起こる。
しかしそれは大概の場合細かな罅で済む。
だが、現状ザイールの部隊の不和は、ヴァルを雇った人間のせいで致命的な亀裂となっていた。
30人を超える一流の傭兵達がたかだか10人前後を未だに撃滅できてない。
理由は単純。
連携が出来ない。
横の、背後の、味方を疑い思うように動けない。
まったく小賢しい。
敵に襲いかかると同時に味方から背中を切られる。
その疑念を、こいつらは傭兵達に与えた。
「構わん、殺せるものならやってみろ。」
そう思い動こうとする者もいるが。
「味方と思わせ後で寝首を掻くつもりか?」
そう勘繰る付近の者がそれとなく牽制し動かさない。
結果として攻撃を最大の防御とするべき傭兵が攻撃されたから自衛するという屈辱的な対応しか出来ない。
なかなか面倒なことをされた。
そう思っていると蹲っていたヴァルが急に動き出す。
出鱈目に剣を振り回しながらこちらに突進。
少し右に下がって去なそうとするが最低限の判断力は残っていたらしい。
突進の勢いを踏み込みに変え左からの薙ぎ。
これも回避。そのまま後に下がるが、ヴァルは無理な体勢から袈裟懸けに斬り込んでくる。
これは受けよう。剣を掲げたその時だ。
「くっ!」
狂乱者特有の無差別さで剣の軌道が変わる。
咄嗟に合わせるが遅かった。
袈裟懸けからの大上段からの振り下ろし。
派手な音を立てて互いの刃が撃ち合い、火花が散る。
全体重が乗せられた一撃を抑え込むため、こちらも渾身の力で押し返し、バランスを崩す。
「死ねよ!死ねしねしねしねしねしね!」
絶妙なタイミングで引かれた剣は必発の刺突となって放たれていた。
例え思考が麻痺していても、いや思考が麻痺しているからこそ身体に蓄積された経験が最良の結果を叩き出す。ヴァルの剣技は偶然の産物とはいえ数多の剣士が目標に掲げるものの一つ、無想に手をかけていた。想いを捨てる、もしくはただ一念のみを求めるて全て置き去り斬り捨てる。
「くそ…がぁぁ!」
無理矢理体を捻じるが、大して意味は無かった。脇腹を深く抉られる。今すぐ動けなくなる傷ではないが2、3分もすれば失血で充分に危険な状態に陥るだろう。
危機的な状況である。
味方の指揮は崩壊寸前。
数km先には敵の本陣。
内部に反逆者。
指揮官は負傷。
そして、ザイール達が知らぬ所で状況が動く。それまで沈黙を保っていたレド共和国の部隊がここにきて移動を開始した。
進行方向はザイール達が陣を構える丘。
不可解な行動であった。
確かにアウゲルまでの道程はあと僅かで丘を越えるルートは最短だが、それでも5日から3日はかかる。
例え精強を誇る軍隊であろうと、補給や中継拠点無しで踏破できるほど、道中に敷かれた魔法都市の防衛は柔では無い。
それを考慮して今までレドの部隊は防備の薄いルートを慎重に移動しここまで辿り着いていたのだ。
行動があまりにも変わりすぎている。
ザイールは剣を構えなおした。そしてそのまま動かない。下手に動けば自ら限界を呼び込む。勝負は一撃で、確実に決めなければいけない。構えなおし、ヴァルの隙を探る。
幾分が狂乱が収まったヴァルも静かにザイールを見据えていた。その目は獲物をいたぶる狩猟者の目だ。既に勝敗を決したと見て屈辱を雪ぐ為にどう嬲ってやろうかと思考を巡らしている。
時間が過ぎる。
他の奴らはどうなったのか、剣撃の音は既に聞こえない。それとも、耳が機能を失うまでに血を失ってしまったか。
呼吸を整える。痛みで狂った心拍を平常へと諌め、戦時へと高める。
呼吸を読む。
吸う。吐く……吸う……
まだ………………………………………………………………………まだだ………………………………………………今では無い………………………違う………………………………………………まだ速い………………………………………………………………………まだ……まだだ……………………………いや………………………まだ…………………………………………………………………………ここではない………………………もう少し………………………………………………………………………………………………
感覚がマヒを起こす。時間に置き去りにされる。
…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………
………………………………………………………………………………………………今だ!
