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反乱へのカウント・ダウン④ ~曹操と鲍信、青州黄巾との戦い~

冀州の袁紹の下を離れ、兗州へと進出した曹操と鲍信。

しかしそこへ青州黄巾100万の軍勢が大挙して兗州内に乱入。

曹操と鲍信は再び二人で協力し合い、この戦難へと立ち向かっていく。

【東郡太守就任】


曹操は兗州陳留郡で、親友の張邈らと反董卓連合軍を結成し挙兵したが、

しかしその張邈以下、兗州諸侯の戦意のなさに見切りをつけ、

盟友の鲍信と共に、連合盟主である冀州河内郡の袁紹の下へと立ち去ってゆく。


曹操はそこで袁紹の庇護を受けつつ、戦いを続けていくこととなるのだが、

しかしそこでの戦いは、もはや董卓から都の献帝を救出するための

戦いなどではなく、

冀州の地で独立を目論む袁紹と、それに反発して関係をこじらせた、

荊州南陽郡の袁術を中心とした、その他の反董卓連合諸侯と、

同じ味方同士での仲間割れの争いだった。


袁紹は冀州牧だった韓馥から州牧の地位を強奪すると、

先ずは北平の公孫瓚を界橋の戦いで撃破。


公孫瓚との戦い自体、袁紹の弟である袁術が公孫瓚と手を組んで

行われたものだったが、

他では192年(初平三年)にも、

同じくやはり袁術の要請を受けた公孫瓚が、

今度は劉備や陶謙と連合して、袁紹、曹操領内へと侵攻。

だが袁紹はその侵攻をも、曹操と共同して撃ち破った。


またその翌年の193年の(初平四年)には、

今度は直接自ら、兗州陳留郡へと侵攻してきた袁術軍に対し、

袁紹はやはり曹操と力を合わせて撃退したりもした。


ちなみにこのとき袁術は、荊州牧の劉表から糧道を断たれてしまい、

それでそれまで彼が根拠地としていた荊州の南陽郡には留まれなくなり、

同地を追われる格好で、

やぶれかぶれに兗州内へと軍勢を引き連れ侵攻を企ててきたのだった。


しかし曹操によって野戦でコテンパに撃退され、

敗れた袁術はもう荊州へとは戻れず、今度は揚州の九江郡へと

落ち延びていった。

袁術は遠方から公孫瓚と結託して袁紹を滅ぼそうとしたが、

袁紹は袁紹で荊州牧の劉表と手を結んでいたのだった。


だが敗れた袁術も揚州の地で再起し、

そこから再び長江南岸へ支配領域を拡大させていく。


その際には袁術の部将として従っていた孫策の力が大きかったが、

しかし孫策は長江南岸の地で快進撃を続けると、

遂には袁術の手からも離れ、江東一体に勢力を築いて独立してしまうのだった。


袁紹に付いて従っていた曹操もまた、

実はこの孫策と似たような存在だった。


孫策は「江東を平定して袁術から独立しろ」と、彼に勧めた朱治の言に従い、

揚州刺史の劉繇と争って同地に覇権を確立したが、

曹操もまた盟友・鲍信の、

「黄河の南に進出し、時勢の変化を待て」との助言を受け、

袁紹の下から離れ、兗州に勢力を築き上げていくこととなっていく。



※(『三国志 武帝紀』)

