反乱へのカウント・ダウン③ ~曹操と鲍信、袁紹の下へ~
曹操は親友・張邈らのいる酸棗の兗州グループから離脱し、
盟友・鲍信と共に今度は黄河を北に渡り、
連合盟主の袁紹を頼って冀州河内郡へと移っていく。
そして袁紹の下、曹操と鲍信、二人の新たな戦いが始まる。
【曹操と袁紹の関係】
史実での袁紹と曹操の関係は、袁術と孫策の関係と同じだ。
従属の配下であり、あるいは親会社に対しての子会社、下請けといった関係。
当時の曹操、特に張邈の下を去って袁紹の下へと転がり込んだ直後でいえば、
曹操にとって袁紹の存在は、まさに「首領」ともいうべき存在だった。
袁紹もかつては曹操と同じように、董卓からの誘いにそれを蹴って、
洛陽から逃れて冀州の地へと都落ちしていったが、
都の彼の同志らの助けもあって討伐はされず、
逆に董卓から渤海郡の太守として任命をされる。
それは無理に討伐をして袁紹を追い詰めなどすれば、
返って遠い地方で仲間を糾合して独立してしまうだろうという、
侍中の周毖、城門校尉の伍琼、議郎の何颙ら、
董卓の信任を得ていた名士達の助言を董卓が受け入れたからだった。
因みに反董卓連合を結成した、
冀州牧の韓馥、兗州刺史の劉岱、豫州刺史の孔伷、南陽郡太守の張咨、
陳留郡太守の張邈らも、
彼らは皆、周毖と伍琼の推挙によって董卓から
同職に任命された者達だった。
しかしそんな彼らが後に悉く董卓に対して叛き、
反逆の兵を挙げたため、
周毖と伍琼は激怒した董卓によって処刑されてしまった。
※(『三国志 董卓伝』)
「初,卓信任尚书周毖,城门校尉伍琼等,用其所举韩馥、
刘岱、孔伷、(张资)〔张咨〕、张邈等出宰州郡。
而馥等至官,皆合兵将以讨卓。
卓闻之,以为毖、琼等通情卖己,皆斩之。
(初め、董卓は信任していた尚書の周毖、城門校尉の伍琼の推挙によって、
韓馥、劉岱、孔伷、張咨、張邈らを採用し、彼らに州郡の宰領を任せた。
しかし彼らは着任すると皆、兵を合わせて董卓を討伐しようとした。
董卓はこれを聞くと、周毖と伍琼が彼らと内通して自分を売ったのだとして、
皆、斬った。)」
袁紹も反董卓連合の一員として加わり、
そしてその盟主へと就任するが、
そもそも彼は初め、何故、都からの落ち延び先に冀州なんかを選んだのか?
ちなみに汝南袁氏の故郷は豫州の汝南郡だ。
『三国志 武帝(曹操)紀』の本文には、
恐らく曹操が兗州を立ち去って袁紹の下へとやってきた頃のことだと思われるが、
そのときの袁紹と曹操との間に交わされた言葉として、
以下のような内容が記されている。
※(『三国志 武帝紀』)
「初,紹與公共起兵,紹問公曰:“若事不輯,則方面何所可據?”
公曰:“足下意以為何如?”
紹曰:“吾南據河,北阻燕、代,兼戎狄之眾,南向以爭天下,庶可以濟乎?”
公曰:“吾任天下之智力,以道禦之,無所不可。”
(初め、袁紹が公(曹操)と共に起兵したとき、袁紹は公(曹操)に聞いた:
“もしことが成就しなかった場合、拠るべき所はどの方面かね?”と。
公(曹操)は言った:“あなたのお考えはどうなのです?”
