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反乱決起 ~親友・張邈の裏切り~

曹操の大親友たる張邈が、何故、彼を裏切って

兗州でのクーデターを引き起こしたのか?

その真相について。

【初めから望まれぬ客だった曹操】


192年(初平三年)、兗州へと侵攻してきた青州黄巾100万の軍勢に対し、

その撃退に失敗して討ち死にした兗州刺史の劉岱に代わり、

兗州軍の総司令官として就任し、

見事、鎮圧に成功した曹操だったが、

ただそこに一つ疑問がある。


青州黄巾軍の詳細な兗州への侵攻ルートは不明だが、

ただ先ずは任城国の相・鄭遂を殺害し、

次いでそこから北の東平国へと入ったという足跡からみて、

主に青州の西の泰山方面から、兗州内へと入っていったように思われる。


挿絵(By みてみん)

(兗州周辺地図)


それでその黄巾の撃退に、

兗州刺史の劉岱が討伐軍を組織して彼らの迎撃へと向かったのだが、

しかしその討伐軍に、済北国の相の鲍信は参加したが、

東郡太守の曹操は参加をしていなかった。


何で曹操は、初めからこの青州黄巾賊の討伐に加わっていなかったのか?


済北国は青州と最も東寄りの国境に接した地域の国なので、

鲍信が参加するのはまあ当然として、

劉岱は東平国へと入った黄巾軍の撃退を狙って軍を進めていったが、

東平国は曹操が太守をしている東郡の直ぐ西隣に位置する国だ。


だから東平国に集まった黄巾軍を攻撃するのに、

その直ぐ近くにいる曹操が呼ばれないというのは、

どうにも不自然のように思えてならない。


何故、劉岱は曹操を呼ばなかったのか?


ただでさえ、人数でいえば青州黄巾軍のほうがはるかに大人数だったのだから、

戦える軍兵は少しでも多く確保したかったはずだ。

しかし劉岱は呼ばなかった。


実はこの点、

どうも劉岱は、曹操の東郡太守就任を、

余り快く思っていなかったと見受けられる点がある。



【劉岱と袁紹の関係】


曹操は191年(初平二年)に、黒山賊の東郡侵攻を防ぐことができなかった

王肱に代わって、賊軍を撃退し、

袁紹の上表によって新たな東郡太守として就任したが、

元々その王肱を東郡太守に任命していたのは兗州刺史の劉岱だった。


王肱の前は橋瑁が東郡太守だったが、

橋瑁は劉岱と仲違いして彼から殺害され、

その後に劉岱から任命されたのが王肱だった。


※(『三国志 武帝紀』)