二年春,紹、馥遂立虞為帝,虞終不敢當。

夏四月,卓還長安。

秋七月,袁紹脅韓馥,取冀州。

黑山賊于毒、白繞、眭固等

十餘萬眾略魏郡、東郡,王肱不能禦,太祖引兵入東郡,擊白繞于濮陽,破之。

袁紹因表太祖為東郡太守,治東武陽。

三年春,太祖軍頓丘,毒等攻東武陽。太祖乃引兵西入山,攻毒等本屯。

毒聞之,棄武陽還。太祖要擊眭固,又擊匈奴於夫羅於內黃,皆大破之。


(初平二年(191年)春、袁紹、韓馥は遂に劉虞を擁立して皇帝と為したが、

劉虞は最後まで引き受けることを承知しなかった。

夏四月、董卓は長安へと還った。

秋七月、袁紹は韓馥を脅して冀州を取った。

黒山賊の于毒、白繞、眭固らが、十万人余りの軍勢で冀州の魏郡郡、

兗州の東郡を侵略したが、

東郡太守の王肱は防御することができなかった。

すると太祖は軍勢を引率して東郡へと入り、濮陽において白繞を攻撃し、

これを破った。

袁紹はこれにより上表して太祖を東郡太守とし、東武陽で統治させた。

初平三年(192年)春、太祖(曹操)の軍が兗州東郡の頓丘に至ると、

于毒らは同じ東郡の東武陽を攻撃した。

すると太祖は軍勢を引き連れて西の山へと入り、于毒らの本拠地を攻撃した。

于毒はそれを聞き、武陽を棄てて帰還した。

太祖(曹操)は眭固を待ち伏せし、また匈奴の於夫羅を内黄において撃ち、

皆大破した。)」



曹操は兗州内へと侵攻してきた黒山賊を、

鎮圧に失敗した東郡太守の王肱に代わって撃退し、

その功で以って、彼は袁紹から上表を受け、

新たな東郡太守として任命され赴任することとなった。

またこの際、鲍信も同じ兗州内の済北国の相として赴任することが決まった。




【青州黄巾100万の来襲】


しかしそこに大事件が勃発する。


それが後世にも有名な青州黄巾賊百万人の来襲。

これまでの賊乱とは異なる、大規模な反乱軍の襲来だった。



挿絵(By みてみん)

(兗州周辺地図)



青州黄巾軍は先ず任城国の相・鄭遂を殺害し、

次いでそこから北の東平国へと入った。


来寇してきた黄巾軍に対し、兗州刺史の劉岱は果敢に迎撃に向かおうとするが、

劉岱と一緒に賊乱討伐に従っていた鮑信がそれを制止する。

敵は勢いに乗っているので、こちらから進撃するのは危険だと。

そして敵に補給物資が少ないのをみて、

先ずは守りを固めて持久戦に持ち込んだほうがいいとの助言をした。


ところが劉岱はその言葉には従わず、

強引に青州黄巾軍に戦いを挑んで返り討ちに遭い、逆に殺されてしまう。


州の長官までを失い、俄かにピンチへと陥った官軍側だったが、

そこに漸く曹操が現れる。


曹操はそれまで同じ兗州の太守でありながら、

劉岱の指揮する討伐軍には参加していなかった。

しかし陳宮の、この機会に州牧となり、青州黄巾賊を撃退せよとの進言に従い、

ここで彼が新たな兗州官軍のリーダーとして、

改めて賊徒達との抗戦が開始される展開へとなっていく。


が、

その戦いの最中、

鮑信は不慮の敵との遭遇に、曹操を守って戦死し、

ここで曹操は挙兵以来、ずっと共に支え合ってきた大切な盟友を失ってしまう。


しかし曹操は亡き友のためにも悲壮な戦いを続け、

やがて青州黄巾賊を降伏させることに成功。


降伏兵30万余、捕虜は男女合わせて100万人余りにも上り、

曹操はその中から精鋭を募って『青州兵』と呼ばれる、

彼直属の直轄兵団を編成した。



※(『三国志 武帝紀』)

「青州黃巾眾百萬入兗州,殺任城相鄭遂,轉入東平。劉岱欲擊之,鮑信諫曰:

“今賊眾百萬,百姓皆震恐,士卒無鬥志,不可敵也。

觀賊眾群輩相隨,軍無輜重,唯以鈔略為資,今不若畜士眾之力,先為固守。

彼欲戰不得,攻又不能,其勢必離散,後選精銳,據其要害,擊之可破也。”

岱不從,遂與戰,果為所殺。


<世語曰:岱既死,陳宮謂太祖曰:“州今無主,而王命斷絕,宮請說州中,

明府尋往牧之,資之以收天下,此霸王之業也。”