袁紹は言った:“私ならば南は黄河を拠点に、北は燕、代を阻み、
また戎狄の軍合わせ、南に向かって天下を争っていく。
これでもう事は成ったも同然ではないだろうか?”と。
公(曹操)は言った:“私は天下の智力の者達に任せ、
道義を以って彼らを制御する。これで不可能は無いでしょう”と。)」
と、
恐らく袁紹が冀州へと向かったのは、
かつて同様にして冀州に地盤を築き、独立して皇帝となり、
転じて南に向かって天下を平定した光武帝の姿が、
念頭にあったのだろう。
詰まり初めから袁紹にとって、董卓のことなど、どうでもよかった。
袁紹としては董卓の存在など置き捨てて、
彼はせっせと一人で冀州に地盤を築き、
勢力を育んでいくことを目論んでいたに違いない。
そのため袁紹が連合の盟主を受けたのも、
彼にとってそれが自らの独立に好都合だったから。
諸侯に対して指図できる、格好の名分を得ることができるのだから。
しかし反董卓連合の盟主となりつつ、
袁紹は積極的に進んで、自分自身が直接、董卓軍と戦うこともしなかった。
むしろそんなことは彼にとって迷惑だったろう。
袁紹は反董卓連合の盟主として就任すると、
自ら提案し、当時幽州牧の地位にあった皇族の劉虞を、
都で董卓が擁立した献帝に代わる新たな皇帝として、
即位させようと連合内の各諸侯へと働き掛けを行う。
献帝の正当性を否定し、そして新たな皇帝を自分達で即位させてしまえば、
その献帝を逆賊の手から救い出すという名目自体が消滅し、
連合軍もそれ以上はもう、董卓軍と無理をして戦う必要がなくなる。
しかしこの計画は流石に、他の諸侯からの猛反対にあって失敗に終わる。
この頃から袁紹と他の諸侯達との間の関係がギクシャクしだし、
特に彼の弟の袁術との対立が激しくなっていく。
そしてその他の連合諸侯も、
その争いの渦中へと巻き込まれていくこととなる。
だが連合結成直後、
袁紹の力は然程に強いものではなかった。
彼は挙兵のために渤海郡から動員した兵士達の軍糧の殆どを、
冀州牧・韓馥からの援助によって賄っていた。
当時、冀州は他の州と比べて非常に裕福で、
兵100万に十年分の兵糧の蓄えがあるなどとも言われ、
特に韓馥が治めていた州治府の鄴は大城だったが、
しかし袁紹は実質、彼は盟主でありながら、実際の彼の軍の生死に関しては、
まさに冀州牧・韓馥の手によって握られているといった状態だった。
袁紹は新皇帝の擁立に失敗した後、
韓馥の持つ冀州牧の地位と、鄴城の簒奪を企てるようになる。
ちょうど同じころ、鄴城は北平の公孫瓚も狙っていた。
公孫瓚は騎兵戦力の豊富な強力な軍勢を擁し、
自ら董卓を討伐すると喧伝しつつ、
その実、韓馥を襲って冀州を奪い取ってしまうつもりでいた。
そこで袁紹は使者を送って韓馥を説得し、
代わりに自分が公孫瓚の相手をするからと、
まんまと臆病な韓馥から冀州牧の禅譲を受けることに成功。
ただその分、公孫瓚を敵に回すこととなり、ピンチを招いたが、
それも界橋戦の劇的な勝利で強敵を下し、
以後、袁紹は群雄として、他のライバル達から遥かに抜きん出た存在へと
躍進を遂げ、
大きな勢力を河北の地に拡げていくこととなるのだった。
【独裁者、袁紹】
曹操が袁紹の下へと鲍信らと共にやってきた時期は、
どうもまだ袁紹が韓馥から冀州牧の座を譲り受ける前の、
かなり早い時期だったように思われるのだが、
しかし袁紹がまんまと、その地位と鄴の大城を手に入れてからは、
いよいよ誰の手にも負えないほどの、
独裁者へと変貌を遂げていくこととなる。
そのころの袁紹の様子は、『三国志 武帝紀』には、
「袁紹與韓馥謀立幽州牧劉虞為帝,太祖拒之。
紹又嘗得一玉印,於太祖坐中舉向其肘,太祖由是笑而惡焉。
(袁紹は韓馥と、幽州牧の劉虞を帝と為そうと謀ったが、
太祖(曹操)はこれを拒んだ。
袁紹はまた嘗て、一つの玉印を得たことがあり、太祖(曹操)のいる座中で、
それを肘に向かって挙げてみせた。