完全に呼吸を合わせ、一足飛びに踏み込む。
急激な動きと、吸気に合わされ動かれた事でヴァルはまだ動けない。
大上段からの右袈裟懸け。
確実に当たる。そして、致命となる。
だが、剣が肩に触れる瞬間でヴァルが動いた。
ヴァルが左腕を掲げる。ザイールの剣はその左腕を斬り捨て、肩口を深く割って止まった。剣筋を曲げられた。
それでも殆ど致命傷に近い傷を負わせる事は出来た。これで状況は五分。片腕が無くなった分、こちらが有利。
一気呵成に仕留めんと肩口で止まった剣に力を込める。視界が潰された。
偶然が、死に物狂いか。ヴァルがもがいて蹴り上げた砂がザイールの目を一瞬潰す。
その隙にヴァルは逃走を計った。
肩を割られ、命に関わる傷だが、今のヴァルには関係ない。
彫り込まれた紋章の中には神代の頃より伝わる命の秘術も含まれていた。剣が抜けると同時に血は止まり傷は塞がっていく。
このまま強化された身体能力を使い戦域を離脱するつもりでいた。
行動を起こして時間が経っている。そろそろ本陣がこちらに到達する頃だ。
そうなればこちらの勝ち、俺の1人勝ちだ。
「ひっ、ひひひ」
ヴァルの口から異音が響いた。
狂気を帯びた笑いである。
視界が回復したザイールはすぐに走り出した。脇腹の負傷でそこまで速度が出ない。そして彼我の位置関係から追いつくのは不可能であった。
「残念、間に合ったぜ…」
苦痛に顔を歪めてザイールは何かを拾いあげた。ボロ布に包まれたそれこそが、本来のザイールの得物である。
布を破り捨てそれを肩口に構える。
材質は木製。しかし刀身に彫り込まれた3種の紋章のうちの硬度強化の紋章のおかげで鉄と遜色無い硬さはある。
刃渡り1mを超える大刃が柄の両側についているそれはピルム・ムルスと呼ばれる槍であった。
「刺し穿ち肉を裂き骨を断てーオルトス!」
槍に彫られた紋章を起動させる為の呪文を叫びザイールはその槍を投じた。
「ひひひっひはーー!」
それはまさに一瞬であった。
(あれ?なんで俺、空を…)
ヴァルの最後の思考は不意に変化した景色への疑問であった。
敵の首を胴体と泣き別れにして戻ってきたピルム・ムルスを受け止めてザイールは苦笑していた。
「応急処置でいい。時間かけんなよ?」
「馬鹿言わないの!こんな傷、応急処置で塞いだぐらいじゃあんた死ぬわよ?死にたいの?」
駆け寄って来たレイレの罵声を聞き流し、ザイールは大声を張り上げた。
「撤退する!武器食料は持てない分は焼却!金目の物は個々人の主義で持っていけ!…がは!」
急に大声を上げたせいで傷口が一層痛んだ。そのうえ吐血までしてしまったのが頂けない。
「何やってんじゃお前はぁぁ!」
憤慨しながらもレイレは適切な処置を続けている。治癒系の紋章を使用できる人間がいるとこういう時に助かる。
「これで走る分には大丈夫だけど、あくまで移動だけね。戦闘なんてしようもんなら綺麗に開くわよ。」
「それは困るな…」
「敵襲!」
「来たか」
陣内に響いた声で緊張が一気に高まった。
そして、我先にと傭兵達が逃げ出していく。
簡単な事だ。
ヴァルがどのタイミングで裏切っていたのか。なぜアウゲルの防衛隊は待機を命じたのか。なぜレドの部隊が動かなかったのか。
既にアウゲルとレドは何かしらの約定を結んでいるのだ。自分達傭兵はその約定を実効する為の人柱として集められたのだ。となれば、敵の目的は傭兵隊の必滅。そのための準備は抜かりなく、もちろんアウゲルからの救援は無い。
そして現在の指揮の低さを考えれば自然崩壊の後の逃走は目に見える。
丘の向こうから、氷結矢の斉射が降り注ぐ。
殲滅戦の常套手段だ。隠れてやり過ごす事が出来ない以上、逃げるのが最も懸命だ。だが……
「あが!ひぎぃぃあがぁぁ!」
「うえぬぁぁぁ!」
ある程度丘から離れた傭兵達が奇声をあげて燃えていた。彼らを包むのは紫に煌めく炎。本当に熱を持った炎ではなく、呪殺系の攻撃の効果が人間の目にこのように映る。
「結界⁉︎そんな!どうやって⁈」
「ここを指定したのはアウゲルの連中だ。最初から結界陣が仕込んであったんだろうぜ。……後ろは呪殺結界、前は軍隊。」
さてどうするかと被害を確認する。半数程は殺られたかとも思ったが、驚くほどに被害が少ない。全体の3分の1も減ってはいないのではなかろうか。