宮說別駕、治中曰:“今天下分裂而州無主;曹東郡,命世之才也,

若迎以牧州,必寧生民。”鮑信等亦謂之然。>


信乃與州吏萬潛等至東郡迎太祖領兗州牧。遂進兵擊黃巾于壽張東。

信力戰鬥死,僅而破之。


<魏書曰:太祖將步騎千餘人,行視戰地,卒抵賊營,戰不利,死者數百人,引還。

賊尋前進。黃巾為賊久,數乘勝,兵皆精悍。太祖舊兵少,新兵不習練,舉軍皆懼。

太祖被甲嬰胄,親巡將士,明勸賞罰,眾乃複奮,承間討擊,賊稍折退。

賊乃移書太祖曰:“昔在濟南,毀壞神壇,其道乃與中黃太乙同,

似若知道,今更迷惑。

漢行已盡,黃家當立。天之大運,非君才力所能存也。”

太祖見檄書,呵罵之,數開示降路;遂設奇伏,晝夜會戰,戰輒禽獲,賊乃退走。>


購求信喪不得,眾乃刻木如信形狀,祭而哭焉。追黃巾至濟北。乞降。

冬,受降卒三十餘萬,男女百餘萬口,收其精銳者,號為青州兵。


(青州黄巾賊の軍勢百万人が兗州へと侵入し、任城国の相・鄭遂を殺害し、

転じて東平国へと入った。

劉岱はこれを撃ちたい欲したが、鮑信が諫めて言った。:

“今、賊の軍勢は百万にもなり、百姓らはみな震恐し、

士卒にも闘志がございません。

とても敵わないでしょう。しかし賊軍を観ますに、

仲間同士で群れをなして相従っているだけで、

軍に輜重もなく、ただ鈔略だけに物資を頼っております。

今は軍士たちの気力を蓄え、

先ず固守すべきです。そうすれば彼らは攻めるに攻められず、

その勢力はきっと離散するでしょう。

その後に精鋭を選んで、要害を占拠すれば、

撃破することができるでしょう。」と。

しかし劉岱は従わず、彼らと戦って、

果たして殺されるところとなってしまった。


<(「世語」に曰く:劉岱が既に死に、陳宮が太祖(曹操)に謂いて曰く:

“州に今、主無く、王命は断絶しております。

私は赴いて州中を説得して参りたいと思います。

明府(曹操のこと)は後から尋ね往きて州牧となられますよう。

そしてそれを資として、天下をお収めください。

これぞ覇王の業です。”と。

陳宮は別駕、治中を説得して言った:“今、天下は分裂しながら州に主も無い。

曹東郡太守は命世の才の持ち主です。もし彼を州牧に迎え入れたのなら、

必ず民を生かし安んじることでしょう。”と。

済北国の相・鮑信らはその通りだと言った。)>


鮑信はそこで州吏の万潛らと東郡へ向かい、太祖(曹操)を迎えて

兗州牧を領させた。

そうして太祖(曹操)兵を進め兗州東平国寿張の東に黄巾賊を撃った。

鮑信は力戦して闘死し、やっとこれを破った。


<魏書に曰く:太祖(曹操)は步騎千余人を率い、戦地の視察に行った。

すると突然、賊徒たちの軍営に行き当たった。戦闘となったが不利となり、

死者数百人を出して、引き還した。

賊は敵を探して前進した。黄巾党は賊徒となって久しく、数々の勝ち戦に乗じ、

兵も皆、精悍だった。太祖(曹操)の軍では古くからの兵が少なく、

新兵は習練不足で、軍では挙って皆、懼れを抱いた。

太祖(曹操)は甲胄を被り、親しく将士を巡り、賞罰を明らかにすると、

軍勢はまた奮い立った。

隙をついて敵を撃つと、賊は徐々に退いていった。

賊徒たちはそこで太祖(曹操)に書を送って言った:

“昔、あなたが済南国の相としておりましたとき、神壇を破壊されたのは、

其の道は中黄太乙の道と同じであり、道をご存知と思っておりましたのに、

今は以前と変わってしまわれて、大変迷惑であります。

漢行は既に尽き、黄家が立つのは当然のこと。これは天の大運で、

あなたの才力で漢を存続させることなど不可能なことでしょう。”と。

太祖(曹操)はこの檄書を見ると、これを罵り、

たびたび降伏への路を開示していやった。

そうして奇兵や伏兵を設置し、昼〔晝〕夜に渡って会戦し、

戦うたびに捕虜を獲得し、賊軍は退走した。)>


曹操は鮑信の亡骸を賞金を出して求めたが得られず、

そこで人々は鮑信の姿に似せて木を刻み、それを祭って哭礼を行った。

黄巾賊を済北国まで追撃すると、投降を願い出てきた。

冬、投降兵三十万人余り、男女百万人余りを受け入れ、

そのうち精鋭者を収めて“青州兵”と呼び名した。)」



※(『三国志 鲍勳伝』注、「魏書」)