「劉岱與橋瑁相惡,岱殺瑁,以王肱領東郡太守。

(劉岱が橋瑁と憎み合って、劉岱が橋瑁を殺し、王肱に

東郡太守を領させた。)」


劉岱、孔伷、張邈、張超、橋瑁らは、

190年(初平元年)の初めに、反董卓連合を結成して盟約を誓い合った仲間同士。


袁紹は連合盟主ながら、彼らとは黄河を挟んで北の冀州と南の兗州と、

それぞれ別々の場所に布陣していて、

行動も別だった。


むしろ劉岱らにとっては、いざ決起が失敗に終わった場合の責任回避のため、

袁紹をおだてて盟主に据えたという意味合いのほうが強かったろう。


しかし袁紹は袁紹で盟主という立場を大いに利用して

自らの勢力伸張に励み、

やがて韓馥から州牧の地位まで奪うと、

もはや誰の手にも負えぬほどの独裁者へと変貌を遂げていってしまう。


そしてそんな袁紹の任命により、

彼の手先ともいうべき曹操が、劉岱の任命した王肱に代わって、

新たな東郡太守として送り込まれてきたのだから、

劉岱もこの人事に関しては、内心ではかなり不満もあったのではないか。


何となれば、これは袁紹の兗州刺史・劉岱に対する内政干渉になるのだから。


と、

そうした経緯から詰まり、曹操は袁紹の息の掛かった部将として

劉岱から警戒され、

それで192年(初平三年)に、兗州内へと侵攻してきた

青州黄巾100万の侵攻に対し、

曹操が劉岱の討伐に呼ばれなかったと考えることもできる。


済北国の相の鲍信は参加していたが、

鲍信は曹操の、挙兵以来の盟友。


劉岱は鲍信の「先ず守りを固めよ」という進言を無視して、

強引に賊軍と戦って戦死してしまったが、

これも要は、鲍信が曹操と同様、同じ袁紹ファミリーの一員と目され、

警戒され、避けられていたとも取れる。


もし鲍信や曹操の助言や力を借りて賊を退治できたとしても、

そうなればまた王肱のケースと同じようにして、

袁紹が何か、兗州の人事や利権に介入してくる可能性は非常に高かった。


そういった意味でも、

できるだけ賊軍の撃退は、自分達の手だけで行ったほうがいい。


が、

しかし劉岱と袁紹の二人は、連合結成当初のころは、

両者で非常に仲が良かった。


それで袁紹は自分の妻子を劉岱の下に預けて任せるほど、

それくらい信頼し合っていた関係同士だった。


といって絶対の信頼でもなかったが。


袁紹は韓馥に代わって冀州牧へと就任した直後、

同じように冀州を狙っていた公孫瓚と抗争状態に陥る。


その時点ではまだ、軍事力の点では公孫瓚のほうが優勢で、

州郡でも公孫瓚の勝利を予想して、袁紹から離反する者達も多かった。


劉岱は袁紹とも公孫瓚とも親しかったのだが、

公孫瓚は袁紹との対立に、

劉岱に対して袁紹の妻子を自分に差し出し、

袁紹とも断交しろと劉岱に迫ってきた。


劉岱は判断に困ったが、

別駕の王彧が「程昱を呼んで相談なされるのが良いでしょう」との助言に、

さっそく程昱を呼んでみると、

程昱は「公孫瓚は袁紹の敵ではない。必ず敗れる」と答えたため、

劉岱はその言葉に従い、

その場は袁紹に味方することを決めた。



(『三国志 程昱伝』)

「初平中,兗州刺史刘岱辟昱,昱不应。是时岱与袁绍、公孙瓚和亲,

绍令妻子居岱所,

瓚亦遣从事范方将骑助岱。后绍与瓚有隙。瓚击破绍军,

乃遣使语岱,令遣绍妻子,使与绍绝。

别敕范方:“若岱不遣绍家,将骑还。吾定绍,将加兵于岱。”

岱议连日不决,别驾王彧白岱:“程昱有谋,能断大事。”岱乃召见昱,问计,

昱曰:“若弃绍近援而求瓚远助,此假人於越以救溺子之说也。

夫公孙瓚,非袁绍之敌也。

今虽坏绍军,然终为绍所禽。夫趣一朝之权而不虑远计,将军终败。”

岱从之。范方将其骑归,未至,瓚大为绍所破。岱表昱为骑都尉,昱辞以疾。


(初平年間(190年~193年)の間、兗州刺史の劉岱は程昱を辟召しようとしたが、

程昱は応じなかった。このとき劉岱は袁绍、公孫瓚と和親[亲]しており、

袁绍は彼の妻子を劉岱のところに預け、

公孫瓚もまた、従事の范方に騎兵率いさせて劉岱を助けていた。

公孫瓚が袁绍の軍を撃破すると、公孫瓚は使者を派遣して劉岱を説得し、

自分に袁绍の妻子を差し出すことと、袁绍との交際を断交することを迫った。

そしてその一方で范方に:“もし劉岱が袁紹の家族を遣さなければ、

そのときは騎兵を連れて戻ってこい。

私は袁紹を平定した後、兵を出して劉岱を攻めるだろう。”と。

劉岱は連日議論したが決定することができずにいると、

別駕の王彧が劉岱に言った:“程昱には謀が有り、大事を判断する

能力があります。”と。

劉岱が程昱を召しだして、計を聞くと、程昱は言った:

“もし袁紹という近きを棄てて、公孫瓚という遠くに助けを求めたのならば、

それは越の国から人を借りて溺れる子を救うの説です。

そもそも公孫瓚は袁紹の敵ではありません。

今、公孫瓚が袁紹軍を壊[坏]したといえども、最終的には

袁紹のとりことなってしまうでしょう。

一時的な方便に興味を抱き、長期的な計画を考慮しなければ、

将軍は最後には敗れ去ってしまいますぞ。”と。

劉岱はこれに従った。范方がその騎兵を率いて帰ると、未だ到着しない内に、

公孫瓚は袁紹によって大いに撃ち破られるところとなった。

劉岱は程昱を騎都尉として上表したが、

程昱は病と称して辞めてしまった。)」



しかしその後も袁紹は河北一帯に勢力を伸ばし、

そして益々、独裁色の傾向を強めていった。


そして曹操、鲍信の兗州内への領主としての就任と。


劉岱はいよいよ袁紹に対する警戒心を強めていったのではないか。




【張邈の疑心暗鬼】


そして今一人、

曹操の東郡太守就任に、強い不信感を抱く人物がいた。


それこそが他ならぬ曹操の大親友である張邈だった。


何故張邈が、親友の同じ兗州内の太守への赴任に、

それを素直に喜べないのか?


張邈はかつて袁紹とは「奔走の友」と呼ばれる盟友同士だったのだが、

それも反董卓連合結成を境に、

一転して両者は不仲に陥る。


きっかけは、盟主となった袁紹の度を越した独裁振りに、

張邈が苦言を呈したことが始まりだった。



※(『三国志 張邈伝』)

「袁绍既为盟主,有骄矜色,邈正议责绍。绍使太祖杀邈,

太祖不听,责绍曰:“孟卓,亲友也,是非当容之。今天下未定,不宜自相危也。”

邈知之,益德太祖。


(袁紹は盟主となると、驕り、いばる気色が有った。

張邈は正論で袁紹を責めたが、袁紹は太祖(曹操)に殺させようとした。

しかし太祖(曹操)は聞かず、袁紹を非難して言った。

“張邈は私の親友です。是非を良く見極めて、彼を許してやるべきです。

今はまだ天下が定まっていないのですから、

互いに自らを危険にさらすのはよろしくありません。”と。

張邈はこれを聞くと、益々太祖(曹操)を徳とした。)」



しかしすごいのは、

ちょっと張邈に非難されただけで、

袁紹はいきなり張邈を“殺せ”と命じていることだ。


そもそも反董卓連合というのは、同じ志を持った者同士が水平に結託した組織で、

いくら袁紹は盟主として就任したとはいえ、

彼が上から頭ごなしに諸侯に対して命令できるような立場にはいなかった。


まして袁紹にとって張邈はまがりなりにも、

古くから同じ革命闘士として活動していた仲間だったにも関わらず、

それがいきなり“殺せ”などとは。


しかも袁紹はその張邈の殺害を、彼の親友である曹操に命じていた。


袁紹に従っていた曹操が、その下でどのような役割を担っていたか、

想像できそうな一件だが、

しかし張邈にしてみれば、袁紹からヒット・マンとして

自分の殺害を命じられた曹操が、同じ兗州内の東郡太守として、

袁紹に命じられて新しく赴任をしてきたのだ。


しかも曹操は青州黄巾賊の撃退をきっかけに、

さらに事実上の兗州の領主にまでなってしまった。


いくら曹操が個人的には、袁紹の命令を拒絶したとしても、

袁紹の力は強大だ。


果たして曹操が一体どこまで、

その袁紹の命に抗い、張邈の身を庇い続けることができるのか・・・?


張邈は、「邈知之,益德太祖。」としながらも、

内心ではとても、穏やかではいられなかったろう。


何せ曹操は反董卓連合軍で、一度張邈らの主催する兗州グループとは

袂を分かって、

それで袁紹の冀州グループを頼って立ち去っていったのだから。


そしてその後も袁紹は曹操と共同で、

袁術や公孫瓚ら、他の敵対勢力との抗争にずっと歩調を合わせて行動をしていた。


曹操は今や、袁紹の部将の一人だった。



※(『三国志 張邈伝』)