これはつまり他の方法を持ってこちらを殺し尽くすつもりか。
そして恐らくその方法は……
「何か変よ……妙に気温が…」
異常だ。恐ろしく気温が高くなっていく。
ただでさえ乾燥している空気からいよいよ持って水分が失われる。呼吸をする度に肺や喉が焼かれているのかと錯覚するほど暑い、いや、熱い。
「呪殺攻撃……それもなかなか大規模ね…この規模は滅多に見れないわよ…」
呪殺系の魔道術は1つの個体に対して最も効果を発揮する。複数の個体に対し使用すればそれだけ念が薄れ効果が減少していく、らしい。
呪殺結界などは「私に触れるな」という念により「触れた個々」に効果を発揮しているだけであくまでその標的は1だ。
その「場」に作用するというのは珍しい。
最も、ザイールはそういった知識に疎いのでこれがどの程度の威力で、どれ程の準備と紋章士を必要とするのかはよく分からないが。
「ここの人間全員を3回殺し尽くしてお釣りがくる程度よ」
「過剰過ぎやしないか?」
「試したいんじゃない?実際どの程度タメに時間かかるのかとかはやってみないと分からないんだし。」
「それを見る為の実験台か……」
どうも胸糞悪い。戦場ではこういった事は珍しくもないが自分がされるとなると気分が悪い。高すぎる気温のせいでその不快感はさらに大きくなるばかりだ。
「動けるのは…全滅か…」
大掛かりな術式であり、術の完成前なら少数精鋭で突撃を掛け、術者の集中を乱せば解けるはずである。この状況、敵は反撃など考慮していないだろうからそういった素振りを見せるだけでも十分に効果はあるのだが、肝心の戦士が自分も含めろくに動けなくなっている。
熱さで思考が散漫とし、手足が思うように動かせない。
「オレガ ユク」
誰かがそう言った。果たしてこれは誰の声だ?
熱に茹だる頭はそんな事すら思いだせず。
「ぅおぉぉぉぉぐるぁぁぁぉ‼︎‼︎」
魔獣もかくやという咆哮でその思考を取り戻した。
「シェルバ!」
声の主を探して視線を走らせる。
あの目立つ筋肉の塊、それも声が聞こえるほど近くにいた筈の姿は無い。
変わりに丘を駆け上がる一頭の獣が見えた。
「変性紋章…さすがは蛮族、珍しいものを…」
感心しているレイレに対し、ザイールは鋭い声をかけた。
「ぼさっとするな!とっとと離脱だ!動ける奴のケツを叩け!」
シェルバの行動により、敵の術の効力が弱まっている。熱は引き熱さが暑さに。このレベルであればなんとか動ける。
呪殺結界も、多人数で突破すれば多少の負傷はするが抜けれない事はない。
「走れ‼︎」
ザイールの一言で動ける傭兵達に喝が入った。
一斉に動きだす。再び効力が弱まった事を見ると敵の動揺は著しい。もしくはシェルバがそれだけ術者を倒したか。どちらにせよ、すぐに追っては出せない。
傍のレイレが走り出したのを見てザイールもようやく走り出した。
「ちょっ、ちょっと!隊長は⁉︎あのバカはどこ⁈」
ザイールがどこに向かったのかレイレが気付いたのは呪殺結界を抜けた後であった。
「だぁぁぉらぁぁぁ‼︎」
風車のようにピルム・ムルスの両刃を振り回しながらザイールは敵陣を駆けていた。傷口は既に開き、新しい傷がさらに増えていく。
つい数秒前まで追走していたシェルバの変性獣はもういない。果てたか、別の場所へ向かったか。
最早そんな事は関係無く。
「へへっ……好き好んで命捨てる商売やってんだ…俺達にも誇りはあらぁ」
後方から接近してきた敵を切り捨てそのまま体ごと回転して前方の敵を刺し貫く。
敵陣の向こうで紋章士が構えるのが見えた。
何かさせるつもりなど毛頭なく。
「刺し穿ち肉を裂き骨を断てーオルトス!」
ピルムを投擲し、片手半剣を抜き打つ。
「さぁ、て……付き合ってもらうぜ…」
ともすれば失われそうな意識を繋ぎ止め、ザイールは敵陣の中央を目指し駆けた。
後の記録によればこの戦闘後、魔法都市アウゲルとレド共和国は同盟を結んでいる。
戦死者250人。
レド共和国軍230人。
魔法都市アウゲル防衛隊20人。
アウゲルのこの圧倒的な戦果は魔法都市として培った技術と優秀な指揮官のお陰だと伝わっている。
残念ながらその指揮官の名は伝わっていないが、アウゲルでは街を救った無名の英雄としてその武勇は永く語り継がれていく事となる。