「太祖为东郡太守,表信为济北相。会黄巾大众入州界,刘岱欲与战,信止之,

岱不从,遂败。语在武纪。太祖以贼恃胜而骄,欲设奇兵挑击之於寿张。

先与信出行战地,后步军未至,而卒与贼遇,遂接战。信殊死战,以救太祖,

太祖仅得溃围出,信遂没,时年四十一。虽遭乱起兵,家本修儒,治身至俭,

而厚养将士,居无馀财,士以此归之。


(太祖(曹操)は兗州東郡太守になると、鲍信を上表して兗州済北国の相とした。

ちょうどそのころ黄巾賊の大軍が兗州内へと乱入し、

兗州刺史の劉岱は彼らと戦うことを欲したが、鲍信は止めた。

しかし劉岱は従わず、遂に敗れた。これは「武帝紀」に語られている。

太祖(曹操)は賊が勝利を恃みに驕っていたことから、

奇兵を設けて挑発し、兗州東平国の寿張において攻撃しようとし、

鲍信と共に、先に戦地へと出向いて行った。

しかし後続の歩兵がまだ到着しないうちに、賊軍と遭遇してしまい、

接戦となった。

鲍信は必死に奮戦して、太祖(曹操)を救い、

そうして太祖(曹操)だけは敵の包囲を突破することができたが、

鲍信は遂に戦死してしまった。時に年、四十一歳。

動乱に遭遇して兵を起こしたとはいえ、もともと儒学を修めた家柄で、

身を慎ましく治めた。

しかし将兵を厚く養[养]い、住居に財産を残さなかった。

士人はこれより彼に帰した。)」



ただここで面白いのは、

兗州刺史の劉岱は守りを固めよといった鲍信の忠告を無視し、

賊の大軍に向って無理に交戦を挑んで戦死してしまったが、

なので曹操は籠城を選択するのかと思いきや、

彼もまた劉岱と同じように、

敵に向って果敢に積極攻勢を仕掛けていったということ。


これは劉岱の戦死によって、

またかなり状況が変わってしまったのかもしれない。


だから州の長官まで討ち滅ぼした黄巾側では益々勢い盛んとなり、

下手をすれば籠城しても、そのまま相手の攻撃に呑まれてしまうといった、

そんな状況。


そのため曹操は、敢えてここで敵に向って積極攻勢に転じ、

官軍の存在感を示す必要があったのではないか。


しかし敵の大軍と正面からぶつかっては、相手の数に押し潰されてしまうだけ。

そこでとにかく先ずは今の戦力だけで勝てそうな敵の軍営を襲い、

そしてその救援にやってきた敵の援軍を待ち伏せた伏兵で撃破すると、

曹操が最も得意としていた兵法で相手を翻弄し、

そうして細かく一つずつ、確実な勝利を積み上げていく。


黄巾の農民兵達では所詮、全体を見通した上での戦局眼など持たないので、

だから大事な場面で、ここで粘るだとか、

そういった意識が全然働かない。


曹操はどんな形の勝利でも、それを積み上げることで、

敵に対して“自分達のほうが負けている。やはり官軍は手強い”といった

意識を植え付け、

敵に自分達の優勢を悟らせないようにしたかったに違いない。


そうして徐々に敵を追い詰めていく一方でまた、

相手に対して降伏の道も示していくと。


案の定、最終的に賊は自ら諦めて、官軍へと降伏を申し出ることとなった。


曹操はその中から精鋭を選んで自らの直轄軍を組織したが、

降伏を受け入れて助命することは、相手に対して恩を売ることにもなる。


そういう意味合いではむしろこの戦役は、

かなり政治的な解決だったとみることもできるかもしれない。





【青州黄巾党】


青州黄巾賊は192年(初平三年)に兗州へと侵攻する以前にも、

191年(初平二年)に、