「吕布之拾袁绍从张杨也,过邈临别,把手共誓。绍闻之,大恨。

邈畏太祖终为绍击己也,心不自安。


(吕布は袁紹との関係に見切りをつけて河内郡太守の張楊を頼った。

しかしその途中で呂布は張邈の下へと立ち寄り、その別れ際に臨んで、

互いに手を取り合って誓いを交わした。

袁紹はこれを聞き、大いに恨んだ。

張邈は太祖(曹操)が、結局は袁紹のために自分を攻撃するのではないかと畏れ、

安心でいられなかった。)」



と、

実際に正史『三国志』の本伝の記述のほうにも、

張邈が曹操の動向を恐れ、袁紹の命令通り、

自分に危害を加える可能性を強く警戒していたことが記されている。


そしてまたもう一人、張邈と呂布との関係。


『三国志演義』では“呂布を迎えて曹操から兗州を乗っ取れ”といったのは

陳宮だが、

しかし実際には、既にその以前から、

張邈と呂布は旧知の関係にあった。


しかも「把手共誓。」などと、

張邈は呂布と一体、何の盟約を交わしたというのか?


もちろんそれは、袁紹に対抗するための密約だったろう。


張邈も呂布も、共に袁紹から命を狙われる関係にあった。




【張邈による反袁紹ネットワークの形成】


そして張邈の下にはさらに今一人、元冀州牧の韓馥。

彼も冀州牧の地位を袁紹から奪われた後、

陳留郡太守の張邈の下へと身を寄せていた。


韓馥が張邈のところへと逃げてきたのも、

袁紹から自分が殺されるのではないかと危機感を募らせ、

その恐怖の余りの行動だった。



※(『三国志 袁紹伝』)