太祖(曹操)はこれを笑いつつ、内心では不快だった。)」
などと、記されている。
玉印とは皇帝印のことだが、
袁紹はこれ以外にも、金印や銀印なども自分で製造して、
本来は皇帝の専断権である人事権をも、私しようとしたりしていた。
そのことは袁紹の政敵であった公孫瓚が、
当時、献帝のいる朝廷に対し、袁紹を弾劾した上表文にも記載されている。
※(『三国志 公孫瓚伝』注、「典略」内に記載された、
袁绍の罪状を訴えた公孫瓚の上表文)
「・・・绍既兴兵,涉历二年,不恤国难,广自封殖,乃多以资粮专为不急,
割剥富室,收考责钱,百姓吁嗟,莫不痛怨,绍罪四也。
韩馥之迫,窃其虚位,矫命诏恩,刻金印玉玺,每下文书,皁囊施检,
文曰‘诏书一封,邟乡侯印’。邟,口浪反。
昔新室之乱,渐以即真,今绍所施,拟而方之,绍罪五也。・・・
(・・・袁紹は挙兵して、既に2年が経過しながら、国難を救済せず、
自らの封地の拡大増殖に励み、多くの資材や糧食を不急のものにあて、
富裕の家から割剥し、捕縛して取調べ、銭を収めるように責め立てたため、
百姓は嘆き怨嗟し、激しく怨みを抱かない者はなかった。
これが袁紹の四つ目の罪です。
袁紹は韓馥の窮迫にその虚位(冀州牧)を窃し、天子の命令だと偽って詔を下し、
金印や玉璽を刻み、文書を下すときにはいつも、
(密書を入れる)黒い袋に封を施し、
印文には、“詔書一封、邟郷侯(邟郷侯とは袁紹のこと)印’と記し、
そむいて流れてくる者達に口にしていた。
昔、新の王莽が漢王朝に対して反乱を起こしたとき、
次第に真の皇帝となってしまいました。
今、袁紹のしていることは、これを擬した行為で、
これが袁紹の五つ目の罪です。・・・)」
袁紹は冀州にいながらに、
丸で自分の独立王国を開いたかのような感じだった。
そんな袁紹の姿を見て、
曹操と一緒に冀州へとやってきていた盟友の鲍信が、
曹操に向かってある進言を行う。
※(『三国志 鲍勳伝』注、「魏書」)
「绍劫夺韩馥位,遂据冀州。
信言於太祖曰:“奸臣乘衅,荡覆王室,英雄奋节,天下乡应者,义也。
今绍为盟主,因权专利,将自生乱,是复有一卓也。若抑之,则力不能制,
祗以遘难,又何能济?且可规大河之南,以待其变。”太祖善之。
(袁紹は冀州牧の韓馥から州牧の地位を強奪し、遂に冀州を本拠地とした。
鲍信は太祖(曹操)に進言していった:
“奸臣が争乱に乗じて、王室を覆してしまいましたが、
英雄たちが忠節[节]を以って奮[奋]い立ち、
天下の郷の者たちが呼応しておりますのは、それが正義であるからです。
今、袁紹は盟主となりながら、権力を頼りに利を専らとし、
まさに自ら乱を生み出しかねないほどです。
これではまた、一人の董卓が現れたようなものです。
しかしもし彼を抑えたいと思っても、
我々には力が足りず制御することなどできませんから、
ただ災難にまみえるだけで、何ができるでしょう?
先ずは黄河の南に進出し、時勢の変化を待つのがよろしいでしょう”と。
太祖(曹操)はこれを善しとした。)」
鲍信が曹操に言ったこの言葉は、
袁術の下でコキ使われていた孫策に向けて言った朱治の言葉と
非常に酷似している。
※(『三国志 朱治伝』)
「會堅薨,治扶冀策,依就袁術。後知術政德不立,乃勸策還平江東。
(孫堅が死去すると、朱治は孫策を助け、袁術に服従して従った。
後に袁術の政治が徳を立てられないと知ると、
朱治は孫策に江東を平定するのがよいと勧めた。)」
と、
この朱治の助言の後、
孫策は長江の南岸に揚州刺史の劉繇を討伐し、
江南一帯に独立の地盤を築き上げていった。
曹操もやがて袁紹の下から離れて黄河の南岸に進出し、
兗州に袁紹の従属支配から離れて独立の地盤を形成していくこととなるのだが、
曹操の場合はその初めとして、
彼は袁紹から東郡太守として上表され、
それが彼の兗州進出のきっかけとなった。
曹操が袁紹の下へと入り、それから東郡の太守に任命されるまで、
一体その間に何があったのか?