徐州の黄巾賊とも一緒になって、総勢30万人の規模で、

冀州渤海郡のほうへと侵攻をしていたことがあった。


そのときの彼らは最終的に、黒山賊と合流しようとしていたという。

黒山賊と合流し、それから何をしようとしていたのかはわからないが、

しかしその前に、彼らは北平の雄・公孫瓚の軍によって撃退されてしまう。

公孫瓚はその際の戦勝によって7万人余りの捕虜を獲得したという。


そしてそれ以前では反董卓連合が結成されたころ、

青州では青州刺史の焦和という人物が、領主として治めていたのだが、

ところがこの人の政治が非常に杜撰なもので、

その辺りからどうも、

青州の黄巾党が勢力を伸ばし、跋扈するような状況が作られていったらしい。



※(『三国志 臧洪伝』)

「超遣洪诣大司马刘虞谋,值公孙瓚之难,至河间,遇幽、冀二州交兵,使命不达。

而袁绍见洪,又奇重之,与结分合好。会青州刺史焦和卒,绍使洪领青州以抚其众。

<九州春秋曰:初平中,焦和为青州刺史。是时英雄并起,黄巾寇暴,

和务及同盟,俱入京畿,不暇为民保障,引军逾河而西。

未久而袁、曹二公卓将战于荥阳,败绩。黄巾遂广,屠裂城邑。

和不能御,然军器尚利,战士尚众,而耳目侦逻不设,

恐动之言妄至,望寇奔走,未尝接风尘交旗鼓也。

欲作陷冰丸沈河,令贼不得渡,祷祈群神,求用兵必利,

耆筮常陈於前,巫祝不去於侧;

入见其清谈干云,出则浑乱,命不可知。州遂萧条,悉为丘墟也。>

洪在州二年,群盗奔走。绍叹其能,徙为东郡太守,治东武阳。


(張邈の弟の張超は大司馬の劉虞の下へと臧洪を派遣し、

劉虞が皇帝として即位することを相談させたが、

そこへ劉虞を攻撃した公孫瓚の戦難に出くわし、河間まで至ると、

幽州の公孫瓚と冀州の袁紹の兵が交戦していて、

使命を果たすことができなかった。

袁紹は臧洪と会見すると、これを奇として重んじ、好を結んだ。

折りしも青州刺史の焦和が亡くなったため、

袁紹は臧洪にその軍勢を慰撫させ、青州を治めさせた。

<九州春秋に曰く:焦和は初平年間(190年〜194年)に青州刺史となった。

このとき英雄は並び起ち、黄巾賊が暴れ回っていた。

焦和は反董卓連合の同盟に熱心に従事し、

他の連合諸侯と一緒に京畿(都)へと入ったが、

住民達のことを顧みる暇もなく、軍を引率して河西へと渡った。

間もなく袁紹と曹操の二公が董卓軍の将と滎陽において戦い、

負け戦の結果となった。

その結果、黄巾は勢力を広げ、城邑を屠裂した。

焦和は彼らを制御することができなかったが、

しかしなお、戦うための優れた軍の武器と多くの兵士達を抱えていた。

ところが耳目となる見回りのための偵察隊を設けていなかったため、

人々を恐動させるような妄言、デマが入ってくると、

焦和は敵の姿を遠望しただけで遁走し、

一度も土ぼこりを立て、旗指物や陣太鼓を並べて敵と戦ったことがなかった。

さらに氷を溶かす“陥氷丸”なる薬物を作って黄河へと投げ入れ、

賊徒が渡ってこれないようにし、

群神に祈祷して、用兵に必ず利があるように求め、

常に占いのための蓍木(めどぎ)筮竹ぜいちくを並べ、

巫女を側から立ち去らせなかった。

人と会ったときの清談は干雲としていたが、出陣をしても混乱し、

どう命令してよいかもわからなかった。

こうして遂に州は蕭条として、悉く廃墟と化してしまった。>

臧洪は青州に在ること2年、群盗は奔走した。

袁紹は彼の能力に感嘆〔叹〕して、臧洪を東郡の太守とし、

東武陽を治めさせた。」)