「馥怀惧,从绍索去,往依张邈。

<英雄记曰:绍以河内硃汉为都官从事。汉先时为馥所不礼,内怀怨恨,

且欲邀迎绍意,擅发城郭兵围守馥第,拔刃登屋。

馥走上楼,收得馥大兒,槌折两脚。

绍亦立收汉,杀之。馥犹忧怖,故报绍索去。>

后绍遣使诣邈,有所计议,与邈耳语。馥在坐上,谓见图构,无何起至溷自杀。


(韓馥は胸中に恐れを抱き、袁紹に辞去を求めると、張邈を頼って往った。

<『英雄記』に曰く:袁紹は河内の朱漢を都官従事に任命した。

朱漢は以前に韓馥から不礼を受けることがあって、内心で恨みを抱いていた。

かつまた朱漢は、袁紹の意向を自分で先取りし、彼の気を取ろうと、

勝手に城郭の兵で韓馥の守る邸宅を囲み、刀を抜いて屋根へと登った。

韓馥は望楼の上に走ったが、韓馥の長男は捕らえられ、槌で両足を折られた。

袁紹は朱漢を捕らえて殺したが、韓馥は猶、憂〔忧〕え怖れ、

袁紹の下へ報せ、辞去を申し出たのであった。>

後〔后〕に袁紹が張邈の下へと使者を派遣すると、

その使者は相談することがあって、張邈に耳打ちをした。

韓馥はその座に一緒にいたが、

彼らが自分に対する措置を講〔构〕じているのだと思い込み、

何もないようにして席を立ち、厠へと向かって自殺した。)」



と、

このように、袁紹との仲を悪化させた者達が、

張邈が太守として務める陳留郡では、彼と繋がりを持つようなネットワークが、

全て張邈の主導により形成されつつあったのだ。


それはもちろん張邈が、自分自身の身を袁紹の魔の手から自衛するため。


だから曹操が袁紹の任命によって東郡太守として送り込まれてきて、

やがて事実上の州の長官にまでなった際、

張邈はおそらく、

先ずは州内で自らのシンパとなる派閥の組織化を考えたはずだ。


後に実際に彼が曹操を裏切って兗州でクーデターを起こしたときも、

従事中郎の許汜や王楷ら、州の高官を初め、

実に州内の9割以上の城邑が一斉に曹操から離反して張邈の側に付いた。


これはもう、事前にそれだけの手が回されていたということに他ならない。


別駕の畢諶や范城県令の靳允らなどは、

共に反乱軍側に母親や弟や妻子を人質に取られて脅迫されていた。


曹操はむしろ初めから兗州領内で孤立していた。


詰まり曹操の徐州遠征の留守中、兗州で巻き起こったクーデターの真の黒幕は、

呂布でも陳宮でもなく、

曹操の大親友たる張邈だったのだ。


曹操の徐州遠征はそのきっかけとして、

反乱を起こす条件は、

既に前以って張邈の手によって整えられていた。


張邈は内密に進めていたつもりだったかもしれないが、

しかし目のある士大夫達にとって、

これはもう半ば、周知の問題だったに違いない。


だからいざ兗州での内乱勃発の際、

荀彧はたちどころに「張邈が叛いた」と見破ることができたのだ。


また荀彧以外にも、

実は張邈の謀叛を事前に察知し、周囲にもその危険性を訴えていた

一人の人物がいた。


それは高柔という人物。


高柔は、袁紹の甥・高幹の族子の一人で、

当時は郷里の陳留郡にいた。

しかし彼は陳留郡太守である張邈が、

曹操に対して何やら良からぬ企てを抱いているようだと、

同じ村の仲間達にも相談し、

内戦となりそうな陳留郡からの退避を訴えていた。



※(『三国志 高柔伝』)

「柔留乡里,谓邑中曰:“今者英雄并起,陈留四战之地也。

曹将军虽据兗州,本有四方之图,未得安坐守也。

而张府君先得志於陈留,吾恐变乘间作也,欲与诸君避之。”

众人皆以张邈与太祖善,柔又年少,不然其言。

柔从兄幹,袁绍甥也,在河北呼柔,柔举宗从之。


(高柔が郷里の陳留郡に留まっていたとき、高柔は邑の者達に言った:

“今、英雄が並び起ち、この陳留郡は四戦の地である。

曹将軍は兗州を拠り所としたといえど、もともと四方を有する意図を持ち、

未だ安座して守ることはできないだろう。

何故なら先に張府君(張邈)が陳留郡で志を得てしまったからで、

私は間隙に乗じて変が起こるのではないかと心配している。

諸君らも私とここから避難してはどうか”と。

しかし人々は皆、張邈と太祖(曹操)の間柄を思い、

また高柔が年少であったことから、その言葉が正しいとは思わなかった。

高柔は、袁紹の甥で従兄弟の高幹から河北へ呼ばれ、

一族を挙げて彼に従った)」




【実は察知していた曹操】


しかしまあ、実際にこんな噂話までが出ていて、

曹操が張邈の、こうした一連の動きを全く知らなかったはずがない。


曹操は自分が初めて、覚悟の徐州遠征へと向かう際、

自分の家族に対し、


「我若不还,往依孟卓。(もし私が還らなければ、孟卓を頼って往け。)」と、


そう言い残し、

またこれが二人の親密さを表す格好の例として、

当時の人々の間にまで知れ渡っていたのだが、

しかしこの曹操の発言こそ、

彼が事前に、張邈が謀叛を起こそうとしていたことを、

彼自身が既に気付いていたということの、証となる言葉だ。


曹操が徐州遠征へと向かおうとしたその頃にはもう、

兗州での内乱は、いつ勃発してもおかしくはないという状況にまであった。


そしてもし、彼らが実際にその反乱行動を起こすとすれば、

これから自分が亡き父の復讐ため、徐州へと向かって州内を留守にする、

この機会が最も危ないだろうと、

そんなことは曹操自身が一番良くわかっていることだった。


だから彼は出発前、敢えて自分の家族に対し、

“もし自分に何かあれば、そのときは張邈を頼れ”と、

これは詰まり反乱を起こしそうな張邈に向けて、

だから“自分はこれだけお前のことを信頼しているのだから、

どうか自分の留守中に、変なマネだけは起こしてくれるなよ”と、

親友の張邈にクギを刺すために送ったメッセージに他ならない。


しかし一度目の遠征の最中には、何も起こらなかった。


曹操としても内心では余程、心配だったのだろう。


曹操は無事に一度目の徐州遠征から引き上げてくると、

涙を流しながら、

大親友の張邈と向かい合った。



【張邈謀叛の真意】


が・・・、

曹操は涙を流して対面を喜んだが、

しかし張邈のほうは、

内心ではどうだったかわからない。


本来、兗州で内乱の兵を挙げるなら、

この曹操の徐州遠征の最中が最もいい機会だったはずだ。


しかし一度目の徐州遠征の最中には何も起こらず、

実際に反乱が起こったのは二度目の徐州遠征のとき。


そのため現代でも、曹操が一度目の徐州遠征で行った徐州での凄惨な虐殺事件が、

反乱の遠因となったのだろうなどと言われたりもするのだが、

これは先ず、関係がないだろう。

あっても非常に薄い。


そもそもいくら曹操が徐州で虐殺行為を働こうと、

それは州外で起こったことで、

兗州の人々が直接に実害を被るわけではないのだから。


だが一度目の徐州遠征では、確かに謀叛は起こらなかった。


しかし張邈が謀叛に踏み切らなかったのは、

まさに曹操が出立前、家族達に残していった、


「我若不还,往依孟卓。」というこの言葉。


この言葉を聞いたから、

張邈は一度目の曹操の徐州遠征では、

いざ反乱行動へと踏み出ることを止めた。躊躇した。


何故なら張邈自身が曹操のその言葉を聞き、

実は自分達が兗州で事を起こそうとしていた行動を、

曹操に事前に察知されていたことを知ったからだ。


“クーデターの動きは既に、シッカリと勘付かれてしまっていた”と、


それが張邈が急遽、挙兵に二の足を踏んだ理由だったろう。


張邈も内乱決起については、自分でも非常に神経質になっていた。


それは曹操が袁紹の力を恐れた理由と同様、

曹操に対しての謀叛は、

即ちバックの袁紹と争うことを意味していたから。


張邈当人としてはやはり、

彼が自ら親友の曹操の首を取るというような想像までは

していなかったかもしれない。

それは飽くまで、袁紹の影響力を州内から排除することが目的で、

だから兗州でのクーデターも、

曹操にとにかく兗州内から出ていってもらうといった、

それを第一目的とした行動だったに違いない。


だから徐州から帰還してくる曹操軍を国境の要害で迎え撃たず、

全ての県城を奪い去ってしまうことで、

曹操をそのまま国外追放にしようとしたのだろう。


曹操は歴戦の戦上手でもあり、

直接野戦を行って争うには非常に危険な相手だった。


張邈は小心で、そして物事に対して非常に慎重で繊細な男だった。


“もし万が一、上手くいかなかったときは・・・?”と、


その場合の心配が、常に彼の頭の中にはある。


だから反董卓連合結成の際も、

挙兵は自分達のほうから提案しておきながら、

盟主は第三者の袁紹に押し付けた。


そして今回の兗州でのクーデターでも同じ、

今度はそれが、袁紹の代わりに呂布になった。


呂布のほうこそ、連中のいいツラの皮だったろう。


呂布は自分が兗州の領主になれると、そのことしか念頭になかったようだが、

例えば呂布の忠実な配下である高順などは、

そんなことはスッカリ見抜いてしまっていた。


だから彼は陳宮と仲が悪い。


陳宮は張邈に、

“呂布は強いから、彼を迎えれば曹操といざ戦争になっても安心だ”と、

そう言って張邈を、遂に反乱決起へと踏み切らせたが、

しかし本音のところでは、

“もし失敗したとしても、これは呂布のやったことだからと、

シラを切ることもできる”と、

そんなところだったろう。


だがそれでもそんな陳宮の言葉を受け、

実際に張邈は行動へと踏み切った。


陳宮個人としては当然、一度目の曹操の徐州遠征の際に、

反乱行動を起こしたかったろう。


曹操は一度では徐州を制圧することができず、

二度目の遠征へと向かうこととなったが、

しかしそのときはまた、二度目があるなどということも

わからなかったのだから。


だから二度目への遠征へと曹操が向かった際には、

陳宮は張邈を厳しく問い詰め、

まさに彼の尻を後ろから蹴り飛ばすようにして、

遂に張邈を曹操への謀叛へと踏み切らせた。


が、

やはり物事、そう全てが上手くいくというわけにはいかない。


張邈の挙兵のため、必要とされた呂布の存在が、

結局は反乱計画成功の妨げとなる障害にもなってしまった。


自業自得ともいえるが、

この辺りはやはり、皮肉な運命の巡り合わせといったところだろう。




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