※(『三国志 武帝紀』)
二年春,紹、馥遂立虞為帝,虞終不敢當。
夏四月,卓還長安。
秋七月,袁紹脅韓馥,取冀州。
黑山賊于毒、白繞、眭固等
十餘萬眾略魏郡、東郡,王肱不能禦,太祖引兵入東郡,擊白繞于濮陽,破之。
袁紹因表太祖為東郡太守,治東武陽。
三年春,太祖軍頓丘,毒等攻東武陽。太祖乃引兵西入山,攻毒等本屯。
毒聞之,棄武陽還。太祖要擊眭固,又擊匈奴於夫羅於內黃,皆大破之。
(初平二年(191年)春、袁紹、韓馥は遂に劉虞を擁立して皇帝と為したが、
劉虞は最後まで引き受けることを承知しなかった。
夏四月、董卓は長安へと還った。
秋七月、袁紹は韓馥を脅して冀州を取った。
黒山賊の于毒、白繞、眭固らが、十万人余りの軍勢で冀州の魏郡郡、
兗州の東郡を侵略したが、
東郡太守の王肱は防御することができなかった。
すると太祖は軍勢を引率して東郡へと入り、濮陽において白繞を攻撃し、
これを破った。
袁紹はこれにより上表して太祖を東郡太守とし、東武陽で統治させた。
初平三年(192年)春、太祖(曹操)の軍が兗州東郡の頓丘に至ると、
于毒らは同じ東郡の東武陽を攻撃した。
すると太祖は軍勢を引き連れて西の山へと入り、于毒らの本拠地を攻撃した。
于毒はそれを聞き、武陽を棄てて帰還した。
太祖(曹操)は眭固を待ち伏せし、また匈奴の於夫羅を内黄において撃ち、
皆大破した。)」
と、
曹操の場合、
191年に東郡へと侵攻をしてきた黒山賊の撃退に功績を残し、
その功で以って、袁紹から東郡太守として任命される。
(兗州周辺地図)
東郡太守の王肱が賊軍の侵略を防ぐことができなかったことをみて、
曹操としては鲍信の助言のごとく、
代わりに自分がその賊徒を撃退することで、
それが黄河南部進出へのいいチャンスだと思ったのではないか。
そして実際に自分でその賊を撃退し、
曹操は袁紹から東郡太守任命を受ける。
またこの際、鲍信も、
鲍信は曹操の上表によって同じ兗州内の済北国の相として上表され、
任地へと赴くことに。
これで曹操と鲍信の二人は見事、
思惑通りに袁紹の直接従属の支配下から逃れ、
遠隔地での独立の地盤を掴み得ることに成功したのだった。
曹操が袁紹からの上表によってという事実が、
詰まりは彼が、袁紹の支配を受けていたことの一つの証ともなる。
しかし未だ、完全にその従属関係が解消されたわけではなかった。
袁紹はその後も韓馥から冀州牧の地位と鄴県を奪って以降も、
着実に華北で勢力を伸ばし、
やがて最大のライバルだった公孫瓚をも自害に追い込み、
遂には冀州、幽州、青州、幷州と、四州に渡る大勢力を築き上げるまでに至る。
とても曹操が力で敵う相手ではなかった。
そのため曹操は袁紹の下を離れて東郡太守となった後も、
袁紹と互いに協力して歩調を合わせながら、
彼らと敵対する勢力との戦争行為に及んでいる。
具体的には192年(初平三年)、
これはもう、曹操が青州黄巾賊を撃退し、
実質彼が兗州の領主となって以降のことだが、
そのとき袁紹と争っていた袁術の要請を受け、
袁紹と敵対する公孫瓚が、劉備や陶謙と連合して、
袁紹、曹操領内へと軍を率いて侵攻してくるという事件があったのだが、
その際に曹操はその侵攻を、袁紹と合同して撃ち破った。
またその翌年の193年の(初平四年)にも、
陳留郡へと侵攻してきた袁術軍の対し、
曹操はやはり袁紹と力を合わせて撃退している。
そして同年の193年(初平四年)から始められた
曹操の徐州遠征にも、
袁紹は将の朱霊を援軍に送って一緒に戦わせたりなどもしていた。
曹操が袁紹の支配から完全に逃れるのは、
彼が官渡の戦いで袁紹軍を撃退して以降のこととなるが、
詰まりそれまでは間接的にも、
曹操は袁紹との従属関係を断ち切ることができないままだった。
そしてそのことがまた、
新たな領主として赴任したその先での、
領内での彼の立場を悪くする結果へとも繋がっていくことと
なってしまうのであった。