※(『後漢書 公孫瓚伝』)

「初平二年,青、徐黃巾三十萬觿入勃海界,欲與黑山合。

瓚率步騎二萬人,逆擊於東光南,大破之,斬首三萬餘級。

賊□其車重數萬兩,奔走度河。瓚因其半濟薄之,賊復大破,死者數萬,流血丹水,

收得生口七萬餘人,車甲財物不可勝筭,威名大震。

拜奮武將軍,封薊侯。


(初平二年(191年)、青州、徐州の黄巾賊三十万人の軍勢が

勃海の境から侵入し、

黒山賊と合流しようと欲した。

公孫瓚は歩騎二万人を率い、冀州勃海郡東光の南で逆撃して、大いに撃ち破り、

三万余りの首級を斬った。

賊軍は数万両の輜重車を棄てて遁走し、河を渡ろうとした。

そこで公孫瓚が、彼らの半分が河を渡ったところでが敵に迫ると、

賊軍はまた大いに破れ、

死者は数万人、流れる血で河の水は赤く染まった。

捕虜七万人余りを収得し、車両・甲冑・財物は数えきれないほどに上り、

威名を大いに震わした。

公孫瓚は奮武将軍を拝命し、薊侯に封ぜられた。)」



しかし青州黄巾は一度の撃退にもめげず、

再び前回の3倍以上の規模で、今度は兗州へと乱入。


しかしそこでは曹操に敗れて捕虜となり、

以後は曹操の直轄兵として、曹操と共に各地を転戦することに。


青州兵は曹操が生きている間は、ずっと曹操に付き従っていたが、

ところが曹操が死んでしまうと、

彼らは皆、魏国の兵隊勤めを辞めて、立ち去っていってしまったという。



※(『三国志 臧覇伝』)

「文帝即王位,迁镇东将军,进爵武安乡侯,都督青州诸军事。

及践阼,进封开阳侯,徙封良成侯。

与曹休讨吴贼,破吕范於洞浦,徵为执金吾,位特进。

每有军事,帝常咨访焉。

<魏略曰:霸一名奴寇。孙观名婴子。吴敦名黯奴。尹礼名卢兒。

建安二十四年,霸遣别军在洛。会太祖崩,霸所部及青州兵,以为天下将乱,

皆鸣鼓擅去。・・・>


(文帝(曹丕)が王位に即位すると、臧覇は鎮東将軍、

並びに武安郷侯の爵位に昇進し、都督青州諸軍事となった。

また文帝(曹丕)が帝位に践阼すると、開陽侯に封じられ、

良成侯へと移封された。

曹休と呉賊を討伐し、吕范を洞浦に破り、都に徴されて執金吾となり、

位特進(三公扱い)とされた。

軍事事件があるごとに、帝(曹丕)は臧覇を訪ねて諮問をされた。

<魏略に曰く:臧覇は一名奴寇。

孫観は一名婴子。呉敦は一名黯奴。尹礼は一名蘆児という。

建安二十四年(219年)、臧覇は別軍を派遣して洛に在った。

たまたま太祖(曹操)が崩御した。

臧覇の部曲、及び青州兵は、天下は将に乱れるだろうと、

皆、鼓を鳴らしながら勝手に立ち去ってしまった。・・・>



しかしこの青州兵について、

先ず30万の兵士に100万の捕虜という、

この数字はさすがに多すぎだろう。


当時の慣例として戦果報告は大体10倍増しというのが通例だったそうなので、

その十分の一として、

大体3万の10万といったところが穏当な数字なのではないか。


本当に30万もいたのであれば袁紹でさえ、もう恐るるに足らない。(笑)


また3万という人数も、全てが常備兵として採用されたわけではなく、

トータルでといった感じだったのではないか。

でないとこれは、裴松之も補注で自ら指摘していることだが、

後の官渡の戦いで、曹操軍が率いていた兵数が

たったの一万人しかいなかったということなどとも、

矛盾が生じてきてしまう。


また青州兵と曹操は何か、特別な契約で結ばれていたとも言われるのだが、

これもおそらくは普通に傭兵だろう。


曹操は実際、青州兵たちに対しては、

殆どエコ贔屓といっていいほどの特別扱いをしていたが、

しかしそれも単純に、

それだけ青州兵達が力を持っていたということなのではないか。


曹操は青州兵を直轄兵とする以前は、丹陽兵を傭兵として雇っていたが、

彼らから反乱を起こされている。


その理由は不明だが、

彼らは何か、自分達に不利だと思うようなことがあれば、

雇い主との関係もチャラにしてしまうようなところがある。


曹操が丹陽郡で傭兵を募り、

彼らを反董卓連合作戦の戦地へと連れていこうとした以前、

曹操軍は汴水の戦いで徐栄から軍が壊滅に追い込まれそうになるほどの、

手酷い敗戦を受けていた。

曹操はそこで減った兵員の補充のために、

わざわざ長江南岸の丹陽郡にまで出向いて、そこで募兵を行ったのだ。

しかしいくら傭兵でも、

死ぬ危険性の高い戦場へと連れて行かれるのは嫌だろう。

だから彼らが再び抗戦の現地へと近付くにつれ、

何か非常にヤバそうだとの情報が入ってきたりしたのかもしれない。


だから曹操が死んだ際に、青州兵が勝手に立ち去っていってしまったときも、

それは彼ら自身が、

「以为天下将乱,(天下はいよいよ乱れるであろうと、)」だと、

そう考えたからだという記述になっている。

詰まり曹操が死んで、後を継いだ二代目の曹丕に不安を抱き、

それで魏もまた、今後どうなるかはわからなそうだと、

そう自分達で判断をしたため、勝手に曹魏政権の傭兵を辞めて、

郷里へと立ち去っていったということのように思える。


服喪の関係上、当主の死亡時というのは非常に攻められやすく、

例えば陶謙が死んだとき、孫策が死んだとき、

何れも曹操は攻めようとしているし、

荊州への侵攻も、まさに劉表の死の直前。

冀州を奪取したのも袁紹の死後。

また諸葛孔明の北伐が開始されたのも、

曹丕が死んで直ぐ後くらいに始められている。


それと、

たとえ一兵卒に過ぎない身分でも、集団として纏まった行動を取れば、

非常に大きな影響力を持つようになる。


しかも当時の制度でいうと、州牧や州刺史といった長官達は基本、単身赴任で、

国軍も地元の豪族達がそれぞれに自分達で集めてきた、

大小の私兵集団によって構成されていた。


だからそうした地方豪族、地方軍閥の勢力に対し、

州の長官達の立場は非常に弱々しいものでしかなかった。


然るにそんな中、領主直属の直轄兵団の存在は、

自らの主権を確立するための武力、軍事力となる存在だった。


領主としての力の源であり、強権発動の実行部隊となる戦力。


逆に彼らから離反されてしまった場合、

領主のほうが身一つで放り出されてしまうこととなる。


そうした事情を考えれば、彼ら傭兵集団の存在に対しては、

誰でも気も使うようになって当然だろう。


曹操は郷里の沛国譙県から、夏侯惇、夏侯淵、曹仁、曹洪といった、

親類縁者の者達を譜代として連れてきていたが、

人数としてはまあ、

大体一郡で2~3万、一県で2~3千の動員力といったところなので、

彼らだけではとても、州内で他の豪族勢力に対し、

主権を確立できるほどの力はなかったろう。


そのために曹操は青州兵の集団を必要として、

そして腫れ物でも扱うように、大事に扱っていたものと思われるのだが、

ただ青州兵とは元々、兗州内に侵略をしてきた賊徒の集団なのだ。


そんな彼らを、曹操が州内で自らの主権を確立するための

軍事力として用いなどすれば、

返って地元豪族達からの反発を買うようなことと

なったりはしないのか・・・?


実際、青州黄巾賊撃退以前までなら、

確かに曹操は州の役人達からも望まれて、領主として就任したが、

しかし後の呂布、陳宮、張邈・張超兄弟らの起こした内乱の際には、

何と州の9割以上の城郭都市が、

全て曹操から離反するといった状況にまで変わっていた。


詰まりむしろ曹操のほうが、兗州内で他の豪族勢力から、

存在を忌避され、孤立してしまっていた。


そしてそれが・・・・・。




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